クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

享徳の乱で“上杉教房”が自刃したと伝えるのは? ―御壇塚―

2013年09月01日 | ふるさと歴史探訪の部屋
「享徳の乱」と聞いて、何人の人がピンと来るだろう。
歴史好きはともかく、そうでない人には聞き慣れないかもしれない。

確かに、高校の日本史Bの教科書には載っている。
ただ、ぼくの持っている教科書には、本文に出てこない。
註釈でさらりと触れられているだけだ。
当然、その単語はゴチックにはなっていない。

こういう箇所こそテストに出題されそうである。
しかし、ぼくが現役だった頃、「享徳の乱」を授業で見聞きした記憶が全くない。
テストに出た記憶すらなく、
郷土史に興味を覚えて「享徳の乱」を目にしたとき、
初めて出会った感覚だった。

そのせいだろうか。
享徳の乱で討ち死にした“上杉教房”と伝えられる場所も、ひっそりとしている。
教房(のりふさ)は幼い頃から京にいて、将軍に仕えた男だった。
「教」の字が付くのも、将軍教政から与えられたとされる。

もし、関東で享徳の乱が起こらなかったならば、
教房は京において生涯を終えていたかもしれない。
あるいは、京において公務に従事する日々を送っていたのではないだろうか。

しかし、関東において“足利成氏”が“上杉憲忠”を討ち、
享徳の乱が勃発する。
幕府は上杉氏に成氏討伐の命を下し、追討の綸旨を出した。
成氏は古河に拠点を移し、幕府軍と対決することになる。

かくして東で起こった戦乱に、上杉教房は巻き込まれる。
時代の流れと言っていい。
上杉房定に従って関東に下向。
足利成氏討伐の一端を担った。

教房はどんな気持ちで関東に下向したのだろう。
しぶしぶ進軍したのか、それとも成氏討伐に意気揚々としていたのか……。
あるいは恐怖を感じていたことも想像できる。
見知らぬ東国での合戦である。
不安を感じて当然だ。

幕府方は五十子に陣を設け、成氏の本拠古河城に向けて出撃する。
足利軍も黙ってはいない。
兵を招集し、古河を目指す幕府軍と真っ向から衝突した。
太田荘の「合下」で両軍は干戈を交えると、
利根川を越えて上野国佐貫荘羽継原でぶつかり合う。
さらに、海老瀬でも合戦が繰り広げられるという激しさだった。

これらの戦いによって、幕府軍は多くの死傷者を出してしまう。
足利成氏を追い詰めることはできず、
敗退を余儀なくされた。
このとき戦死した者の中に上杉教房がいた。
正確には「戦死」ではなく、御壇塚にて自刃したという。

戦場に出たときから死の覚悟はできていたかもしれない。
しかし、まさかの敗死だったのではないだろうか。
最後にその瞳に映っていたのは、
京に残してきた最愛の人だったか……。

「御壇塚」は、現在の埼玉県加須市にある。
かつての北川辺町柳生で、ひっそりと碑が建っている。
昭和45年建設の石碑が往時を伝えているが、
注意深く見なければ通り過ぎてしまうだろう。
ましてや、歴史好きでなければ立ち止まりそうもない。

「上杉教房」の名は、高校の教科書には載っていない。
高校生のときに使っていた『日本史B用語集』(山川出版社)にも、
その名は見当たらない。
御壇塚付近に住む人たちには、その名は浸透しているのだろうか。
関東を揺るがせた享徳の乱で散った上杉教房だったが、
埋もれていく時の中で、
御壇塚に建つ石碑がその歴史を伝えている。


御壇塚(埼玉県加須市)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昭和38年に羽生では何があ... | トップ | 語尾に“ですで”をつける? ―... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ふるさと歴史探訪の部屋」カテゴリの最新記事