ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫から倭王へのルートは?⑥ 古墳から発掘されていた伴跛国の人

2019-03-28 06:20:46 | 日本文化・文学・歴史
『日本書紀』推古紀に挿入された「夏5月に、蠅有りて聚集(あつま)る。其の凝り累(かさな)ること十丈(とつゑ)
ばかり。虚(おほぞら)に浮(うか)びて信濃坂を越ゆ。鳴る音雷(いかづち)の如し。即ち東のかた上毛野国(かみつ
けのくに)に至りて自づから散(ちりう)せぬ。」の文章は伽耶の一国・伴跛と上毛野国に関わる暗号であろうと推量し
ましたが、「蠅が大量に空を飛んで信濃坂を越え上毛野国へやってきて散り失せた。」とは現実的には有り得ない光景で
あり、謎解きのキーワードが蠅(ハヘ)であろうと「秋の七草」の暗号解読のキーワード・同音異義熟語(掛詞)を用いて
朝鮮半島にあった伽耶の一国・伴跛(ハヘ=大伽耶の高霊)を導き出しました。

しかし、海を隔てた伴跛と上毛野国とが何故につながるのか、伽耶の歴史の流れを知らねばと伽耶と倭(ヤマト)の関係を
『東アジアの動乱と倭国』(森公章 2006年 吉川弘文館)から要約しました。
前回のブログで伴跛国からヤマトに渡来した道田連の祖は伴跛国の嘉悉王である事がわかりましたが、『南斉書』加羅国条
には、479年に加羅国王荷知なる者が中国南朝の南斉に遣使し輔国将軍本国王の官爵を与えられたことが記されているが、
この「加羅国」は北部伽耶地区の高霊(大伽耶)と見るのがよく、国王荷知は「伽耶国」の嘉悉王に比定されるという。
この頃の大伽耶は481年百済と共に新羅を救援して高句麗と戦う行動が見られるが、倭国から新羅征討のため派遣されたのは
紀・蘇我・大伴・小鹿火宿禰らで当初勝利を重ね、㖨国を救援したが結局は敗退し㖨国にとどまっていた。紀宿禰の子・生磐
は任那にいたが高句麗や任那の左魯那なにがしと結び三韓の王たらんと軍をおこすが失敗し百済の怒りをかっている。

当時倭国と百済は北部伽耶地域に対しては競合関係にあり 有王・蓋鹵王の倭国は必ずしも親百済派であったとは言い難いと
いう。475年の一時的な百済滅亡時に積極的に援兵を送らなかった理由の一つであろうと云う。その後倭国の支援した東城王
が即位すると北部伽耶地域に「利権」を有する木劦満致を支持するが、その専制ぶりが非難されたので倭国が彼を倭国が引き
取る形で事を納めたという経緯があり、木劦満致の築いた地盤を継承する形で深まり、6世紀代に百済と新羅が伽耶諸国の争
奪をめぐる紛争に巻き込まれていく。
6世紀になると百済では501年に武寧王が即位する。倭国では倭の五王の系統を引く男子が途絶し「応神天皇5世孫」と称する
男大迹王(継体天皇)が507年にヤマト王権の大王につきます。武寧王は筑紫の各羅嶋で生まれたので嶋君(シマキシ)と名付
けられた説話が日本書紀に記されていますが、『三国史記』によると武寧王は即位後間もない501年から502年503年506年507
年512年と高句麗軍との戦を遂行する一方、508年に南の海中の耽羅人が初めて百済国に通う」とあり、済州島(耽羅)が百済
に服属しました。
伽耶地域には3~4世代にわたって百済人が居留しており、住民保護などを口実として東方の伽耶地域への侵攻を企てるように
なるが、新羅も伽耶諸国に侵攻し争奪戦が始まっていく。
『日本書紀』継体6年(512年)条によると百済が「任那4県(上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁)」の割譲を申し入れてくる。
倭国の朝廷では「哆唎(したり)国守」穂積臣押山と大伴大連金村の意見で認可される見通しとなったが「彼ら二人は百済の賂
(まいない)を受けた」との非難もあったが結局は「任那4県を百済へ割譲する」旨伝達された。
これが百済の南部伽耶侵攻の第一歩となり、さらに己汶、帯沙を得ようと動き出す。百済の方策を支持する側についた倭国は
大伽耶連盟の反発を招くことになり、加羅王は新羅と婚姻関係を結び新羅の力を借りて百済に対抗しようとする。この求めに
新羅は応じ新羅の法興王と加羅国王との間は蜜月関係になったのだが、嫁いできた后妃が男児を儲けた後、随行してきた100
人の従者たちは加羅国内の諸処に定住したが新羅の衣冠を捨てず新羅風をひろめようと努めたので加羅王は怒り同盟関係を破綻
させてしまいました。この後新羅は北の境にある5城などを加羅から攻めとりました。

513年には倭国で己汶、帯沙問題の解決のため百済、新羅、安羅、伴跛の代表を集めて会議が開かれるが、倭は百済の主張を認
める立場を取っていたため伴跛国は珍宝を倭国へ献上し、大伽耶連盟による己汶、帯沙の維持を求めたが倭国は認めようとはし
ないので、514年伴跛国は武力による抵抗に出る。515年百済の使者の帰国に送使として物部連らは舟師500を率いて帯沙江に
向かい役目を果たすが、6日後に伴跛国軍の攻撃を受け命からがら有る島に逃げ延びはしたが、移動することも出来ず翌16年
になり百済の援軍によって救出され、多くの賜り物を得たという。

懸案の己汶、帯沙問題が解決した516年9月に物部連らが帰国する折に百済から五経博士・高安茂が贈られ、前任者と交代した。
また別に百済は灼莫古将軍と<日本斯那奴阿比多>を派遣し、高句麗使の安定らに副えて来朝して好(よしみ)を結んだ。

一方伽耶と国境を接する新羅も「南境拓地」の方針で513年頃から金官国(南加羅)、㖨己呑(とくとこん)への侵攻を開始し
ていた。これに対し倭国は<近江毛野>に衆6万を与えて渡海させようとしたが親新羅系の筑紫君磐井が反乱を起こし、渡海
は延期された。磐井方は物部麁鹿火によって平定される。

『日本書紀』継体23年条(529年)によると、毛野の派遣先は安羅で、新羅に南加羅(金官国)、㖨己呑の再建を交渉する事が
任務であったが百済、新羅の代表がいても安羅は国王と国内の大人とで倭国の使者とだけ協議を重ねたとあり交渉は進まなかっ
た。
任那王(異能王)は倭に来朝して新羅の侵攻を訴え、援助を求めるが事態の解決は見づ、毛野の外交交渉能力の欠如が露呈し、
新羅の異斯夫が衆3千を率いてやってくると近江毛野は任那のコシコリ城に立て籠ってしまう。毛野の家臣が上官(新羅の大臣)
を撃つまねをした事から殺意ありと判断した新羅は金官国の主邑4村を抄略して本国に戻ったという。近江毛野はその後も失策
が続き、532年には金官国は降伏し伽耶諸国は562年に滅ぼされる。

 『日本書紀』に記されている我が国の建国史が金官伽耶の建国史と大変似ている事は知っていましたがその後の伽耶・百済・
新羅の歴史については断片的なエピソード位しか知らないので歴史の流れを整理しているうちに、伽耶の滅亡に至る過程に私が
暗号ではないかと疑っている文章中の<信濃><上毛野>を暗示していると思われる人物名がありました。<日本斯那奴阿比多>
と<近江毛野>です。
①「日本斯那奴阿比多」は継体紀10年条に記され百済使として高麗の使・安定等を副えて倭国に来ており<日本の科野直姓>の
  和系百済官僚と解されている。この記事は高句麗使来朝の確実な初見記事ではあるが、考古学的な遺物(古墳や副葬品、
  埴輪など)から見れば高句麗系住民の日本列島進出は4世紀後半から日本海沿岸に到来し、山陰・能登・越前・越中・信濃
  さらに関東一円に広がりを見せているので信じ難い。
②「近江毛野臣」は継体紀21年条に登場する倭国の使臣で任那に派遣されるものの悉く失敗し無能な官吏として「加羅を攪乱し
  せり」と大変評判が悪く24年には責任追及の帰国命令が出され任那からの帰途、対馬で病気になり死亡したとあり、その妻
  が夫の遺骸を迎える時に詠んだ短歌「枚方(ひらかた)ゆ笛吹き上る近江のや毛野の若子い笛吹き上る」が伝えられている。
  注によれば、孝元記にある建内宿禰の子、波多八代宿禰は波多臣、淡海臣などの祖とある。埼玉の稲荷山古墳から発見され
  た刀の金象嵌された被葬者は孝元天皇の長子・大毘古を上祖としており、東国一帯が毛野の地盤と思われます。

伽耶が新羅に滅ぼされるのは562年ですが、大伽耶の伴跛国の記事は継体紀9年(515年)「物部連らは百済へ己汶、帯沙の割譲
が決められた言を恨んだ伴跛国軍に襲撃され、敗退し、翌年物部連らは百済軍によって救出され己汶に迎えられた。」とあるの
みで、その後の伴跛国の動静は不明であり、大伽耶の高霊という地名に変わっており、伴跛国は滅んだと思われ、その後の動静
を伝えたのが推古紀に記された「夏5月に蠅有りて聚集る・・・・虚に浮かびて信濃坂を越ゆ・・・・東のかた上毛野国に至り
て自づから散せぬ。」ではないかと思われます。書記の編纂者は伴跛国の<はへ>から<蠅>という比喩を考案したと思います
が、日本書紀・神代下の「天孫降臨する地には蛍火の輝くあしき神、蠅声(さばえ)なす邪しき神有り」と蠅を神(人間?)と
して例える用例があります。伴跛国の嘉悉王の子孫が日本の『新撰姓氏録』に記載されている事から渡来は確実ですが、何らか
の理由があって正史には伏せられたのでしょう。

上毛野国に到来したとされる蠅の集団(伴跛国の民)はどのような人達だったでしょうか?
私は2016年5月から7月にかけて「関東に偏る人物埴輪」「龍蛇族?巫女の埴輪の襷模様」「隼人の習俗?群馬の巫女型埴輪」と
して群馬県をはじめ関東一円の古墳から発掘された人物埴輪を取り上げ考察していますが、古墳時代の中心と思われる畿内から
人物埴輪はほとんど発見されないのに東国からは北方騎馬民族の姿をしたおびただしい数の埴輪が発掘されていました。

しかしその中に混じって<頬には赤色の化粧または入墨をほどこし、三角様の模様をほどこした襷をかけた巫女型埴輪>と呼ば
れる女性像があり、また馬曳と思われる背丈の低い男性埴輪があったので、騎馬民族とは違う民族も混じっているのではと思って
いたところニックネームyamatokodoさんのブログで群馬県箕郷町上芝古墳出土の女性像の襷模様が、安田善憲著『森を守る文明
・支配する文明』中の<台湾原住民パイワン族の首長の家の軒桁に飾られた蛇の彫刻図像>とそっくりではないかと指摘していま
した。


私もパイワン族の画像を探したところ襷を掛け、たくさんの蛇の刺繡が施された花嫁姿のパイワン女性の写真をみつけまし
た。(土木学会・付属土木図書館蔵。伊藤清忠氏撮影)

さらに検索を続けると、宮崎県島内の隼人の墓から赤色の顔料を塗布した人骨が発見されていました。
 ウイキペディア「隼人」(2016年7月24日現在)より
 谷垣美帆、宮代栄一の『古墳時代の埋葬に関する一考察 ー宮崎島内地下式横穴墓群を中心にー』(2005年)によると島内の
地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、宮崎県西都原考古博物館に保管されていた
93体について赤色顔料の塗布が最も多く(38例)次いで頭部、上半身、下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)それ
に次ぐのは頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり顔面塗布が重視されたことが分かった。
死者の顔面塗布はいつ行なわれたかの結論は第32号墓出土の1号人骨については白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で
塗られたと判断している。

 
群馬県(上毛野国)から発掘された人物埴輪には騎馬系民族の他に台湾の原住民(パイワン族)と同系の人もいたと思われ、日本
では隼人と呼ばれていたようです。そして伽耶の伴跛国から上毛野国へやって来た人たちも隼人と同系の種族であろうと思いました。

古代、中国の正史の一冊に『新唐書』がありますが、東夷・日本伝には日本の歴史が簡略に記されており、日本の位置の概要に興味
深い名が記されています。
「その東海の島の中には、また邪古(やこ)、波邪(はや)、多尼(たに)の三小王あり。北は新羅とへだたり、西北は百済、西南
は越州にあたる。糸絮(しじょ)怪珍ありという。」
意訳「その(日本国)の東海の島々の中に、またヤコ、ハヤ、タニの三小国の王がいる。(日本国の)北側にある新羅とは距離が
あり、北西側は百済、南西側は越州(会稽・現浙江省)に向かい合う。(日本国には)絹糸、綿を産し、珍品があるという。

ヤコは屋久島、ハヤは隼人、タニは種子島と推測されていますが、ヤコ、タニが島の名前なので、ふたつの島の近くの鬼界カルデラ
海域にハヤという島があった可能性はないのでしょうか?

ともあれ大伽耶の伴跛国から上毛野国に渡来した人が隼人族であった可能性は高く「蠅が上毛野国に入り散り失せぬ」との記述
通り、群馬から発掘された巫女型埴輪と同タイプは千葉からも発掘されており、彼らは関東一円の新たな土地へ散らばって行った
ものと思われます。

「ハヤ」と「ハヘ」は違うではないかと思われる方もおられると思いますが、「隼人」の語源は「ハヘ(南風)」からきている説
があること。魚の「ハヤ(鮠)」は「ハヘ」とも呼称されていること。「伽耶」は「加羅(カラ)」とも呼称されることなどから
音韻の変化が少なからずあった事も考慮すべきであろうと思います。





















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