クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

寛保2年の“水害”でやってきた西国の藩は?

2011年08月29日 | 利根川・荒川の部屋
利根川流域の北埼玉の地域は、たびたび水害に見舞われていた。
いまでこそ、そびえ立つ堤防に守られ、
利根大堰ができたことによって、その下流の水位は下がり、
水害の記憶は薄れつつあるが、決して忘れてはならない。

羽生市内も利根川の堤防が切れ、
しばしば洪水に見舞われていた。
「カエルの小便で洪水になる」と言われるくらい、
板東太郎はたちまち暴れ川になったのだろう。

例えば、寛政3年(1791)8月7日に下村君で堤防が決壊。
民家5、60軒を押し流し、男女4人が死亡した。
堤村でも20軒と4人が流され、
延命寺は床下浸水したという記録が生々しく残っている。

被災した村々は、必ず復興する。
災害に屈しない精神は、
はるか昔から脈々と受け継がれている。

現在、被災した地域へ全国のボランティアが集まっているが、
往古においては、東国が被災すれば、
西国の大名にその復旧工事が幕府から命じられた。

川俣関所をも押し流した寛保2年(1742)の水害では、
毛利藩が利根川の堤修理の復旧工事にあたっている。

東国に上がってきたのは1700人。
惣奉行に毛利筑後、川奉行に清水長左衛門がなり、
その他もろもろの役に、590人以上もの人物が就いた。

寛保2年11月29日に工事を開始。
この工事に携わった人夫の数は16万にも及んだ。

東西約200里、南北90里にわたる大工事である。
費用は3万7千両以上もかかり、
工事に使用する材料も多く使われた。
若い男子に限らず、女や子ども、老人にいたるまでも工事に携わった。
その分、人や物が行き交い、
経済な影響も少なくなかっただろう。

ちなみに、西国から来た役人たちは、日帰りで戻るわけにはいかない。
当然、どこかに泊まる必要がある。
そのとき、忍領上新郷村の家々に分宿していた。

上新郷は日光脇往還の通る宿場町である。
惣奉行の毛利筑後は法性寺、
川奉行の清水長左衛門は伝六という家に宿泊した。

西国の多くの人たちが分宿したことによって、
上新郷村に新たな情報や文化がもたらされたことは想像に難くない。
中には、村の娘と恋に落ちた役人もいたかもしれない。
工事が終わって、そのまま西国に戻らなかった者も、
おそらく皆無ではないだろう。

そんな寛保2年の復旧工事は、
翌年の3月28日に落成した。
人と人とが助け合い、成し遂げた工事だった。

復旧工事が終われば、再び西国に戻らなければならない。
別れを惜しみ、北武蔵を去った者もいただろう。
一緒に西国へついていった者もいたかもしれない。
そこにはさまざまなドラマがあったはずである。
そんな歴史を湛える利根川は、
穏やかに流れている。



宿場町だった上新郷(埼玉県羽生市)



鷲宮神社の境内に建つ寛保治水碑(同県久喜市)


利根川


利根川の洪水(2007年撮影)

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