ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 <八流の幡>の始原か? 常世物<八竿(ほこ)> <八縵(かげ>

2022-05-30 11:12:14 | 日本文化・文学・歴史

垂仁天皇条の常世の国派遣の説話は崇神天皇までの歴史記述と関わりがなく唐突感はあるものの、後段の応神天皇条に記された120県の民と共に渡来してきた秦氏の元つ国(常世)を示唆する重要な箇所のようです。

秦人についての歴史記述は宋の429年に成った『三国志・魏志辰韓伝』の「
辰韓は馬韓の東にあるが、古老が伝えて言うには秦の苦役を避けて韓国に亡命した人たちを馬韓の東側を割いて住まわせた。辰人は秦人に似ており秦韓と言うのもそのためだ。」と書く。つまり朝鮮半島に1世紀から4世紀まで存在した三韓中の一国・辰韓に秦人の集団が居住していたという伝承であり、その地域が特定されてはいないようですが井上秀雄著『古代朝鮮』(講談社学術文庫)によると、氏が韓国慶州の新羅遺跡である掛陵(ケヌン)を訪れた時に見た文臣や武臣の石像には西域風の容貌が見られ、背後に聳える吐含山(トハムサン)中腹の石窟庵の四天王などの諸仏と通ずるところがあると述べています。

また、秦氏の<ハタ>の語義については
 ① 朝鮮語の海を意味する説
 ② 機織技術を持っていたから
 ③ 梵語の<pata . patta>は<絹布>を指すから
 ④ 辺鄙の地を意味するチベット語の<ハタ>から
と諸説あります。
④の田辺尚雄氏によれば、弓月君は中国北朝の後秦の人で、後秦の民はことごとくチベット人である。チベットでは第一ということを<ウズ>。長者を<キ>。辺陲(ほとり。境。辺境の地)を<ハタ>というから「ハタのウズキ」は地方を統治する<第一の長官>という意味である。また、「ウズマサ」は<マ=の><サ=都>の意味なので、「ウズマサ」とは「第一の都市」であるという。(『日本文化史体系』3、「奈良文化」)

新羅遺跡・掛陵(ケヌン)の背後の山・吐含山(トハムサン)の<吐含>は<吐蕃>の転訛したものと考えられますが、吐蕃は後のチベット人のこと。私は秋の七草の<萩>を<吐蕃>と比定していますが、彼らも古代に西域の広範囲で活動した民族です。

 「秦氏の信仰についてー常世物<八竿><八縵>の意味」

田道間守が常世の国から持ち帰った物として伝承されていたのは、非時香果(橘)・八竿(やほこ)・八縵(やかげ)ですが日本書紀中の<八竿>を<やほこ>と読むことを疑問に思いました。古事記には<矛八矛>とありどちらが正しいのか国立国会図書館デジタルコレクション中に記紀の古写本があると知り確認してみました。
 『古事記』の最も古い写本という<国宝・真福寺本(伊勢本系統)>には<矛>
 『日本書紀』岩波文庫の底本<天理図書館所蔵・卜部兼右本>には<竿>とありましたがルビは<ほこ>
となっていました。結局漢字表記は違っていても<矛>が定説のようでした。

しかし、<竿>のルビは<かん>。意味は<棹(さお)、竹ざお>であり
    <縵>は<慣用語・マン。漢音・バン。呉音・メン>意味は<垂れ幕の布。模様や飾りのない質素   なもの>  
と記されており、<ヤホコ><やかげ>の定説に疑問を持ちました。
漢和辞典の意味を素直にイメージすれば<絹の布をつけた旗竿>。具体的なイメージでは<幡・バン=色の付いた布に字や模様を描いて垂らした旗>。さらに<八幡・やはた>とすれば<秦氏の神祇・八幡神>を指しているのではと思いました。応神天皇の時に渡来したとされる秦氏ですが、すでに垂仁天皇の時代から常世と弓月の秦氏は認識されていたようです。

 現在、八幡信仰の総社は大分県宇佐市の御許山の北北西、通称「小倉(椋)山」といわれる丘陵上にある<宇佐八幡宮>で祭神は「応神天皇・比売大神・神功皇后」。しかし平安初期までは「ヤハタの神」とか「ヤハタの宮」と呼ばれており山城国に石清水八幡宮が出来てから「宇佐神宮」と呼ばれるようになったがそれまでは「ヤハタの神」であった。

『豊前国風土記』逸文によると「鹿春(香春)の郷は、昔、新羅の国の神、自ら渡り到来て、此河原に住みき。名づけて鹿春の神という。」という。これが香春神社創始の由来譚であり宇佐神宮へ進出する起点と認識されているが、新羅の神であればまずは対馬に足跡があるはずです。

対馬の上県峰村木坂にある「海神(わたつみ)神社」は明治3年までは八幡神社であった。
社伝によると「神功皇后、新羅より還御の時、対馬の西面を船で巡検し、木坂の伊豆山は神霊の強き山なれば山上に鰭神(ひれ神・はた神)を祭祀し異国降伏を祈らんと宣し、武内大臣に命じ神籬、磐境を定め斎祭り給う」その後伊豆原に白髭の翁が顕れ、息長足媛のお告げとして県主に申すには「朕みずから新羅を討ったのではない。鰭神の助力によって討ち得たのだ。故に木坂山山頂に鰭神を祭り置いた。朕が魂もそこに在る。永く祭祀すれば異国からの守りは萬世まで続くと述べた。これを禁裏に報告すると、継体天皇の時、祭殿を建て、神功皇后、応神天皇を加え祭り、その後八幡宮と称する」
と伝えられている。また、佐賀の和多都美神社では「神功皇后三韓征伐の時、八流の幡を此の地に建て給ひ、勅誓ありし所なり。この幡は、皇后が筑前に坐セし時、宗像の神が親ら布を織り、幡を作り、皇后に授け給ひし玉津宝の御幡である」
と伝える。この木坂八幡宮では当宮の方が宇佐より古いと主張しているそうです。対馬の伝承から八幡神と幡は切っても切れない関係にある事が良く分かります。

対馬の<幡の祭祀>が<香春の神>になるまで幡を奉る社は<宗像地方>から<豊前地方>まで拡がる様子を地図上に書き込みました。

*織幡神社(織幡宮) 宗像市鐘崎
   創建について『宗像大菩薩御縁起』(15世紀中頃成立)によると
  「神功皇后三韓征伐の際に、宗像大社の神が「御手長」という旗竿に建内宿禰の織った紅白2本の旗を
   つけて戦い 
   最後にはそれを沖ノ島に立てた。その後武内大臣の神霊は異賊の襲来する海路を守護するため海辺に
   鎮座し、武内大臣が旗を織ったことから「織旗(織幡)」としたという。(ウィキペディアより)
*赤幡八幡神社 福岡県築上郡赤幡
   推古天皇18年(610年)赤幡の神が降臨したので赤幡大明神を奉斎した。(産土神名帳より)
*広幡社    全国に広幡社があるが、権田の広幡社は現在地不明。
*矢幡八幡宮(綾幡社)現在は「金富神社」 福岡県築上郡築上町湊
 元、豊前綾幡郷の郷社であり、宇佐八幡宮の元宮と言われる。宇佐に八幡神を祀る社殿(宇佐神宮)を造
 営するにあたり、斧立神事を行った。(ウィキペディアより) 
   
昔は郷(さと)郷に<ヤハタの神>が祀られていたと思われますが都市化の波に消え去ったと思われます。

 

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