ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫から倭王へのルートは?⑧ 「鵜と鵜」という妄想

2019-05-25 08:25:38 | 日本文化・文学・歴史
平成の天皇が退位され、令和の天皇が即位なさり商魂たくましい令和フィーバーも落ち着きを取り戻したように感じますが、
「令和」という新元号は天平2年(730年)正月、大伴旅人邸で開かれた梅花の宴で詠じられた32首が万葉集巻5に収録さ
れており、その序文中の「新春の令月にして気淑く風和ぐ」から考案されたものと発表されました。

大伴旅人は万葉集の編纂者と思われる大伴家持の父であり、神亀4年(728年)に太宰師となって九州に下向したが、当時筑紫
国守であった山上憶良らと筑紫歌壇の中心的存在であった。が、大伴氏は本来武門の家柄であり720年には征隼人持節大将軍
として隼人の居住地で1ケ月半も野営しながら兵を率いて兇徒を掃討し、隼人の拠点を一掃させたと続日本紀に記されています。
梅花の宴の開かれた前年には旅人と親交のあった長屋王(天武天皇の孫で、父は高市皇子。左大臣であった。)が「密かに国家
を傾けようとしている。」という密告から一家が自殺するという悲劇がありました。梅花の宴の翌年旅人は67歳で亡くなります。

息子の大伴家持(718年〜785年)は万葉歌人として著名で、我がブログでは山上憶良の「秋の七草」の暗号のプロデューサー
と考えています。が、一方官人としては没時の官位は中納言従三位春宮大夫兼陸奥按察使持節征東将軍でした。蝦夷征討の最前
線の多賀城に赴き蝦夷と対峙していたと思われ父は隼人、子は蝦夷の征討に関わっていました。家持が没する頃に坂上田村麻呂
は蝦夷征討の官位につき789年には副将軍に、801年には蝦夷平定を奏上したとされるが、具体的な働きは殆ど伝えられておら
ず記紀には「その前後の記事は故意か偶然か欠落している。」という。
802年蝦夷の指導者・大墓公 阿弖流為(たものきみあてるい)は種類500余名と降伏し、胆沢城が征圧され、志波城が築城
され国家領域は岩手県北部に伸長することとなった。坂上田村麻呂は降伏した阿弖流為と母礼(もれ)を平安京へ連れていき
「この度は願いのままに放免し、なお陸奥国奥地の蝦夷帰服を説得させたい。」と主張したが貴族達の反対にあい河内の杜山で
処刑された。かくして坂上田村麻呂は一躍征夷の英雄として東北各地に伝説が生まれました。

「善知鳥神社」の伝承もそのひとつと思われますが、能の「善知鳥」は鳥の殺戮を悔いる猟師の罪の原点をえぐる物語とされる
ので、かなり重いテーマを秘めています。しかし<善知鳥>の漢字表記を<うとう>と読むことは普通ではあり得ませんから
これまでの謎解きの手法で伝えたい真の意味を探していきたいと思います。

「善知鳥」の意味が分からないので試しに「悪知鳥」もあるかと検索してみると「善知鳥神社ーのりちゃんず」というブログの
 『善知鳥神社由緒書』中に興味深い記述がありましたので一部紹介します。

「安日17世の孫、安東といへるは人皇50代桓武帝21年坂上田村麻呂東征の時、田村麻呂に力を合わせ、遠近法の法令を定む。
 田村麻呂そのことを奉じたれば勅命ありて又従三位中納言を贈宣あり当社を再建すと云う。
 住吉は<悪知鳥>と書きて<ウトウ>と読みたるぞ。後の筆者<烏>を<鳥>と認めしより、いつかまた<悪>を<善>と
 改めたりと。年代久遠の間或は当社を安方の宮と称し、此の辺の民家を総べて善知烏村と唱へ或は又民家を安方と唱へて
 当社を善知烏宮といふに依って善知烏安方とも申す習はし伝うるは皆当社より起こりたる地名といへり。また安潟と書きたる
 もあり。
 この外 善知、悪智または安方を安潟とも認めるにより諸説あり。
 一説に安方悪知の名を蒙り御父子東西に流罪せられ深く前非を悔いて本性の善知に立ち帰り高倉明神の霊夢によってついに
 この浦の神となる。

  先祖相伝の神秘 其の大旨を記す。
          文化13年(1816年)丙歳 5月吉日
                 六代大夫 柿崎伊代守 広雅 」

上記の由緒書は200年前に善知鳥神社の神官の記述で不明な点もあるが、私が興味をひかれたのは「住吉は悪知鳥と書きて
ウトウと読みたるぞ」のくだりです。住吉とは一般的に住吉大神を祀る神社を指しますが、そこでは<悪知鳥=ウトウ>であ
るという。私はなるほど悪知鳥の方が始めの伝承かも知れないと思いました。
その訳は、これまでの謎解きの経験から<鳥>は<取り>の暗喩として用いられており<悪知鳥>は<阿知取り>と考えた
からです。蝦夷征討の功労者・坂上田村麻呂は「倭漢(やまとのあや)」氏の出自でありその祖が阿知使主(あちのおみ)なの
です。
 東漢(やまとのあや)とは
『応神紀20年9月条には「倭漢直(あたい)の祖、阿知使主、その子都加使主、並びに己が党類17県を率いて来朝す。」と
 あり、彼らは阿知を始祖とする氏族集団の総称である。「続日本紀」や「新撰姓氏録」によれば阿知使主は高市郡檜前(ひの
 くま・奈良県高市郡明日香村檜前)に居住したとありこの地が一族の本拠であったと考えられ、河内を本拠とする西漢(かわ
 ちのあや)氏に対して大和地方を意味する東が冠されたと思われる。後には阿知使主は後漢霊帝の曾孫とされるが「漢」の氏
 名に基づく伝承であろう。出身地については百済説・朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国とする説がある。
 大和政権の全国統一が進む中、東漢氏は大陸の進んだ技術や算術文筆などの知識を持って渡来した人々を今来漢人として管掌
 し、朝廷に奉仕した。また武人を多く輩出している氏族であり6世紀後半には蘇我氏と関係を結び勢力を増していった。
 蘇我馬子宿禰の命を受けた東漢直駒が崇峻天皇を弑逆した事件はよく知られている。6世紀以後になると書(文)、坂上、民、
 長その他の氏が分立した。蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂も同族である。』(『古代豪族の謎』から。執筆者・大脇由起子)

住吉が坂上田村麻呂を「悪知鳥(阿知取り)」とした理由は<善知鳥(うとう)>を取った大和朝廷側を<悪>と非難したから
ではないか?古代に住吉大神を信仰した人々はどのような人達であったか、かつて「秋の七草」と古今伝授の「三木三鳥」が
ひと続きの暗号として謎解きをした折に住吉にふれており、住吉に関連する「百千鳥」を要約します。
 
 古今伝授三鳥のひとつ<百千鳥>は数多くの小鳥・いろいろな鳥に解釈されている。また、千鳥(海辺、河口などに住む千鳥
 科の鳥の総称)の異名ともされている。しかし藤原定家の「ももちとりこ伝う竹のよの程もともにふみ見しふしぞうれしき」
 の百千鳥は<鶯>の異名といわれている。
 
 私は<百千鳥>は字義から<数多くの千鳥>か、掛詞により<百地取り>と考えた。また定家の<鶯>説とのつながりを探し
 たが、<うぐいす>は魚の<ウグイ(鯎)の巣または洲>と考えた。そして中世に流行った謎解きに<鶯>の短歌があった。
 「宇佐も宮熊野も同じ神なれば伊勢住吉も同じ神々」宇佐のウ・熊野のク・伊勢のイ・住吉のスを繋げば<ウクイス=鶯>の
 神となる。この古歌の<うくいす>は香道具の包み紙を留める金串の名に。神に紙を掛けて包み紙の四つ角を揃えるのをも
 じったといい、もうひとつ冊子の綴じ方の<鶯綴じ>があり、紙(神)の上を寄せるという洒落という。
 これらは掛詞を使って謎を解く手法を後世に伝えたいと考えた人々がいたように思えるが、この<ウクイス>のの神々はいず
 れも古代の海人が信仰した神々でした。そして海人族安曇氏ゆかりの地名<摂津の住吉・伊勢の河曲郡海部郷・尾張の海部・
 三河の渥美・遠江の海間郷、近江の安曇、信濃の安曇、薩摩の阿多、熱海、わが町三島にも八乙女神社という安曇系の古社が
 あり、現在地は高台ですが貝塚遺跡があり、かつては海際だったと思います>が列島の各地にあり住民でもあったのです。

古今伝授の<百千鳥>が<多くの千鳥>そして<倭の海人>を指していましたが、同様に考えると
<善知鳥>は<全千鳥=総ての千鳥>=<ウトウ>=<全地取り>=<蝦夷討伐>の図式が成り立つと考えました。
<ウ>とは<烏・鵜>=<アタ>=<倭の海人>とすると<鵜と鵜>の鵜を二つ重ねる理由は何故かと思いました。
そしてそのヒントは藤原定家が詠んだと伝えられる短歌にあるのではないか?

 「陸奥の外が浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとうやすかた」

親鳥が<うとう>と鳴くと子は<やすかた>と鳴くとちょっと有り得ない話があり、一方では<藤原安方>という貴族が罪を得
てこの地に流されたとか、奥方まで登場させる伝説に満ちています。どれも荒唐無稽で信憑性はないと思いますが、<うとうや
すかた>が注目されるように仕掛けられているように感じ、これも掛詞で別の意味に受け取れるとすれば何か重大な事を秘めて
いるだろうと思いました。そして恐ろしい考えが浮かびました。
  <うとうやすかた>は<鵜と鵜や姿>
つまり敵も味方も容姿が同じ<鵜(隼人族)>である海人系の人の可能性があるのではないでしょうか?
推古紀にあった伴跛国から到来した隼人系の人々が散った先は上毛野国経由で東国に移った人はいたはずで、その時点から250
年以上たっており陸奥に定住した者もいたはずで彼らの行方が気になりました。

平安初期に坂上田村麻呂によってなされた征討行為によって滅ぼされた蝦夷の国の住民は津軽外三郡誌によれば多様な民族で
あったと思われますが、上毛野の官軍側にも陸奥の蝦夷側にも伴跛国から来た隼人系の人々がいたら同族同士で殺し合いを
させられたかもしれないという妄想を捨てきれない絵巻物がありました。


坂上田村麻呂が創建したという清水寺の「清水寺縁起絵巻」(東京国立博物館蔵・国宝)に描かれた中に、ただ一人ですが灰色
がかった隼人と思われる人物をみつけてしまいました。(絵巻の写真の上段・右の画面の右寄りの人物)16世紀に描かれた絵巻
ですが想像の産物であるか否か今となっては分かりませんが。

















































                          












 

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