広汎性発達障害(自閉症・ADHD)の男の子を育てるクリスチャン・ホームの日記

素敵な青年に育ったにいにと一緒に、サポート活動もするようになりました☆

受け入れたとき

2011年11月04日 | 私の支えの言葉
息子の元気さは障害のせいかもしれないと分かってきたとき、かなり気持ちの整理が必要でした。

小学校に入学して約1ヶ月がたったころ、まだ息子もまわりの新しい環境に対して興奮していました。

コップの入った給食袋を振り回していてお友達の顔に当たったとか、授業中に紙飛行機を飛ばそうとして隣の席の女の子の頬を叩いてしまったとか、一緒に遊びたいのをうまく表現できずにお友達を追いかけて恐がらせて泣かせたとか、見回りにいらした校長先生に「何だお前!」と言ったとか、悪いことをしたのを止めた先生につばを吐きかけたとか…。

多少元気が良過ぎることはあっても言葉遣いや目上の方への態度などは家庭でしっかりとしつけてきたつもりだったし、そんな姿を見たことがなかったので本当に驚きました。

隣の席の女の子の頬を叩いてしまったときには、先方のお母さんに電話しました。電話をかける前のあの何とも言えない緊張…胃がぎゅっと締め付けられる思いでした。

治るようなものではなく障害であるということは、これからもこのような事が起こるということです。自分がした事ではないのに、人に謝らなければならない。それは私にとって受け入れがたいことでした。「あの子のせいで、私がこんな苦しい思いをしなければならない…」

もしかしたら息子本人がその障害のせいで色々と苦しい思いをしているのかもしれない、そうは思っても私の感情としては受け入れがたかったのです。

たとえば高熱が出たとか手術が必要とかであれば、息子のことをかわいそうと思えたかもしれません。
誰かに迷惑や失礼をしても本人に自覚があるのかどうか分からず、何度注意しても改める様子が見えなかったとき、息子のことをかわいそうとは思えませんでした。

親の言うことを聞かない(ように見えた)息子。
言うことを聞かせられない自分達の子育てにも自信を失ってしまいました。

子供を愛している親として、信仰を持つ者として、頭で正しいことを分かってはいても心では受け入れられない、そんな調子で何日か過ぎていきました。

そんなある日、あることに気づいたのです。

「そういえば、私の小さい頃なんてもっとひどかった」

私は表向きはおとなしく親の言うことを聞いている「良い子」でしたが、嘘も多く、本当のところでは心の中は素直ではありませんでした。
実際に親の信頼を裏切ったこともありました。

表向きの自分と、心の中の自分。
その違いについて直面しつづけていたことも、神様という存在に対して求めるきっかけになったと思います。

5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ローマ5章6節―8節)


神様の前で、私は正しくもなく、善い人でもなく、一人の罪人に過ぎませんでした。
しかし神様はキリストを通して私を許してくださいました。
神様が私を許し、愛してくださっているのと同時に、息子に対しても同じ愛ですでに許してくださっているのだ、ということに気づきました。
そんな神様の前で、私が自分の息子を許せません、なんて言う事はできません。

もしキリストがここにいて、息子を見ていたらどうしたでしょう。
十字架の死に至るまで愛し抜いてくれたキリスト。

「大丈夫だよ、僕が君の代わりに謝ってあげるから、心配しなくていいよ。ただそこにいて、僕を見ていてごらん。どんなことがあっても僕は君の味方だから。」

そして、ただ罪を背負って身代わりになって死んでくれただけでなく、復活して私たちに希望をも与えてくれました。

どうしたらいいか見えなくなっていた私は、すでに許された者として、ただ神様が私達夫婦に預けてくださったこの子を大切にしよう、ただキリストの姿を模範とすればいいんだと思うようになりました。

まわりの人からは理解されにくい障害かもしれません。
でも、私は息子のことを理解し、愛そう。
私がまずイエスにそうしてもらったように。
そう思えたら急に楽になりました。

私がいい人になるとか、素晴らしい親に成長するとか、この障害についての知識を深めるとか、それが解決方法なのではないのだと思います。(もちろん、大きな助けにはなりますが。)

失敗続きの毎日で、怒ってしまうこともたくさんあります。
でも、自分がまず神様に愛されて許されて、イエスに理解されて支えられた存在であることを思い出すときに、私自身が安心でき、息子にも安心して接することができるようになります。

この御言葉が、そう教えてくれました。

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5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
(ローマ5章6節―11節)