ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥 9 兜跋毘沙門天像の冠を被った天智天皇像

2015-01-07 17:48:02 | 日本文化・文学・歴史
新年おめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今朝、テレ朝の「モーニングバード」で浅草の待乳山聖天(まっちゃましょうてん)の<大根まつり>
を変わった祭りとして紹介していました。拝殿の前の台には参拝者が持参した大根が積み上げられており
この大根は後にふろふき大根としてふるまわれるそうです。大根を何故神様に奉げるのか理由は不明の
ようでしたが、私には思い当たる事があります。

今日は1月7日。古来<人日>とされ七草粥を炊いていただく風習がありました。当ブログの2012年1月に
「七草粥」として<春の七草>が<秋の七草>と対をなす暗号ではないかと推理しました。待乳山の聖天
様に奉げる大根は(人日)の七草粥(春の七草)のひとつの<すずしろ(大根)>を指していると思いま
す。そして本来の読みは<おうね>。『出雲国風土記』で語られる<意宇>の<根>を暗示しているよう
です。『出雲国風土記』の意宇郡の章には有名な「国引き神話」があり<楮衾志羅紀の三崎を国来国来と
曳いてきた>と記されており、出雲と新羅のつながりを伝えています。


この『出雲国風土記』の国引き神話と<大根まつり>の関連をうかがわせる地名が現在もあります。地図
から中海に浮かぶ大根島(だいこんじま)、国引きした<八束水臣津野命>にちなむ八束を見つけること
が出来るでしょう。

また出雲王家の紋章<交い矛>が<大根紋>に変えさせられたという出雲王家の末裔である富氏の証言も
あります。当ブログ「伏見稲荷神符18<交い矛>から<交い大根>への変遷」(2009年9月28日)をご
覧ください。

現在のブログの表題「謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥」は藤原定家が詠んだ「詠花鳥和歌12ヶ月」中の
10月の取り合わせから採りましたが、この組み合わせは<秋の七草>の<藤袴>と<古今伝授・三木三
鳥>の<稲負鳥(いなおうせどり)>に対応するもので日本国の成立に新羅が関わっていると発信してい
るのです。

浅草の待乳山聖天がどのような寺院か検索すると、浅草寺の子院で山号が待乳山(瞿薩旦那国の地乳を連
想させますね)。795年(推古天皇3年)創建。聖観音宗の本流院(守護神は龍)で本尊は歓喜天と十一面
観音であるが、この寺には七福神のひとり毘沙門天も祀られている。

今年最初のテーマと考えていたのが毘沙門天。毘沙門天が大根祭りを通じて出雲や新羅とつながりがある
らしいと知ることが出来て、初詣の三島大社で大吉のおみくじをひいた効果が早速あったようです。

毘沙門天といえば私の遠い記憶の中に、祖母の腰巾着のようについて歩いた私がおり、その行き先は新寺
小路の菩提寺と毘沙門さまでした。あれはいったい何処だったのかとしらべてみると荒町に毘沙門堂があ
り墓参りの道すがら立ち寄ったようです。祖母はいったい何を祈ったのでしょうか。

それから数十年経た頃に万葉集の山上憶良詠の<秋の七草>が日本のルーツを伝える暗号歌ではないかと
いう疑問を持ち調べていくうちに<萩>とされたのは青森県木造町から発掘された遮光器土偶を模したと思
われるアラバキ神を祀る荒吐族であろうと比定しました。そして遮光器土偶は西域の敦煌の莫煌窟45窟の
天王像とそっくりであり、彼らのルーツが西域である可能性があると思うようになりました。

上図は左から兜跋毘沙門天。多聞天。莫煌窟45窟の天王像。遮光器土偶。

天王とは仏教の天部に属し四方を守る守護神で四天王がおり、北方を守るのが多聞天。多聞天は単独で祀
られる場合があり独尊の時には毘沙門天と呼びならわしています。また、毘沙門天像のなかで西域風の特
徴を持った像があり兜跋毘沙門天と区別されています。
平安京の南正面にあった羅城門上には兜跋毘沙門天像が安置されていたとのこと、この像は京都の東寺に
現存しており私も拝観しましたが、凛々しい面貌と独特な鎧を身に付けた姿には存在感があり心に強く残
りました。

それからしばらくして友人から借りた小倉遊亀さんの画集のなかに兜跋毘沙門天像の冠とそっくりな冠帽
を被った天智天皇像が描かれていることに気がつきました。この絵を描いたいきさつのエッセイが付され
ていましたので紹介いたします。( )内は私が要約しました。

 『百歳記念画集・小倉遊亀展』(平成7年朝日新聞社)から

 近江は私の郷里である。小学校、女学校と大津で過ごし、あとは奈良、京都、鎌倉とまるで日本史のあと
を追うように暮らしてしまった。奈良京都は、奈良女高師の水木先生にリードされてすっかり古美術行脚を
したくせに、近江にかくれた数多い古美術があるのを書物の上では知りながら一度も足をのばしたことが
ないなんてまことに情けないことだと、もう老いて足の自由がきかなくなった昨今、気がついた。

(そこで彼女は琵琶湖文化館の石丸氏に案内を乞い湖国のあちこちを訪ね始めたという。)

と、一昨昨年、とあることから天智天皇の御神像が、こともあろうに、小学校時代を過ごした膳所(ぜぜ)
の石坐(いわい)神社に御鎮座なさっていることを竹内将人氏から伺い、その拝観を熱望し、ついに単身
石坐神社に駆けこんで宮司の井戸村さんにお目にかかりるると嘆願申しあげたが、不可能であった。

(この像は秘像であるが5年に一度の御開帳があり、午前零時、真っ暗闇の中で儀式を行うという。儀式
に参列出来るのは三人と限られている。一週間の斎戒沐浴のあと儀式に連なるが希望されるなら貴女も加
えましょうと言われ心まちしていたが、約束の2月11日にはやむをえぬ事情で出席できなかった。御縁
がなっかたものとあきらめかけたが、一目拝ませていただけるという吉報が届き、膳所町西ノ庄にある石
坐神社に駆けつけた。)

私はそっと御神像の前に坐った。藤原期作ということであるが、秘して世に出なかったせいか紅色の丸襟
の袍を召した色彩が、かなりいぶされながらもはっきり残っていた。
 私は天皇のお顔の正面を凝視した。そして右方の眉をやや上に上げ眼尻に怒りの相をかすかにこめて居
られる深刻な御表情を感じ目立たぬように気をつけながら、この御像の作者が、近江朝没落の秘史をこの
御像にこめて、天皇のご冥福を祈りながら一刀一刀うごかしているのを感じた。
 御神像をまのあたり拝してからは、自分の心にきざしていた構図も色彩も、最初の意図は不要になって
しまった。

(歴史はようとして闇のなかにあり、天智天皇の業績なども今後の研究によって明かされることを期待す
るとして、自分は深々とひとりの人間天皇の存在を思うだけであり、この神像を刻んだ刀工の心と同様に
歴史のひとこまとして悲劇の人物を思う心を端的に描こうと決意する)

むつかしかった。十数枚の下絵と何度消しても気に入らない天皇のお顔の表現を塗りつぶし塗りつぶした
本画。この絵はむろん不十分な絵であるが、これから私の作画の上に一つのヒントを与えて頂いたと思っ
ている。 了

上図は天智天皇像を参考にして描いた小倉遊亀画の「天武天皇像」。薬師寺の天武忌の法要にはこの絵が
本尊として祀られているという。

琵琶湖の湖岸の小さな神社に秘蔵されていた木彫の天智天皇像が何故に兜跋毘沙門天の冠帽をかぶってい
たのか謎です。そして他にも同様な神像があるかもしれません。探してみることにしました。











































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