ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー33 小倉山と鹿⑱

2013-10-13 08:48:15 | 日本文化・文学・歴史
安曇磯良は九州の玄界灘に舟を漕ぎだし縦横に活躍した海人族・安曇氏の祖でありながら
現代の歴史や民俗学の評価は低く「正史には登場しない一地方神で玄海の海底に眠りをむ
さぼり、その顔きわめて醜怪で、三韓出兵で神功皇后の軍隊の水先案内を務めるべく浮き
上がった謂わば精霊であり、まだ神に昇格する以前の低級なものであったが、大和朝廷に
服属した子孫の貢献あるいは画策によって精霊の地位から神にまで、あるいは海の主宰神
たる豊玉彦神の眷属、末社の地位から豊玉彦神そのものまでその神格を高めようとした事
から『姓氏録』の記事が生まれ、安曇族は地方の一部族から次第に中央に進出するに及ん
で、自らの祖神を権威づけるべく、大和朝廷の持っていた神話に登場する海神に結びつけ
て説こうとした」とかなり意地の悪い見方をしていますが、はたしてそうでしょうか?

安曇磯良は1世紀から3世紀にかけて漢の光武帝から金印を授かったことのある奴国の航
海民が海の守り神として尊崇した彼らの始祖あるいは王・族長であったはずです。ところ
が記紀では北部九州にあった倭の小国家群の情報はほとんど残されておらず、景行天皇の
頃に大和朝廷が九州の各地に居住するまつろわぬ人々を征服していく様子が記されてはい
ますが鼻垂、耳垂、麻剥、土折、猪折などおよそ人名とは言えないような文化度の低い野
蛮人のように書かれています。しかし、弥生時代の北部九州は新しい文化を携えて朝鮮半
島から渡って来た人々が小さな国を作り、大陸とも通行し半島の南端に住む人々とも同じ
文化を持った南方系の倭人(鵜伽耶)の国だったと思うのです。

『魏志』倭人伝によると彼らは男子は大人も子供も身分に関係なく顔や身体に入墨をして
おり、入墨は国によって違い左右や大きさなどによって身分を表示する役割をしていると
し、それは水に潜って魚を取る人が水中の魔物に襲われないためという。

海人である安曇部も同様の入墨を施していることを履中紀では「安曇目」と呼び刑罰を受
けたためとしていますが元々安曇部は入墨の慣習を持っていたのです。安曇磯良がその顔
きわめて醜いという表現は入墨の習慣のない人々の目には奇異に見えたことでしょう。
大国主命の呼称のひとつ「葦原醜男(あしはらのしこお)」は海人の習俗をさしているの
かもしれません。

そのような彼らを記紀や万葉集では「海人・海部・白水郎」と表記してをり、海人族には
安曇系、宗像系、隼人系があると区分されています。
最近亡くなられた谷川健一氏は海人の研究で著名な学者ですが、その著書『古代海人の世
界』(1995年㈱小学館)で海人の源郷について次のように述べておられますが、この文中
の<ヒシ>という語に私は惹きつけられました。

「第二章 漂流と移住の海人 のページ100より
 漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求をのがれた百越(中国南部に住んで
いた民族の総称)の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南と北へ渡ってきた。黒潮は屋久島
の沖で二つに分かれ、その一つが北上して対馬海峡にむかっているので、南・北九州に着
くのはほとんど同時である。その北九州に着いたものが安曇族であり、南九州に着いたも
のが隼人族ではないか、と滝川政次郎はいう。納得できる推論である。
 中国の江南地方は漁業の色彩の濃厚な浜辺であるが、他方では、中国で金属文化がもっ
ともはやく開けたところでもある。そこの海人が東シナ海を横断して九州の西海岸にたど
りついた。そのとき彼らは金属技術と水稲耕作をもたらした。また犬祖伝説をもち、竜蛇
をトーテムとする文身(入墨)の習俗を運んだ。さらには鵜飼の技術ももちこんだ、と推
測される。それらが日本古代の海人として定着したのが、古代のアマベの前身である隼人
であった。
 南漸する日本文化の運び手は九州の海人たちであったろう。羽原又吉は、九州の海人族
を宗像系、安曇系、隼人系と分けている。そのうちまず南下したのは、おそらく隼人系で
あったろう。金関丈夫は形質人類学の立場から、南九州と琉球とが体質の点で一つの圏を
なしていると述べている。通訳を介さなければ隼人の言葉を解することができなかったと
いう『旧事記』「国造本紀」の記述も、隼人が南方的要素を多分にもった海人集団であっ
たことを裏付ける。『大隅国風土記』逸文に、隼人の言葉では海中の洲をヒシ(必志)と
呼ぶとあるが、礁湖のリーフをヒシと呼ぶのは、今日の沖縄では日常にみられる。」

この文は海人についての見解が良く伝わってくる内容ですが、谷川氏がなぜ「ヒシ」とい
う語を心に留めたのかは分りません。ですが私は以前から「ヒシガタ(菱形)」という語
に何らかのメッセージが込められているのではと注意しておりました。


というのは「出雲国造神賀詞」で大和朝廷の守り神になると誓う出雲系の神々の社が飛鳥
にありますがその四社を地図上で結ぶと「大神神社を東北の頂点とし、高市御県坐鴨事代
主命神社が西北の頂点、高鴨坐阿治須伎高彦根神社(高鴨神社)が西南の頂点加夜奈留美
命神社が東南の頂点というほぼ菱形に近い不等辺四角形が成立する」と横田健一氏が著書
『飛鳥の神々』(平成4年・㈱吉川弘文館)で指摘されていたからです。

「菱形」に気をつけているうちに「菱形宮」という語に出会いました。
全国の八幡宮の総社である宇佐八幡宮の宮司である宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承・古伝
が語る古代史』(1990年木耳社)の中で「宇佐八幡宮に於いて現在の上宮はかつて<菱形
宮>と呼称されていた。その二の御殿は三世紀前半期と思われる古墳の上に建っており、
古墳の主は宇佐都臣(宇佐都稚屋臣とも・神武天皇と宇佐都媛の間に生まれた)と口伝が
あるとの事。さらに宇佐神宮には菱形をしていない「菱形池」があり、「菱形」とは「比
志方荒城潮辺」の「比志方」であるという。
この菱形池に関して『扶桑略記』にみえる縁起では、馬城峰と菱形池の間に鍛冶の翁が顕
れ、これを大神比義が三年間お祈りしたところ、三歳の童子が笹の葉に載って現われてき
て、「われは応神天皇であり、大悲せん大の菩薩である」と託宣を下したという。鍛冶の
翁は香春山の銅山を表しているとみられると中野幡能氏は述べている。

「菱形」は<出雲国造神賀詞の出雲系四神>または<出雲系四社に囲まれた飛鳥の王都>
<宇佐神宮の宇佐氏>または<宇佐神宮の祭神・応神天皇>と係わりがあります。
さらに「比志方」の「ヒシ」は隼人の語で<かくれ岩><海の中で岩が水面に見え隠れす
る礁>であり隼人をも引き出す言葉でした。これらの関連するものから「ヒシ」とは「秘
事」であろうと思われる行事があることに気が付きました。それは安曇磯良とも深く関わ
っています。次回に































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