広汎性発達障害(自閉症・ADHD)の男の子を育てるクリスチャン・ホームの日記

素敵な青年に育ったにいにと一緒に、サポート活動もするようになりました☆

優しい言葉

2011年11月25日 | 日々のこと
今日、息子の言った言葉でとても嬉しい気持ちになりました。


「ぼく、いいんだ。お父さんかわいそうだから、怒らないよ」

先日出かけた際に、言うことを聞いていい子でいてくれた息子に
ペ○シコーラを2本買ってあげました。
(おまけが欲しかったらしくて、話し合いの結果2本にしてあげた。)
その日は1本目の半分だけ飲んで残りは冷蔵庫にしまわせました。

翌日、風邪で体調が悪かったパパが冷蔵庫を探し、
まだあけてなかったほうのペ○シを半分ほど飲んだらしいのです。

砂糖のとりすぎが心配なので、普段はあまり息子にジュースを買い与えていません。
なので息子にとっては大切なジュースだったろうと思います。

今日のおやつに飲もうと、ウキウキと冷蔵庫をあけた息子。
気づいて怒るかな…とちょっと心配した私に
「あれ?なんでジュースへってるんだろう??」

パパが風邪ひいてね、と説明する私に向かって言ったのが
冒頭の一言でした。


夜、パパがお風呂に一緒に入ったとき、息子に謝ったそうです。
「ごめんな、ジュース半分もらっちゃったんだ」

そのときも、わが息子
「それくらいのことじゃおこらないよ…。かぞくだもん」
だって!!


体調が良くないのに仕事に行かないといけなかった父親を思いやれたのか、
はたまた既にいっぱい飲んでもう飽きていたのか??

本当のところはいまいち分からないような気もしますが、
なんだか優しい男の子になってくれたなあ、と
嬉しくなった言葉でした。

こんな優しいところもいっぱいあるうちの息子。
弱い部分よりも
いいところに目を向けてあげたいなあ、と改めて思いました。



夫の理解

2011年11月18日 | 私の支えの言葉
息子と夫はそっくりです。

赤ちゃんの頃の写真もそっくりですが、性格がとても似ています。
なので、お調子者なところも、落ち着きがないところも親に似てるだけと思っていました。

障害として診断が出てしばらくしても、夫は障害とは受け入れにくいようでした。

「こんなの男の子だったら普通だと思うけどなあ」
というのが本音だったようです。


でも、トランプなどのゲームの時にルールを守れなかったり、
宿題を手伝っているときにどうしても理解できない部分があったりと、
だんだんと「何でこれができないんだ」と思う(怒る)ことが増えていきました。


怒っても本人が理解できるようになるわけではなく、
かえって良くない影響が出てしまうかもしれません。

私としては、今までの「なんでだろう??」が「それでだったのね!」に変わり、
息子の障害を受け入れて早く前に進みたい気持ちでいっぱいでした。

そんな私からは、息子を叱って(時には怒鳴って)教えようとする夫の姿を見るのも
苦しい気持ちがありました。

診断名が出てからしばらくしたあるとき、急に夫自身も子供の頃
自分を理解してくれない大人や周囲に対して「どうして…」という思いがあったことを
思い出したそうです。

それが直接の原因というわけではないと思いますが、
だんだんと息子に対する態度を工夫している様子が見られるようになりました。


先日、息子が適当にやって間違いだけの宿題を私がやり直しさせていました。
私がかなりイライラしてしまい、その場の雰囲気が凍り付いていたそうです。

そこに帰ってきた夫が
「じゃあ、5分で全部終わったらDS15分やらせてあげる」
と言ったとたん、
息子にいきなりスイッチが入り、あっという間に宿題がきれいに終わりました。

しかも、
ノロノロやっていた時よりも正答率が高い。(というか全問正解)


まじめな母よりも遊び心のある父のほうが上手くいくこともあるんですね~。
とはいえ、
夫はわりと短気なので、のんびり屋の私のほうが上手くいくこともあります。


子育ては皆さんそうかもしれませんが、一人で抱えるのは本当に大変なことですよね。
とくにちょっと手のかかるタイプの我が息子。

夫婦ふたり協力しないと、同じ道を歩むのでも苦しいことが増えるような気がします。

聖書は夫婦関係について多くのページを割いて教えています。
それだけ、神様は夫婦の関係について大切に思っているということだと思います。

家族・夫婦は社会を構成する最初の単位とも言われますし、
最も小さな教会とも言うことができると思います。

夫は私の弱さを担い、補ってくれています。
私も夫の弱さを理解し、支えなければ。
そして互いの得意なところを生かして伸ばしあって、励ましあって
毎日を送れるといいなあと思います。

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創世記 2:18

神である【主】は仰せられた。
「人が、ひとりでいるのは良くない。
わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

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この聖句を読むと、励ましあえるパートナーがいること、
そして
夫婦という関係の奇跡を与えられていることへの感謝を思い起こします。

まわりのカップルを見ても「ああ、この旦那さんだからこの奥さんなのよね!」
という、素敵な組み合わせ(?)がたくさんあります。

「ふさわしい」パートナーを神様が用意してくださるのって
なんだかすごいですよね。



Sお兄ちゃん効果

2011年11月15日 | 日々のこと
先日、いつものように付き添いで学校に行った私に先生が話しかけてきました。

「○○くん(息子)、この2,3日なんだか…」

ドキ!何か悪いことしたのかな…。と心配する私に続けて

「とっても落ち着いてるんですよ~!」

…よかった~!

相変わらず授業はきちんと受けられるわけではないのですが、周りにちょっかいを出したりすることがなかったそうで。本に没頭したり、自分の世界で落ち着いている感じだそう。

この何日かでの変化といえば…



息子の大好きなSお兄ちゃんがうちに泊まっていたのです。

Sお兄ちゃんは教会の若い社会人の兄弟ですが、引越しなどの事情でうちに何日か滞在していました。

息子は食事の時もお風呂も一緒で、遊んでもらったりただ隣にいて話してもらったり。
気持ちが満たされていたのでしょうか。

私は最近どうしても1歳前の娘のほうに気持ちが向いてしまっていたので、息子のほうは手薄になりがちだったのだと思います。

しかもその時期、宿題や着替えなど私がやるように言いつけることすべてに「なんで!」「どうして!」「いやだ!」と連発する息子に、だんだんとこちらも頭ごなしに叱りつけてしまうことが多くなっていました。

もうだめ、どうしてもすぐに怒りたくなっちゃう、神様この状況どうにかしてください!!もうどうしたらいいんですか!?と祈っていました。

私としてはその祈りによって、私の心がもっと成長して愛深くなって息子に落ち着いて接することができるようになるとか、息子の状況が改善するとか、そんなことがそのうち起きるのかなと思っていました。

でも、神様は「もう○くんもお母さんも精一杯やってるよ、頑張ってる。ちょっと休憩させてあげる」と言ってくださった(?)のかもしれません。

Sお兄ちゃんは色々都合があり、当初の予定よりも長く2週間程度わが家に泊まりました。
その2週間で息子も落ち着き、私たち親も安心し、おまけにそのお兄ちゃんものんびりした子持ち家庭の生活のおかげ(?)か、少し前からの体調不良が良くなったそうで、みんなハッピー。

神様は私たちに必要なものをよくご存知で、その神様がくださる計画は私たちにとってちょっと意外な形でやってきて、そして私達の想像をはるかに超えるものだと改めて感じました。




療育手帳

2011年11月09日 | 日々のこと
先日、療育手帳の申請で児童相談所に行ってきました。

平日の午前中を指定されたのでその日は息子の学校を休ませて、下の子も連れて児童相談所に知能検査と面談のために連れて行きました。

相談所に行くと係りの方が二人で対応してくださり、息子は知能検査へ、私は別室で面談という流れでした。知能検査が終わるとその結果をすぐにまた面談で教えてくれました。

今回受けた検査は田中ビネー式で、約1時間程度。
面談も今までの診断経緯や、手帳を申請しようと思った理由、日常のことなどを1時間ほどで細かくお話しました。

知能検査の結果をみて、医師の診察で最終決定すると担当の方が言っていました。

息子は今まで知能検査としてはWISCを二回受けたことがあったのですが、田中ビネー式は初めて。

診断名が出たときに受けたWISCの検査では、1時間程度の検査を3回に分けて(約3時間で)やりました。
3回に分けたのは、ADHDの傾向の子供は後半は集中力が切れて正答率があがらないので、時間をかけてでも息子のできるところをしっかり診ましょう、という方針からでした。
本当は2回になる予定が、3回になってしまったんですが…。

そのWISCと今回の田中ビネー式の結果を見比べると、前回はIQが平均以上だったのに対し、今回は平均以下。
つまり、息子のペースで(休み休み)時間をかけてあげると平均以上の結果が出せるけれども、1時間という区切りがあるとやりきれない部分が出てくるのかも。

ちなみに、療育手帳についてはIQの足切りがあったので医師の診察をお願いするまでもなく不可という結果でした。

担当の方のお話では、発達障害に関しては知的障害を対象にしている療育手帳ではなく精神障害者手帳が対象になるので、そちらでの申請もご検討くださいとのことでした。
知的障害もある(IQが低めの)子供であれば、療育手帳でも精神障害者手帳でも審査に通りやすいほうで申請できるのですが…ともおっしゃっていました。
小さいうちは療育手帳で、成長してからは精神障害で、となることもあるとか。

ちなみに、精神障害の手帳では、本人への知能検査などは必要なく、主治医の診断書があれば大丈夫とのことなので、本人に学校を休ませる必要はないようです。

そもそも、手帳を申請しようと思ったのは加配をお願いするときにあったほうがいいかなと思ったのと、息子は授業での勉強はほとんど聞いていない状況なので、博物館などに連れて行って実際に目で見て勉強させないと大変かなと思ったことからです。(手帳があると公共施設の割引があるので、金銭的に少しは気が楽になるし…。)

まだちゃんと調べていないのですが、精神障害者手帳の申請は診断日から半年以降たたないと申請できないみたいなので、まずは主治医の先生に次回の診察の時に相談しようと思います。

なんだかんだと息子関連でバタバタしてますが、当の息子がひとまず学校で騒ぎを(最近は!)あまり起こしていないので、それが何よりです…。


受け入れたとき

2011年11月04日 | 私の支えの言葉
息子の元気さは障害のせいかもしれないと分かってきたとき、かなり気持ちの整理が必要でした。

小学校に入学して約1ヶ月がたったころ、まだ息子もまわりの新しい環境に対して興奮していました。

コップの入った給食袋を振り回していてお友達の顔に当たったとか、授業中に紙飛行機を飛ばそうとして隣の席の女の子の頬を叩いてしまったとか、一緒に遊びたいのをうまく表現できずにお友達を追いかけて恐がらせて泣かせたとか、見回りにいらした校長先生に「何だお前!」と言ったとか、悪いことをしたのを止めた先生につばを吐きかけたとか…。

多少元気が良過ぎることはあっても言葉遣いや目上の方への態度などは家庭でしっかりとしつけてきたつもりだったし、そんな姿を見たことがなかったので本当に驚きました。

隣の席の女の子の頬を叩いてしまったときには、先方のお母さんに電話しました。電話をかける前のあの何とも言えない緊張…胃がぎゅっと締め付けられる思いでした。

治るようなものではなく障害であるということは、これからもこのような事が起こるということです。自分がした事ではないのに、人に謝らなければならない。それは私にとって受け入れがたいことでした。「あの子のせいで、私がこんな苦しい思いをしなければならない…」

もしかしたら息子本人がその障害のせいで色々と苦しい思いをしているのかもしれない、そうは思っても私の感情としては受け入れがたかったのです。

たとえば高熱が出たとか手術が必要とかであれば、息子のことをかわいそうと思えたかもしれません。
誰かに迷惑や失礼をしても本人に自覚があるのかどうか分からず、何度注意しても改める様子が見えなかったとき、息子のことをかわいそうとは思えませんでした。

親の言うことを聞かない(ように見えた)息子。
言うことを聞かせられない自分達の子育てにも自信を失ってしまいました。

子供を愛している親として、信仰を持つ者として、頭で正しいことを分かってはいても心では受け入れられない、そんな調子で何日か過ぎていきました。

そんなある日、あることに気づいたのです。

「そういえば、私の小さい頃なんてもっとひどかった」

私は表向きはおとなしく親の言うことを聞いている「良い子」でしたが、嘘も多く、本当のところでは心の中は素直ではありませんでした。
実際に親の信頼を裏切ったこともありました。

表向きの自分と、心の中の自分。
その違いについて直面しつづけていたことも、神様という存在に対して求めるきっかけになったと思います。

5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ローマ5章6節―8節)


神様の前で、私は正しくもなく、善い人でもなく、一人の罪人に過ぎませんでした。
しかし神様はキリストを通して私を許してくださいました。
神様が私を許し、愛してくださっているのと同時に、息子に対しても同じ愛ですでに許してくださっているのだ、ということに気づきました。
そんな神様の前で、私が自分の息子を許せません、なんて言う事はできません。

もしキリストがここにいて、息子を見ていたらどうしたでしょう。
十字架の死に至るまで愛し抜いてくれたキリスト。

「大丈夫だよ、僕が君の代わりに謝ってあげるから、心配しなくていいよ。ただそこにいて、僕を見ていてごらん。どんなことがあっても僕は君の味方だから。」

そして、ただ罪を背負って身代わりになって死んでくれただけでなく、復活して私たちに希望をも与えてくれました。

どうしたらいいか見えなくなっていた私は、すでに許された者として、ただ神様が私達夫婦に預けてくださったこの子を大切にしよう、ただキリストの姿を模範とすればいいんだと思うようになりました。

まわりの人からは理解されにくい障害かもしれません。
でも、私は息子のことを理解し、愛そう。
私がまずイエスにそうしてもらったように。
そう思えたら急に楽になりました。

私がいい人になるとか、素晴らしい親に成長するとか、この障害についての知識を深めるとか、それが解決方法なのではないのだと思います。(もちろん、大きな助けにはなりますが。)

失敗続きの毎日で、怒ってしまうこともたくさんあります。
でも、自分がまず神様に愛されて許されて、イエスに理解されて支えられた存在であることを思い出すときに、私自身が安心でき、息子にも安心して接することができるようになります。

この御言葉が、そう教えてくれました。

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5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
(ローマ5章6節―11節)