平成から令和へ元号が変わる節目を、お祭り好きな国民性は大いに盛り上がっており、退位や即位の礼が一幅の
絵巻物のように執り行なわれるのだろうかと私も興味津々でその日を待っています。
そして太平洋戦争終結以来74年間続いてきた平和が令和の時代にもずっと続きますようにと願ってやみません。
日本の古代史を考える場合、正史は天皇を頂点とする大和朝廷側の歴史記述であって、九州には九州の、出雲には
出雲の、吉備には吉備の、越には越の、東国には東国の歴史がある事はあたりまえですが、地方の歴史の記録はほ
とんど残されていません。
このような中で『日本書紀』の編纂に関わった上毛野氏が、上毛野国に係わる暗号めいた謎の文章を推古天皇紀35
年条に残した可能性がある事に気がつき、前々回からのブログで取り上げてきました。
①推古天皇35年条
「春2月に陸奥国に貉(うじな)有りて人に化りて歌うたふ。」
②「夏5月に蠅有りて聚集る。其の凝り累なること十丈(とつえ)ばかり。虚(おほぞら)に浮かびて信濃坂を
越ゆ、鳴る音雷の如し。即ち東のかた上毛野国に至りて自(おの)づから散(ちりう)せぬ。」
①は陸奥国に高句麗と同系の貉という民族が渡来していて歌うたう。
②は大伽耶の伴跛(高霊)の国の民が集団で信濃方面経由で上毛野へやって来て散り散りになった。
と推量しました。そしてこれらは当ブログで2018年5月から現在に至るテーマ「尉仇台の子孫が倭王になったか?」
で取り上げている<北海(きたつうみ)ルートから日本列島に渡って来た高句麗系の民族が、陸奥を経由して東国
(上毛野、下毛野、武蔵、常陸、上総、下総)を成立させた主役たちであろう。>という推論を補強する伝承では
ないかと思いました。
何故なら陸奥と狢(高句麗系民族)、上毛野というキーワードが揃っていたからです。
また、初めは意味不明だった<歌うたふ>が藤原定家作の伝承歌
「陸奥の外の浜なる呼子鳥 鳴くなる声は<うとう>やすかた」
を指している事も分かりました。
<うとう>とは鳥の名前(チドリ目ウミスズメ科の海鳥。全長37、5㎝。頭から尾まで背面は黒褐色、腹は白色、夏
羽では顔に二条の飾り羽がある。)で<善知鳥><烏頭>と表記されており<能・謡曲・神社名>など様々な伝説が
伝えられていますので、紹介しながら核心部分を探したいと思います。
ウトウ情報
*善知鳥神社 青森県青森市安方に鎮座。創祀年代不明。祭神は宗像三神(田霧姫・湍津姫・市杵島姫)。
社伝では807年に坂上田村麻呂が再建したという。古くは弁天社と呼ばれ、中世には領主・南部氏の
崇敬を受け、津軽藩時代に入った藩の祈願所として保護を受けたという古社。
*能の「善知鳥」喜多流では「烏頭」
四番町目物 五流現行。
生きるために犯す人間の罪の原点をえぐって、テーマ、詞章、演出ともに傑出する能とされる。
粗筋 「陸奥へ行脚する僧(ワキ)が、地獄谷のある越中国(富山県)立山でもと猟師であった老人姿の
亡者(前シテ)から故郷への伝言を託される。亡者の妻子(ツレと子方)に会った僧は死者を弔う。
後シテは猟師の亡霊で、子の鳴き声をまねて親鳥を殺し、親鳥の声で小鳥を取った報いに、亡者の
目には妻子の姿が見えなくなる。殺生に日を送った悔恨、だがまた猟の興奮が甦る。
杖を振るって鳥を落とす<翔(かけり)>と称される写実的な演技は圧巻で、この能独自のもので
ある。
*安方 「藤原安方」
平安前期、藤原南家、藤原清名の子。従四位下阿波権守。
清和天皇、上皇に仕え、上皇出家に従い安方も出家した。
伝説 善知鳥大納言藤原安方朝臣が(允恭天皇の頃に?)青森に流されこの浦に隠れ給うた。この方が
この島の御霊の鳥となって海に群れ磯にて鳴けるを住人はこの鳥を善知鳥(うとう)と呼び、住んだ
土地を安潟と称して御霊を祀ったという。
*その他 安倍貞任の臣・鵜藤安方が貞任の遺児を連れて津軽の外が浜に逃れ漁師になった。
藤原泰衡の頃、津軽に郡を支配した安倍貞任の家臣・善知鳥文治安方の居館跡である。(岩手県紫波町
赤石史話)など平泉の藤原氏と結びついた伝承もある。
以上様々な伝承がありますが、これぞという明確な答えが簡単には見つかりませんでした。伝承の中にヒントはあるはず
<うとう>の言葉から何を伝えたいのか?を探ってみましょう。
まず善知鳥神社の祭神が宗像三神であれば海や海人族に関わっていると思われます。
能の主題は子の鳴き声で親を呼び寄せ殺し、親の鳴き声で子をおびき出し殺す卑劣なだまし討ちをした猟師の悔恨であるが
<善知鳥>と言う海鳥が害鳥という訳でも無さそうなのに、親も子も殺して何故絶滅させる必要があるのか?<うとう>は
何かの比喩として語られているのではないかと思いました。
もう一つ注目したのは善知鳥神社を再建したのが坂上田村麻呂と伝えられている事です。
坂上田村麻呂は平安初期に活躍した武将ですが桓武天皇の蝦夷征討において武将としての器量を大いに発揮して活躍しまし
た。791年近衛府の少将から征討副使となったのを契機に796年には陸奥出羽按察使→陸奥守→鎮守府将軍→征夷大将軍に任ぜ
られ、801年の第三次征夷征討の際に節刀を受けて赴き4万の軍を率いて攻め、胆沢の地を攻略し、翌年には胆沢城を築き
鎮守府を多賀城から移し、803年にはさらに北進し志波城をつくり朝廷側の蝦夷地攻略に多大な功績を残しました。
蝦夷征討の総大将として蝦夷殺戮に深く関わった坂上田村麻呂が、宗像三神を祀る善知鳥神社を再建したという伝承に私は
違和感を覚えました。坂上氏は東漢氏から分かれた渡来氏族ですから海人族とは関わらないはずです。それを祀ることは蝦夷
征討で殺したものへの鎮魂であり、善知鳥は海人族の比喩として用いられた可能性があることに気が付きました。
そこで思い浮かんだのが、記紀で神武天皇の前代の鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の鵜です。この名称は<鵜
(族)の伽耶を成立出来なかった命>と私は理解しており、鵜は沖縄語で<アタ>といいます。
日本の建国神話によれば、筑紫の日向の高千穂峰に天下りした邇邇芸命(ににぎのみこと)が結婚した相手は大山津見神の娘
の神阿多都比売(またの名は木花佐久夜毘売)。花嫁の名の阿多は薩摩の地名で隼人の居住地から名付けられています。
この夫婦から火照命(海幸彦・隼人の阿多君の祖)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦・子供が鵜葺草葺不合尊。孫が神武天皇
大和朝廷の祖とされる。)いわゆる三貴子が誕生します。
日本の建国神話で母なる神とされる神阿多都比売にはさらに興味深い別名が記されています。『日本書紀』の本文では<木花
佐久夜毘売>の別名を<神阿多都比売>。第二の一書が<神阿田鹿葦津姫(かみあたかしつひめ)>第五の一書が<阿田鹿葦
津姫>第六の一書が<豊阿田津姫>と記し、居住地の<阿多=阿田>がすべてに含まれ、ふたつに<鹿葦津・かしつ>が含ま
れています。<かしつ>をどこかで見た記憶がありませんか?
前々回のブログで紹介したのが『三国史記』新羅本紀による大伽耶の伴跛(高霊)の王名が<嘉悉・かしつ>王でその子孫が
渡来しています。時代も場所も離れていながら共通している<かしつ>とは隼人族が伽耶と薩摩に居住していたが、推古紀の
暗号により上毛野にも隼人族が渡来したという証になるのではないでしょうか。
もう一つ①と②の文章がひと続きの暗号である証のキーワードが<善知鳥>であると教えてくれたブログがありました。
『井出敏博の日々逍遥ーウトウの頭の考証学』という上質なブログです。
井出氏は登山を趣味となさる方と思われ、奥多摩のタワ尾根に<ウトウの頭>と呼ばれるところがあり<ウトウ>の由来を
色々調ベられた記事の中に信濃にある<善知鳥峠>を紹介していました。
そこは長野県辰野と塩尻の境に位置し、伊那と三河を結ぶ三州街道の峠であり、太平洋と日本海の分水嶺ともなっているという。
<善知鳥峠>は他にもあり、箱根仙石原の乙女峠は鎌倉古道の当時は<善知鳥峠>と言ったという説もある。
また、秋田と岩手の県境にある真昼岳の山裾に<善知鳥渓谷>があると言う。
②の文章は「夏5月に蠅有りて聚集る。其の凝り累ること十丈ばかり、虚に浮かびて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷の如し。則ち東
の方、上毛野に至りて自ずから散せぬ。」です。文中の<信濃坂を越ゆ>にあたる箇所を<善知鳥峠>としたことで推古紀35
年条の①と②を繋ぐキーワードになったと思われますが、実際に地図を見ると上毛野国への道程はかなり遠く、現在の善知鳥
峠が正しい善知鳥峠であったか疑問を持ちました。しかし<善知鳥峠>の呼称が1300年も経た今でも信州に伝えられてい
た事は驚くべきことであり①と②の記述は暗号であると確信しましたが、これほどまでに<善知鳥>に拘る理由は一体なんで
しょうか?次回に続けます。
絵巻物のように執り行なわれるのだろうかと私も興味津々でその日を待っています。
そして太平洋戦争終結以来74年間続いてきた平和が令和の時代にもずっと続きますようにと願ってやみません。
日本の古代史を考える場合、正史は天皇を頂点とする大和朝廷側の歴史記述であって、九州には九州の、出雲には
出雲の、吉備には吉備の、越には越の、東国には東国の歴史がある事はあたりまえですが、地方の歴史の記録はほ
とんど残されていません。
このような中で『日本書紀』の編纂に関わった上毛野氏が、上毛野国に係わる暗号めいた謎の文章を推古天皇紀35
年条に残した可能性がある事に気がつき、前々回からのブログで取り上げてきました。
①推古天皇35年条
「春2月に陸奥国に貉(うじな)有りて人に化りて歌うたふ。」
②「夏5月に蠅有りて聚集る。其の凝り累なること十丈(とつえ)ばかり。虚(おほぞら)に浮かびて信濃坂を
越ゆ、鳴る音雷の如し。即ち東のかた上毛野国に至りて自(おの)づから散(ちりう)せぬ。」
①は陸奥国に高句麗と同系の貉という民族が渡来していて歌うたう。
②は大伽耶の伴跛(高霊)の国の民が集団で信濃方面経由で上毛野へやって来て散り散りになった。
と推量しました。そしてこれらは当ブログで2018年5月から現在に至るテーマ「尉仇台の子孫が倭王になったか?」
で取り上げている<北海(きたつうみ)ルートから日本列島に渡って来た高句麗系の民族が、陸奥を経由して東国
(上毛野、下毛野、武蔵、常陸、上総、下総)を成立させた主役たちであろう。>という推論を補強する伝承では
ないかと思いました。
何故なら陸奥と狢(高句麗系民族)、上毛野というキーワードが揃っていたからです。
また、初めは意味不明だった<歌うたふ>が藤原定家作の伝承歌
「陸奥の外の浜なる呼子鳥 鳴くなる声は<うとう>やすかた」
を指している事も分かりました。
<うとう>とは鳥の名前(チドリ目ウミスズメ科の海鳥。全長37、5㎝。頭から尾まで背面は黒褐色、腹は白色、夏
羽では顔に二条の飾り羽がある。)で<善知鳥><烏頭>と表記されており<能・謡曲・神社名>など様々な伝説が
伝えられていますので、紹介しながら核心部分を探したいと思います。
ウトウ情報
*善知鳥神社 青森県青森市安方に鎮座。創祀年代不明。祭神は宗像三神(田霧姫・湍津姫・市杵島姫)。
社伝では807年に坂上田村麻呂が再建したという。古くは弁天社と呼ばれ、中世には領主・南部氏の
崇敬を受け、津軽藩時代に入った藩の祈願所として保護を受けたという古社。
*能の「善知鳥」喜多流では「烏頭」
四番町目物 五流現行。
生きるために犯す人間の罪の原点をえぐって、テーマ、詞章、演出ともに傑出する能とされる。
粗筋 「陸奥へ行脚する僧(ワキ)が、地獄谷のある越中国(富山県)立山でもと猟師であった老人姿の
亡者(前シテ)から故郷への伝言を託される。亡者の妻子(ツレと子方)に会った僧は死者を弔う。
後シテは猟師の亡霊で、子の鳴き声をまねて親鳥を殺し、親鳥の声で小鳥を取った報いに、亡者の
目には妻子の姿が見えなくなる。殺生に日を送った悔恨、だがまた猟の興奮が甦る。
杖を振るって鳥を落とす<翔(かけり)>と称される写実的な演技は圧巻で、この能独自のもので
ある。
*安方 「藤原安方」
平安前期、藤原南家、藤原清名の子。従四位下阿波権守。
清和天皇、上皇に仕え、上皇出家に従い安方も出家した。
伝説 善知鳥大納言藤原安方朝臣が(允恭天皇の頃に?)青森に流されこの浦に隠れ給うた。この方が
この島の御霊の鳥となって海に群れ磯にて鳴けるを住人はこの鳥を善知鳥(うとう)と呼び、住んだ
土地を安潟と称して御霊を祀ったという。
*その他 安倍貞任の臣・鵜藤安方が貞任の遺児を連れて津軽の外が浜に逃れ漁師になった。
藤原泰衡の頃、津軽に郡を支配した安倍貞任の家臣・善知鳥文治安方の居館跡である。(岩手県紫波町
赤石史話)など平泉の藤原氏と結びついた伝承もある。
以上様々な伝承がありますが、これぞという明確な答えが簡単には見つかりませんでした。伝承の中にヒントはあるはず
<うとう>の言葉から何を伝えたいのか?を探ってみましょう。
まず善知鳥神社の祭神が宗像三神であれば海や海人族に関わっていると思われます。
能の主題は子の鳴き声で親を呼び寄せ殺し、親の鳴き声で子をおびき出し殺す卑劣なだまし討ちをした猟師の悔恨であるが
<善知鳥>と言う海鳥が害鳥という訳でも無さそうなのに、親も子も殺して何故絶滅させる必要があるのか?<うとう>は
何かの比喩として語られているのではないかと思いました。
もう一つ注目したのは善知鳥神社を再建したのが坂上田村麻呂と伝えられている事です。
坂上田村麻呂は平安初期に活躍した武将ですが桓武天皇の蝦夷征討において武将としての器量を大いに発揮して活躍しまし
た。791年近衛府の少将から征討副使となったのを契機に796年には陸奥出羽按察使→陸奥守→鎮守府将軍→征夷大将軍に任ぜ
られ、801年の第三次征夷征討の際に節刀を受けて赴き4万の軍を率いて攻め、胆沢の地を攻略し、翌年には胆沢城を築き
鎮守府を多賀城から移し、803年にはさらに北進し志波城をつくり朝廷側の蝦夷地攻略に多大な功績を残しました。
蝦夷征討の総大将として蝦夷殺戮に深く関わった坂上田村麻呂が、宗像三神を祀る善知鳥神社を再建したという伝承に私は
違和感を覚えました。坂上氏は東漢氏から分かれた渡来氏族ですから海人族とは関わらないはずです。それを祀ることは蝦夷
征討で殺したものへの鎮魂であり、善知鳥は海人族の比喩として用いられた可能性があることに気が付きました。
そこで思い浮かんだのが、記紀で神武天皇の前代の鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の鵜です。この名称は<鵜
(族)の伽耶を成立出来なかった命>と私は理解しており、鵜は沖縄語で<アタ>といいます。
日本の建国神話によれば、筑紫の日向の高千穂峰に天下りした邇邇芸命(ににぎのみこと)が結婚した相手は大山津見神の娘
の神阿多都比売(またの名は木花佐久夜毘売)。花嫁の名の阿多は薩摩の地名で隼人の居住地から名付けられています。
この夫婦から火照命(海幸彦・隼人の阿多君の祖)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦・子供が鵜葺草葺不合尊。孫が神武天皇
大和朝廷の祖とされる。)いわゆる三貴子が誕生します。
日本の建国神話で母なる神とされる神阿多都比売にはさらに興味深い別名が記されています。『日本書紀』の本文では<木花
佐久夜毘売>の別名を<神阿多都比売>。第二の一書が<神阿田鹿葦津姫(かみあたかしつひめ)>第五の一書が<阿田鹿葦
津姫>第六の一書が<豊阿田津姫>と記し、居住地の<阿多=阿田>がすべてに含まれ、ふたつに<鹿葦津・かしつ>が含ま
れています。<かしつ>をどこかで見た記憶がありませんか?
前々回のブログで紹介したのが『三国史記』新羅本紀による大伽耶の伴跛(高霊)の王名が<嘉悉・かしつ>王でその子孫が
渡来しています。時代も場所も離れていながら共通している<かしつ>とは隼人族が伽耶と薩摩に居住していたが、推古紀の
暗号により上毛野にも隼人族が渡来したという証になるのではないでしょうか。
もう一つ①と②の文章がひと続きの暗号である証のキーワードが<善知鳥>であると教えてくれたブログがありました。
『井出敏博の日々逍遥ーウトウの頭の考証学』という上質なブログです。
井出氏は登山を趣味となさる方と思われ、奥多摩のタワ尾根に<ウトウの頭>と呼ばれるところがあり<ウトウ>の由来を
色々調ベられた記事の中に信濃にある<善知鳥峠>を紹介していました。
そこは長野県辰野と塩尻の境に位置し、伊那と三河を結ぶ三州街道の峠であり、太平洋と日本海の分水嶺ともなっているという。
<善知鳥峠>は他にもあり、箱根仙石原の乙女峠は鎌倉古道の当時は<善知鳥峠>と言ったという説もある。
また、秋田と岩手の県境にある真昼岳の山裾に<善知鳥渓谷>があると言う。
②の文章は「夏5月に蠅有りて聚集る。其の凝り累ること十丈ばかり、虚に浮かびて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷の如し。則ち東
の方、上毛野に至りて自ずから散せぬ。」です。文中の<信濃坂を越ゆ>にあたる箇所を<善知鳥峠>としたことで推古紀35
年条の①と②を繋ぐキーワードになったと思われますが、実際に地図を見ると上毛野国への道程はかなり遠く、現在の善知鳥
峠が正しい善知鳥峠であったか疑問を持ちました。しかし<善知鳥峠>の呼称が1300年も経た今でも信州に伝えられてい
た事は驚くべきことであり①と②の記述は暗号であると確信しましたが、これほどまでに<善知鳥>に拘る理由は一体なんで
しょうか?次回に続けます。