前回のブログで紹介しました<ヒシ>という語は隼人の言葉で<隠れ岩・海の中で岩が水
面に見え隠れする礁>を指すものでしたが、全国の八幡神社の総社である宇佐八幡宮の上
下二つの宮のうち、上宮をかつては菱形宮と呼称し菟狭国造家の祖を葬った古墳の上に建
っているとする宇佐家の口伝がありました。
<口伝>とは口伝えに伝えるの意で①奥儀を師から弟子に口頭で教えを授けること。秘
伝の書物をも言います。<ヒシ>は<秘事>とも考えられるので菟狭族が<ヒシ方>つま
り<隼人>と同族であった可能性があります。ところが宇佐八幡宮では隼人を殺した罪を
償うために行う放生会(ほうじょうえ)が最大の祭事なのです。
この矛盾が解けそうな記述を探しますと、『宇佐八幡と古代神鏡の謎』(木村春彦他共著
2004年夷光祥出版㈱)中の「第五章1放生会とその起源ー放生会のしくみ」(木村春彦)
に出会いました。p115から引用しますと
放生会の祭りは次の三つの儀礼から構成されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/63/4573deed8da6106f3fccc9a34b418f7d.png)
第一は、勅使(後に豊前国司)が、田川郡の採銅所の古宮八幡宮に参向し、鏡を鋳造す
る。古宮八幡宮はこれを草場の豊日別宮に納める。豊日別宮はこれを神鏡として宇佐宮
に納めるという儀式である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/92/8331ab8083ec18ee0093a169eeaf321f.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/2c/502625278d8f158264f61e200e8cfa1d.png)
第二の儀式は、上毛郡の古表社(こひょうしゃ)、下毛郡の古要社(こひょうしゃ)が
船で、神体である傀儡子(くぐつ)に供奉して和間浜まで漕ぎ出し、細男舞(せいのう
まい)と神相撲を奉納する。
第三は、宇佐宮と弥勒寺・中津尾寺・六郷山が和間浜で設営準備から放生会の終りまで
営む総まとめの儀式を行い、多くの芸能を演ずる。
また、採銅所鋳造の神鏡は、勅使に供奉する豊日別社の社人とともに、官幣として国衙
を発する。この神鏡の行列は、宇佐百体社で八幡宮行列に同班して、和間浜に向かう。
放生会が執行された後、神鏡が八幡神に奉納されて、放生会の儀礼はすべて終了したの
である。
これまで放生会というと仏教の教えから捕えた鳥や魚を逃してやること、ひいてはかつて
戦いで殺した隼人への鎮魂の行事と理解していましたが、木村氏のように一連の行事を三
つの儀式に分けてみると、地祇である宇佐宮が何故に宇佐八幡宮へと変貌していったかが
見えてくるようです。
第一の儀式は勅使主導で行われる儀式であり、新羅系渡来人(秦氏)の居住する香春で
鋳造した鏡を宇佐八幡宮の神体として納めることが最大の目的であり、豊日別宮(国魂宮
とも。『古事記』のイザナミ、イザナギ神話の国産み神話で九州は「身一つにして面四
つ」とし、豊国の別名が「豊日別」)つまり、豊国の国魂の鎮まる宮を経ることによって
八幡神が豊国を掌握したことを示していると思われる。
木村氏によると、御神鏡奉納の一行は、今川の休息所に着き、草場から役人等の出迎えを
受け、夕方に豊日別宮に着く。厳粛な儀式の後、御神鏡は神殿に一時納められる。豊日別
宮は「官幣宮」とも言われ、御神鏡奉納に際して重要な役割を担っていると推測でき、当
宮を出発する時の陣容は四百数十人に及んでいるという。
第二の儀式は傀儡子(くぐつ)たちの登場である。
傀儡子とは平安時代から中世にかけての芸能で、操り人形を歌に合わせて舞わせる人形、
また人を言う。そのルーツは海人部系統の流浪民が「海人語り」しつつ全国津々浦々を巡
り、その芸能を広めていったという。そして彼ら海人族の根拠地が安曇磯良を奉祭する福
岡の志賀海神社であるとされる。
傀儡子たちの歌い伝えた「海人語り」とは一言でいえば、服従の儀礼であり、先に紹介し
た八幡諸社の縁起譚で語られる「安曇磯良が神功皇后に召しだされ<細男舞>を舞う説話
である。<細男舞>とは服従した精霊(磯良)が征服者(縁起では神功皇后。ひいては大
和朝廷?)に奉げる服従の誓いと、祝福の舞であったと考えられていますが、放生会に登
場する傀儡子たちは豊国の海人たちが新羅系秦氏に駆逐され、ついには地祇である宇佐宮
までが八幡神の鏡を御神体とする八幡宮へ変えられてしまったと思われます。そして傀儡
子たちは八幡信仰圏の拡大とともに八幡神へ隷属し「海人語り」と「傀儡子舞」の芸能を
糧としてて全国へ散っていきました。
特に摂津西宮神社に隷属した傀儡子たちは<夷かき><夷まわし>と呼ばれ、海人族芸能
の一大拠点でありましたが、近世初頭には「人形浄瑠璃」を生みだしました。この社の新
春の「福男」選びは開門と同時に多くの若者たちが境内を全力疾走する姿が見もので話題
になりますが、「逆さ門松」という変わった風習もあるようです。門松の松を逆さに飾る
のですが、その意味不明とのことですが<ヒシ>を調べている時に知った諺と関係がある
のではと思いました。その諺は「秘事はまつげ(睫)」という不思議なもの。目は遠くに
あるものを見る事が出来ても、まつげを見ることは出来ないことから、手近にあることは
かえって見えないものだ。転じて<秘事とか秘伝とかいうものは難しい所にあると思われ
がちだが案外身近な所にあるものである。>というのです。
西宮神社の門松は上部に竹、竹の下に松が逆さに据えられています。これを逆さまにすれ
ば松が上位に来るわけで、海人族のほうが古には上位であったという意思表示のように思
われます。「秘事はまつげ(睫)」は「秘事は松下」かなと推量しました。
海人族のメッセージは「海人語り」にも残されているようです。
八幡諸社の縁起によると、末尾にある共通の詞章の唱え事があったことがわかります。
彼の舞台は海中に石と成りていまに侍となむ 「八幡宮御縁起」
彼の舞台は海中に石と成りていまに侍となむ 東大寺蔵「八幡縁起」
其舞台石となりて今まで海中にあり 「衣奈八幡宮縁起」
そのぶたいいしとなりてうみのなかにいまにはんべりけり 東大寺蔵「八幡の御本地」
「室町時代物語集」
其舞台石となりて海中にいまに侍り 「八幡大菩薩縁起」「神道物語所収」
海人の祖・安曇磯良は今も海中に石と化して鎮まっておられる。と海人族は信じ、<ヒシ
>つまり<隠れ岩>という語は<安曇磯良>を思い起こさせるキーワードだったと思いま
す。
面に見え隠れする礁>を指すものでしたが、全国の八幡神社の総社である宇佐八幡宮の上
下二つの宮のうち、上宮をかつては菱形宮と呼称し菟狭国造家の祖を葬った古墳の上に建
っているとする宇佐家の口伝がありました。
<口伝>とは口伝えに伝えるの意で①奥儀を師から弟子に口頭で教えを授けること。秘
伝の書物をも言います。<ヒシ>は<秘事>とも考えられるので菟狭族が<ヒシ方>つま
り<隼人>と同族であった可能性があります。ところが宇佐八幡宮では隼人を殺した罪を
償うために行う放生会(ほうじょうえ)が最大の祭事なのです。
この矛盾が解けそうな記述を探しますと、『宇佐八幡と古代神鏡の謎』(木村春彦他共著
2004年夷光祥出版㈱)中の「第五章1放生会とその起源ー放生会のしくみ」(木村春彦)
に出会いました。p115から引用しますと
放生会の祭りは次の三つの儀礼から構成されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/63/4573deed8da6106f3fccc9a34b418f7d.png)
第一は、勅使(後に豊前国司)が、田川郡の採銅所の古宮八幡宮に参向し、鏡を鋳造す
る。古宮八幡宮はこれを草場の豊日別宮に納める。豊日別宮はこれを神鏡として宇佐宮
に納めるという儀式である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/92/8331ab8083ec18ee0093a169eeaf321f.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/2c/502625278d8f158264f61e200e8cfa1d.png)
第二の儀式は、上毛郡の古表社(こひょうしゃ)、下毛郡の古要社(こひょうしゃ)が
船で、神体である傀儡子(くぐつ)に供奉して和間浜まで漕ぎ出し、細男舞(せいのう
まい)と神相撲を奉納する。
第三は、宇佐宮と弥勒寺・中津尾寺・六郷山が和間浜で設営準備から放生会の終りまで
営む総まとめの儀式を行い、多くの芸能を演ずる。
また、採銅所鋳造の神鏡は、勅使に供奉する豊日別社の社人とともに、官幣として国衙
を発する。この神鏡の行列は、宇佐百体社で八幡宮行列に同班して、和間浜に向かう。
放生会が執行された後、神鏡が八幡神に奉納されて、放生会の儀礼はすべて終了したの
である。
これまで放生会というと仏教の教えから捕えた鳥や魚を逃してやること、ひいてはかつて
戦いで殺した隼人への鎮魂の行事と理解していましたが、木村氏のように一連の行事を三
つの儀式に分けてみると、地祇である宇佐宮が何故に宇佐八幡宮へと変貌していったかが
見えてくるようです。
第一の儀式は勅使主導で行われる儀式であり、新羅系渡来人(秦氏)の居住する香春で
鋳造した鏡を宇佐八幡宮の神体として納めることが最大の目的であり、豊日別宮(国魂宮
とも。『古事記』のイザナミ、イザナギ神話の国産み神話で九州は「身一つにして面四
つ」とし、豊国の別名が「豊日別」)つまり、豊国の国魂の鎮まる宮を経ることによって
八幡神が豊国を掌握したことを示していると思われる。
木村氏によると、御神鏡奉納の一行は、今川の休息所に着き、草場から役人等の出迎えを
受け、夕方に豊日別宮に着く。厳粛な儀式の後、御神鏡は神殿に一時納められる。豊日別
宮は「官幣宮」とも言われ、御神鏡奉納に際して重要な役割を担っていると推測でき、当
宮を出発する時の陣容は四百数十人に及んでいるという。
第二の儀式は傀儡子(くぐつ)たちの登場である。
傀儡子とは平安時代から中世にかけての芸能で、操り人形を歌に合わせて舞わせる人形、
また人を言う。そのルーツは海人部系統の流浪民が「海人語り」しつつ全国津々浦々を巡
り、その芸能を広めていったという。そして彼ら海人族の根拠地が安曇磯良を奉祭する福
岡の志賀海神社であるとされる。
傀儡子たちの歌い伝えた「海人語り」とは一言でいえば、服従の儀礼であり、先に紹介し
た八幡諸社の縁起譚で語られる「安曇磯良が神功皇后に召しだされ<細男舞>を舞う説話
である。<細男舞>とは服従した精霊(磯良)が征服者(縁起では神功皇后。ひいては大
和朝廷?)に奉げる服従の誓いと、祝福の舞であったと考えられていますが、放生会に登
場する傀儡子たちは豊国の海人たちが新羅系秦氏に駆逐され、ついには地祇である宇佐宮
までが八幡神の鏡を御神体とする八幡宮へ変えられてしまったと思われます。そして傀儡
子たちは八幡信仰圏の拡大とともに八幡神へ隷属し「海人語り」と「傀儡子舞」の芸能を
糧としてて全国へ散っていきました。
特に摂津西宮神社に隷属した傀儡子たちは<夷かき><夷まわし>と呼ばれ、海人族芸能
の一大拠点でありましたが、近世初頭には「人形浄瑠璃」を生みだしました。この社の新
春の「福男」選びは開門と同時に多くの若者たちが境内を全力疾走する姿が見もので話題
になりますが、「逆さ門松」という変わった風習もあるようです。門松の松を逆さに飾る
のですが、その意味不明とのことですが<ヒシ>を調べている時に知った諺と関係がある
のではと思いました。その諺は「秘事はまつげ(睫)」という不思議なもの。目は遠くに
あるものを見る事が出来ても、まつげを見ることは出来ないことから、手近にあることは
かえって見えないものだ。転じて<秘事とか秘伝とかいうものは難しい所にあると思われ
がちだが案外身近な所にあるものである。>というのです。
西宮神社の門松は上部に竹、竹の下に松が逆さに据えられています。これを逆さまにすれ
ば松が上位に来るわけで、海人族のほうが古には上位であったという意思表示のように思
われます。「秘事はまつげ(睫)」は「秘事は松下」かなと推量しました。
海人族のメッセージは「海人語り」にも残されているようです。
八幡諸社の縁起によると、末尾にある共通の詞章の唱え事があったことがわかります。
彼の舞台は海中に石と成りていまに侍となむ 「八幡宮御縁起」
彼の舞台は海中に石と成りていまに侍となむ 東大寺蔵「八幡縁起」
其舞台石となりて今まで海中にあり 「衣奈八幡宮縁起」
そのぶたいいしとなりてうみのなかにいまにはんべりけり 東大寺蔵「八幡の御本地」
「室町時代物語集」
其舞台石となりて海中にいまに侍り 「八幡大菩薩縁起」「神道物語所収」
海人の祖・安曇磯良は今も海中に石と化して鎮まっておられる。と海人族は信じ、<ヒシ
>つまり<隠れ岩>という語は<安曇磯良>を思い起こさせるキーワードだったと思いま
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