昭和57年に羽生市と福島県金山町は友好都市となった。
なぜ、この2つの地域が結びついたのだろう。
実は、4百年以上前に生きた戦国武将が関係している。
金山町にはかつて“横田城”という山城があった。
その城を守っていたのは、山ノ内横田氏という一族だった。
鎌倉幕府に仕え、奥州藤原征伐の功績により土地を与えられ、
城を築いたのは応永10年(1403)だったという。
やがて世は戦国乱世となる。
その群雄割拠の時代に、東北で一人の英雄が生まれた。
それは“伊達政宗”である。
野心に燃える伊達政宗は、領土拡大を図る。
その中に横田城があった。
当時の城主の名は“氏勝”。
氏勝は勇将だったらしい。
蘆名氏の守る黒川城が政宗によって落城したものの、
横田氏は徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。
鉄砲を撃ち、大石を落として敵兵蹴散らした。
しかし、奮戦したものの思わぬところで決着がつく。
それは、豊臣秀吉の天下統一だ。
さすがの政宗も時流に抗うことはせず、
やや遅れて秀吉に下った。
秀吉は政宗を厳しく咎めることはなかったものの、
切り取った会津の所領は没収となる。
そして“蒲生氏郷”に与えられたのだった。
これにより、氏勝は横田城を取り上げられ、
一族が長年営んできた領地から去らざるを得なくなる。
かくして流浪の身となった横田氏だが、
武蔵国に移ってきたのは寛永11年(1634)のことである。
武蔵国の榎戸村に居を構え、連綿と命を繋いだ。
そして、横田家当主が榎戸村から羽生に居を移し、
いまもその子孫が住んでいる。
横田家では代々横田城の城主であったことが語り継がれていた。
ある年、実際に会津へ足を運んでみたところ、
只見線の電車の中で地元の歴史に詳しい高校教師と偶然に会い、
止まった時間が流れ始めることとなる。
その流れはどんどん加速していった。
昭和48年10月、当時の羽生町長や郷土史家が金山町に行き、
氏勝を偲ぶ墓前祭に参加。
郷土史家江原春明は次のように述べている。
おもえば氏勝公が横田を立って越後に向かったのは天正十八年十月二日。
丸山氏が解決の糸口を得たのも、このたびの顕彰会が催されたのも、いずれも十月、
偶然とはいいながら、何か人の世の不思議な結びつきを感じないではいられない
(加藤勉『横田家の人びと』より)
昭和53年4月には、
吹上町文化財保護委員の加藤勉氏によって『横田家の人びと』が出版された。
そして、横田氏との縁がきっかけとなり、
同57年に金山町と羽生市は友好都市が締結されたのである。
“縁”は、現在だけにつながるものではない。
金山町と羽生市の友好都市は、
四百年以上も昔の縁がつないだと言えよう。
いま我々が何気なく会っている人や、親しい人は、
もしかしたらずっと昔からの縁で繋がっているかもしれない。
落語などでは、「因縁」の言葉を使っているが、
何かが巡り巡っていまがあると考えることもできよう。
横田氏勝がこの縁を見たらどう思うだろうか。
歴史は決して断絶されるものではなく、
連綿とつながっているということを教えている。
越川駅(福島県金山町)
豪雪地帯の金山町にある簑傘
なぜ、この2つの地域が結びついたのだろう。
実は、4百年以上前に生きた戦国武将が関係している。
金山町にはかつて“横田城”という山城があった。
その城を守っていたのは、山ノ内横田氏という一族だった。
鎌倉幕府に仕え、奥州藤原征伐の功績により土地を与えられ、
城を築いたのは応永10年(1403)だったという。
やがて世は戦国乱世となる。
その群雄割拠の時代に、東北で一人の英雄が生まれた。
それは“伊達政宗”である。
野心に燃える伊達政宗は、領土拡大を図る。
その中に横田城があった。
当時の城主の名は“氏勝”。
氏勝は勇将だったらしい。
蘆名氏の守る黒川城が政宗によって落城したものの、
横田氏は徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。
鉄砲を撃ち、大石を落として敵兵蹴散らした。
しかし、奮戦したものの思わぬところで決着がつく。
それは、豊臣秀吉の天下統一だ。
さすがの政宗も時流に抗うことはせず、
やや遅れて秀吉に下った。
秀吉は政宗を厳しく咎めることはなかったものの、
切り取った会津の所領は没収となる。
そして“蒲生氏郷”に与えられたのだった。
これにより、氏勝は横田城を取り上げられ、
一族が長年営んできた領地から去らざるを得なくなる。
かくして流浪の身となった横田氏だが、
武蔵国に移ってきたのは寛永11年(1634)のことである。
武蔵国の榎戸村に居を構え、連綿と命を繋いだ。
そして、横田家当主が榎戸村から羽生に居を移し、
いまもその子孫が住んでいる。
横田家では代々横田城の城主であったことが語り継がれていた。
ある年、実際に会津へ足を運んでみたところ、
只見線の電車の中で地元の歴史に詳しい高校教師と偶然に会い、
止まった時間が流れ始めることとなる。
その流れはどんどん加速していった。
昭和48年10月、当時の羽生町長や郷土史家が金山町に行き、
氏勝を偲ぶ墓前祭に参加。
郷土史家江原春明は次のように述べている。
おもえば氏勝公が横田を立って越後に向かったのは天正十八年十月二日。
丸山氏が解決の糸口を得たのも、このたびの顕彰会が催されたのも、いずれも十月、
偶然とはいいながら、何か人の世の不思議な結びつきを感じないではいられない
(加藤勉『横田家の人びと』より)
昭和53年4月には、
吹上町文化財保護委員の加藤勉氏によって『横田家の人びと』が出版された。
そして、横田氏との縁がきっかけとなり、
同57年に金山町と羽生市は友好都市が締結されたのである。
“縁”は、現在だけにつながるものではない。
金山町と羽生市の友好都市は、
四百年以上も昔の縁がつないだと言えよう。
いま我々が何気なく会っている人や、親しい人は、
もしかしたらずっと昔からの縁で繋がっているかもしれない。
落語などでは、「因縁」の言葉を使っているが、
何かが巡り巡っていまがあると考えることもできよう。
横田氏勝がこの縁を見たらどう思うだろうか。
歴史は決して断絶されるものではなく、
連綿とつながっているということを教えている。
越川駅(福島県金山町)
豪雪地帯の金山町にある簑傘
確かに、縁を感じる感性がなければ、
友好都市にはならなかったかもしれません。
“気づき”はいつの時も大事ですね。
先祖のことを調べていましたら
こちらの記事に出会いました。
丸山氏とは叔父正次さんでしょうか?
式とは昭和48年10月04日ではないでしょうか?
コメントありがとうございます。
いま、手元に資料がないので、現時点ではお答えできないのですが、
わかり次第コメントをアップしますね。
「丸山氏」とは、おっしゃるように「正次」氏を指しています。
なお、顕彰会が挙行されたのは、昭和48年10月5日だったようです。
すでに情報をお持ちかもしれませんが、何かの参考になれれば幸いです。