クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

館林の城下町になぜ“足利町”があるのか?

2012年03月02日 | 城・館の部屋
館林城下町に“足利町”と呼ばれる一角がある。
戦国時代、足利城主“長尾顕長”が館林城を奪還し、
城下町整備に足利の人たちを呼び寄せて、
そこに住まわせたことからこの名がついたという。

 足利町ハ彦五郎足利出之人故、住居之町ハ夫ヨリ足利町ト名付申候、
 足利ヨリ引越候モノモ有之候

と、『館林記』は記している。
その年代を同書は元亀元年(1570)12月としている。
長尾顕長が“諸野因幡守”を自害せしめ、
晴れて館林城主になったという流れである。

しかし、館林城は上杉謙信の命によって“広田直繁”に与えられていた。
関東の国衆がこぞって後北条氏に寝返る中、
謙信に忠節を尽くす羽生城主広田直繁に対して、
「先忠当忠共ニ無比類神妙候」として、館林領を宛行ったのである。

直繁への褒美というよりも、
金山城主由良氏と長尾顕長兄弟を警戒してのことだろう。
皿尾城に木戸忠朝を配置して、忍城主成田氏を監視したように、
上州の不穏な動きを警戒して、直繁という楔を打ち込んだのだ。

長尾顕長は、謙信のこの処置によって館林から足利に移る。
おそらく、謙信の処置に不満を抱いたのだろう。
その不満は消えることなく、
不穏な空気を漂わせていた。

この頃、武田信玄が北条との盟約を破り、関東への侵攻を展開させていた。
信玄に対抗するために、後北条氏は敵対していた謙信と和睦を結び、
“越相同盟”を成立させる。

この同盟が成立したからこその、直繁への館林領宛行いだった。
ところが、広田直繁は館林土橋村“善長寺”によって謀殺されてしまう。
襲ったのは、先の城主長尾顕長である。
前家臣たち7騎衆を引き連れて、
善長寺で開かれていた会合の最中に突如として襲った。

この善長寺の変に関して、
『館林記』を始め、館林に残る記録類に「広田直繁」の名は見えない。
しかし、直繁であった可能性が高い。
『館林記』が記す元亀元年12月は、越相同盟が結ばれていた頃である。
いくら一発触発の雰囲気だったからとはいえ、
顕長が上杉と北条の同盟を無視するとは思えない。

ゆえに、越相同盟が決裂する元亀3年に顕長は広田直繁を襲い、
館林城主に返り咲いたのではないだろうか。
そして、足利から「小林彦五郎」を呼び寄せ、
館林城下の「町屋割立」を行った。

彦五郎は、部下たちを同じく館林に呼び寄せる。
部下の家族たちも、足利城下から館林へ移る。
そういう者が増えて、彼らの居住する一角を「足利町」と呼ぶようになったのだろう。

ちなみに、広田直繁亡きあと、羽生城は天正2年(1574)閏11月に自落。
関宿城も陥落し、上杉謙信と後北条氏の争いは、
後者に軍配が上がって一段落する。
謙信はその後も関東出陣を計画していたが、天正6年に死去。

領地をめぐって後北条氏と対決することもあった長尾顕長も、
天正18年の小田原合戦では小田原に入城。
しかし、天下統一を狙う秀吉の勢いを止めることはできず、
後北条氏の没落を目の当たりにした。

その後、顕長は領地を没収。
常陸牛久へ流され、元和7年(1621)にこの世を去る。
館林城は徳川四天王の“榊原康政”が入封し、
新しい時代を迎えていた。


足利町を示す案内板(群馬県館林市)

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