紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

正しい見方は誰が決めるのか?

2004-12-27 16:54:20 | 教育・学問論
日頃は暇な教師でも走るほど忙しいという師走だが、12月に入って、一度もブログを更新できずに今日に至ってしまった。
 
有斐閣から大学に送られてくる書評誌『書斎の窓』を読んでいたら、鹿野政直氏の近著『現代日本女性史』の書評が載っていた。評者は女性法学者で、「女性の女性による女性のための歴史という枠を越えることは、これまでと異なった読者をつかむことにもなる」と好意的に評価している。
 
しかしこの書評企画自体が、男性研究者がフェミニズムを論じているのが、女性の目からみて、妥当かどうか、女性研究者に評価させるという構図になっている、といえば意地悪な見方だろうか?
 
実際、男性研究者がジェンダーや女性問題を研究したり、教えたりすることには困難が伴う。留学時代を思い出すと、まだ30代前半だった若い白人男性の講師が「来年はジェンダーと政治のクラスを教えることになった」というと、クラスにいた中年女性の学生たち(彼女たちはミッドキャリア・プログラムという、自治体や連邦政府職員のキャリアアップのための大学院コースに通っていたのだが)は、「男性のあなたにジェンダーのクラスが教えられるのか?」と一斉にからかい始めた。
 
若く、リベラルだったせいか、その先生は、『貧困と福祉の政治学』という、黒人学生ばかり履修し、事実上、黒人の福祉問題を中心に扱う授業も担当していて、同様にクラスの大部分を占める黒人学生から「白人で勉強ばかりしていた若いあなたには(黒人問題の本質は)わからないでしょう」といじめられていた。
 
女性のほうが女性に関わる問題はよく理解できる、また黒人のほうが黒人に関わる問題を理解できるということは決してないだろう。しかし「それは男性の偏見だ」、「それは白人の偏見だ」と相手に言われた場合に、きちんと反論することはかなり難しいのではないだろうか?なぜなら意識下のことを批判されてもどうしようもできないからである。そうした批判をするのは、喧嘩で親の悪口を言うのと同じように、反則技だろう。
 
同じ大学でトクヴィル論を教えていた、保守的な政治学者は、多文化主義運動を批判して、「自分たちについての定義は自分たちしかできないというのは傲慢な態度で、偏狭な姿勢だ」と常に語っていた。女性と男性、黒人と白人、歴史問題をめぐるアジア諸国と日本、ともすると議論が常に似たような隘路に陥ってしまっている。
 
差別や偏見を無くしていくためには、歴史的に差別をしてきた側とされてきた側、侵略してきた側とされてきた側の間の建設的な対話が必要だが、意識下に関わる偏見ばかりを問題にしているといつまでも道は開かれないだろう。大学をはじめとする教育機関において、時として単なるカリキュラム上の都合だけで男性がジェンダー論を教えるか、女性が教えるか決まったりするが、ミスマッチがあったとしても、すぐに「差別だ、偏見だ」という声をあげずに、議論したり考えたりする成熟した姿勢が受講生、いや社会には求められるのかもしれない。


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