めでさたも中ぐらいなり おらが春(蕪村)
新春のテレビでは歌舞伎界の名跡の襲名が相次いだ事もあって、高麗屋(松本幸四郎一家)
中村屋(中村勘三郎一家)成田屋(市川團十郎一家)のそれぞれが、次世代へ芸を引き継ぐための
教育として父親自らが子へ伝授する場面を中心に構成された三つの番組が放映されました。
どの宗家も幼い頃から礼に始まり礼に終わる躾けと、教わる時には親子としての甘えは許されず
師弟として学ばせる姿勢を貫き、周囲はその成長を暖かくじっと見守るという歌舞伎界の教育の
凄さに感動しました。大分昔ですが狂言の野村萬斎さんが初舞台を踏むまでのドキュメンタリー
番組を見て厳しく指導する親と何度でも繰り返しやり通すその姿に感動しましたが、伝統芸能の
世界では現在でも次世代へ継承するために真剣な教育をし、人として成長させ、魅力ある役者を
作るのだと改めて思いました。
歌舞伎の創始者は17世紀始めに出雲の巫女・阿國によって始められたとつたえられていますが、
能狂言は15世紀の中頃に完成し、芸道やその歴史を語る『風姿花伝(花伝書)』や「申楽談義」
が世阿弥(1364?~1443年)によって語られています。
その始まりは天竺の祇園精舎に於いて釈迦が説法を始めようとしたときに、提婆(釈迦の従弟で
弟子となったものの釈迦の威勢を妬み種々の危害を加えた)が大勢の外道(仏教以外の宗教を
奉ずる者)を連れて来て踊ったり叫んだり騒がしいために釈迦は説法が出来ずにいました。そこで
釈迦の高弟達が後戸に鼓や笙などの音曲を奏し、知恵を絞って六十六番の物まねを始めると、その
音曲につられて外道たちが後戸に集まり、これを見て静かになった。そこで釈迦は説法を宣べる事
が出来た。この時の六十六番の物まねが申楽のはじまりで、その後能狂言に発展していった。
この花伝書の著者である世阿弥は上宮太子(聖徳太子)の廷臣である秦河勝の子孫であり、河勝の
遠孫たちが代々芸を伝え続け、大和の春日大社や近江の日吉神社の神事、申楽に奉仕してきた。
神儀に曰くとして
秦河勝は欽明、敏達、用明、崇峻、推古、上宮太子に仕えた後に摂津国難波浦からうつぼ舟に乗り
風に任せて流れ着いた所が播磨国越坂浦(しゃくしのうら、現在は坂越)であるという。『播磨鏡』
(1762年成立)には河勝がこの地で没したのでその霊と秦氏の祖・酒公を祀り「大荒、大酒(おお
さけ)明神と称したが、1o68年に「大避」に改めたとする。が、逆ではないかという説もある。
さらに「大荒大明神と名付く。今の世に霊験あらたなり。本地<毘沙門天王>にまします。」と記
されている。
「本地」とは①神仏の本来の姿。
②日本の神がみはすべてインドの仏が日本人民を救うために現れたものであるという
中世の説明法(本地垂迹)
この河勝を毘沙門天になぞらえる説は以前にも見た記憶がありましたので探したところ大阪府八尾市
にある「大聖将軍寺」のエピソードでした。
縁起によると
大聖将軍寺は587年崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「今しも我をして敵に勝たしめ
ば、必ずまさに護世四天王のおんために寺塔を建つべし」(日本書紀・崇峻天皇即位前記)と祈願して
戦勝したことから戦後まもなく四天王を祀るための寺院として四天王寺と共に当時の太子堂が建立された。
594年に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。
756年聖武天皇から鎮護国家の称号を贈られ勅願時に定められる。
当寺院の門前横には聖徳太子像と四天王像が安置されていますが、この付近が物部守屋との戦いの主戦場
であったようで、守屋の首を洗った井戸とか守屋の墓もあるという。この戦いで有名なエピソードがあり
四天王寺創建のきっかけとなりました。
いまだ戦局が定まらないときに聖徳太子が白膠木(ぬるで)の木をとって四天王像を刻み頂髪において戦
勝祈願をした為に勝利した。と信じられていることと、太子の配下の四将軍の活躍ぶりはまさに四天王の
姿のようだと語り継がれたからでしょう。
ちなみに多聞天(毘沙門天)は秦河勝。広目天は迹見赤イ(とみのいちい)。増長天は小野妹子。持国天は
蘇我馬子になぞらえられています。
秦河勝の正真正銘の子孫と思われる世阿弥の著した『風姿花伝(花伝書)』に秦河勝の姿を毘沙門天と
同体のように伝えていることと、四天王寺創建に関わる伝承にも秦河勝は毘沙門天になぞらえられている
事を知り私の謎解きの検索方向は誤ってはいないと思いました。
2015年10月13日のブログに「秦氏の計画都市?平安京」を書きました。秦氏が開発した山背に桓武天皇
が都を移し平安京となりますが、この都を守護する役割をになう寺々には毘沙門天が安置されていた上に
内裏の建てられた場所は秦河勝の邸宅のあったところと伝承されているのです。渡来氏族の秦氏の財力が
3ないし400年の間に平安京を築けるほどになれるものか?この謎を解く鍵も<毘沙門天>が握ってい
るのではないか?毘沙門天の成り立ちを調べてみようと思いました。
毘沙門天は仏教の世界観によると須弥山という山が」世界の中心で仏尊はそこに住むとされ、その下に
五層に分かれて仏尊を守護する仏たちの居住区があり、四天王は上から二番目の四天王宮に住んでおり、
その場所から持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、多聞天は北方を守るとされるが、多聞天を独尊
として祀る場合には毘沙門天と呼称されあつく信仰されていました。
毘沙門天とはサンスクリット語のヴァイシユラヴァナないしヴァイシュラマナを漢訳したもので毘沙門天は
その音訳、多聞天はその意訳なので両者は本来同一のものでした。
毘沙門天の神格はインド伝統のもので紀元前1千年頃の『アタルヴァ・ヴェーダ』に闇黒界に住む悪霊の首
長として登場しており、のちの『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタでは』それはヴァイシュラバス神の子
でクベーラ・ヤクシャと名付けられ、財宝、福徳を司る神へと転じ、夜叉(空中を飛ぶ鬼類)羅刹(地行の
暴悪鬼で食人をする)を統領し雪山(ヒマラヤ)中のカイラーサに住んで北方を守護する善神として崇拝され
たことが知られる。ムンジャバットやラージャグリハにはその祠堂があって日々礼拝が行われていたといわれ
釈尊在世時代の釈迦族の間でも行われており、釈迦族はヤクシャの祠堂に参詣させる習慣があったと伝えられ
ている。
これらの祠堂ではヤクシャの像が造立されていたと思われるが現存するものの最古の像はマウリア朝(紀元
前317~180年頃、王朝の3代目がアショカ王)時代に成ったものの、インドではかなり後世までクベーラの
名称が用いられており、中世のヒンードゥー経美術にもヤクシャのクベーラとして描写されている。
仏教の『阿育王経』においては四天王の一人はクベーラと音訳した「鳩ビ羅」「金比羅」と記され毘沙門天とは
記されていないという。讃岐の「金比羅さん」が毘沙門天の別称とは驚きました。
インドのクベーラ・ヤクシャが毘沙門天という武装する神格に変化したのはインドの北西辺境にあるガンダ
ーラ地方であった。当時ガンダーラの支配層はインド系ではなく、中央アジアから南下したイラン系民族(ク
シャン族)であった(クシャン朝1~3世紀)。当然ながらガンダーラやその周辺地域のイラン系仏教徒にとって
北方の守護神の名前、その服装や頭飾りなどすべてかれらの文化に調和し、民族意識を満足させる必要があった。
『ヴィシュタダルモッタラ、プラーナ』という図像学書の「プラティマーラクシャナ」によれば毘沙門天の服装
は「ウディチューヤヴューシャ」=「北方人の衣服」であると記されている。これは明らかに中央アジアのイラ
ン系民族の服装(長袖のチュニック、ズボン、靴)である。
クベーラには大黒天のような豊穣、富、財産、現世の幸福といった「福の神」としての機能があるがインドでも
クシャーン朝時代に太鼓腹の男子像で擬人化されていたが同じような現象がガンダーラにおいても起こっている。
それはヤクシャの将軍のバーンチカとその妻のハーリティー女神像の夫婦像に見られる。この男女のペアー像は
豊穣多産の神としてクシャン朝時代のガンガーラでは多くの信仰をかち得ていた。この女神像はギリシャやロー
マの図像を借用していたし、男神像もギリシャやローマそしてイラン系の男性神の姿で表わされている。この
外来の神がのちの毘沙門天像の原形になったという。そしてこの非インド的な男性神はファッローないしファロー
と呼ばれるゾロアスター教の豊穣・富の神である。この神の特色の一つは手に財布を持っている。もう一つの特色
は頭部に一対の鳥翼を戴いていたり、鳳凰を飾った三面立て宝冠を被っていることである。
以前のブログで毘沙門天像の冠帽や着甲の似ているものをグループ化しましたがその理由までは調べていません
でした。時代ごとに地域住民が変われば住民の文化に合わせて神の姿も変容していくらしいと知って、鳥冠を被った
毘沙門天像が丹波から若狭にかけて分布していることを興味深く思いました。たしか聖徳太子の母である穴穂部間人
皇女との関係をつたえている<間人・たいざ>という地もこの辺りです(京都府竹野郡丹後町)。
これらの毘沙門天に関する情報は田辺克己著『毘沙門天像の誕生ーシルクロードの東西文化の交流』や学研・神仏の
かたちシリーズ第2号『四天王』から得ました。
秦川勝が毘沙門天になぞらえられる理由とルーツが今回のブログの情報から推量出来るように感じていますが、より
重要な兜跋毘沙門天王と合わせて次回に推理しましょう。
新春のテレビでは歌舞伎界の名跡の襲名が相次いだ事もあって、高麗屋(松本幸四郎一家)
中村屋(中村勘三郎一家)成田屋(市川團十郎一家)のそれぞれが、次世代へ芸を引き継ぐための
教育として父親自らが子へ伝授する場面を中心に構成された三つの番組が放映されました。
どの宗家も幼い頃から礼に始まり礼に終わる躾けと、教わる時には親子としての甘えは許されず
師弟として学ばせる姿勢を貫き、周囲はその成長を暖かくじっと見守るという歌舞伎界の教育の
凄さに感動しました。大分昔ですが狂言の野村萬斎さんが初舞台を踏むまでのドキュメンタリー
番組を見て厳しく指導する親と何度でも繰り返しやり通すその姿に感動しましたが、伝統芸能の
世界では現在でも次世代へ継承するために真剣な教育をし、人として成長させ、魅力ある役者を
作るのだと改めて思いました。
歌舞伎の創始者は17世紀始めに出雲の巫女・阿國によって始められたとつたえられていますが、
能狂言は15世紀の中頃に完成し、芸道やその歴史を語る『風姿花伝(花伝書)』や「申楽談義」
が世阿弥(1364?~1443年)によって語られています。
その始まりは天竺の祇園精舎に於いて釈迦が説法を始めようとしたときに、提婆(釈迦の従弟で
弟子となったものの釈迦の威勢を妬み種々の危害を加えた)が大勢の外道(仏教以外の宗教を
奉ずる者)を連れて来て踊ったり叫んだり騒がしいために釈迦は説法が出来ずにいました。そこで
釈迦の高弟達が後戸に鼓や笙などの音曲を奏し、知恵を絞って六十六番の物まねを始めると、その
音曲につられて外道たちが後戸に集まり、これを見て静かになった。そこで釈迦は説法を宣べる事
が出来た。この時の六十六番の物まねが申楽のはじまりで、その後能狂言に発展していった。
この花伝書の著者である世阿弥は上宮太子(聖徳太子)の廷臣である秦河勝の子孫であり、河勝の
遠孫たちが代々芸を伝え続け、大和の春日大社や近江の日吉神社の神事、申楽に奉仕してきた。
神儀に曰くとして
秦河勝は欽明、敏達、用明、崇峻、推古、上宮太子に仕えた後に摂津国難波浦からうつぼ舟に乗り
風に任せて流れ着いた所が播磨国越坂浦(しゃくしのうら、現在は坂越)であるという。『播磨鏡』
(1762年成立)には河勝がこの地で没したのでその霊と秦氏の祖・酒公を祀り「大荒、大酒(おお
さけ)明神と称したが、1o68年に「大避」に改めたとする。が、逆ではないかという説もある。
さらに「大荒大明神と名付く。今の世に霊験あらたなり。本地<毘沙門天王>にまします。」と記
されている。
「本地」とは①神仏の本来の姿。
②日本の神がみはすべてインドの仏が日本人民を救うために現れたものであるという
中世の説明法(本地垂迹)
この河勝を毘沙門天になぞらえる説は以前にも見た記憶がありましたので探したところ大阪府八尾市
にある「大聖将軍寺」のエピソードでした。
縁起によると
大聖将軍寺は587年崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「今しも我をして敵に勝たしめ
ば、必ずまさに護世四天王のおんために寺塔を建つべし」(日本書紀・崇峻天皇即位前記)と祈願して
戦勝したことから戦後まもなく四天王を祀るための寺院として四天王寺と共に当時の太子堂が建立された。
594年に推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。
756年聖武天皇から鎮護国家の称号を贈られ勅願時に定められる。
当寺院の門前横には聖徳太子像と四天王像が安置されていますが、この付近が物部守屋との戦いの主戦場
であったようで、守屋の首を洗った井戸とか守屋の墓もあるという。この戦いで有名なエピソードがあり
四天王寺創建のきっかけとなりました。
いまだ戦局が定まらないときに聖徳太子が白膠木(ぬるで)の木をとって四天王像を刻み頂髪において戦
勝祈願をした為に勝利した。と信じられていることと、太子の配下の四将軍の活躍ぶりはまさに四天王の
姿のようだと語り継がれたからでしょう。
ちなみに多聞天(毘沙門天)は秦河勝。広目天は迹見赤イ(とみのいちい)。増長天は小野妹子。持国天は
蘇我馬子になぞらえられています。
秦河勝の正真正銘の子孫と思われる世阿弥の著した『風姿花伝(花伝書)』に秦河勝の姿を毘沙門天と
同体のように伝えていることと、四天王寺創建に関わる伝承にも秦河勝は毘沙門天になぞらえられている
事を知り私の謎解きの検索方向は誤ってはいないと思いました。
2015年10月13日のブログに「秦氏の計画都市?平安京」を書きました。秦氏が開発した山背に桓武天皇
が都を移し平安京となりますが、この都を守護する役割をになう寺々には毘沙門天が安置されていた上に
内裏の建てられた場所は秦河勝の邸宅のあったところと伝承されているのです。渡来氏族の秦氏の財力が
3ないし400年の間に平安京を築けるほどになれるものか?この謎を解く鍵も<毘沙門天>が握ってい
るのではないか?毘沙門天の成り立ちを調べてみようと思いました。
毘沙門天は仏教の世界観によると須弥山という山が」世界の中心で仏尊はそこに住むとされ、その下に
五層に分かれて仏尊を守護する仏たちの居住区があり、四天王は上から二番目の四天王宮に住んでおり、
その場所から持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、多聞天は北方を守るとされるが、多聞天を独尊
として祀る場合には毘沙門天と呼称されあつく信仰されていました。
毘沙門天とはサンスクリット語のヴァイシユラヴァナないしヴァイシュラマナを漢訳したもので毘沙門天は
その音訳、多聞天はその意訳なので両者は本来同一のものでした。
毘沙門天の神格はインド伝統のもので紀元前1千年頃の『アタルヴァ・ヴェーダ』に闇黒界に住む悪霊の首
長として登場しており、のちの『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタでは』それはヴァイシュラバス神の子
でクベーラ・ヤクシャと名付けられ、財宝、福徳を司る神へと転じ、夜叉(空中を飛ぶ鬼類)羅刹(地行の
暴悪鬼で食人をする)を統領し雪山(ヒマラヤ)中のカイラーサに住んで北方を守護する善神として崇拝され
たことが知られる。ムンジャバットやラージャグリハにはその祠堂があって日々礼拝が行われていたといわれ
釈尊在世時代の釈迦族の間でも行われており、釈迦族はヤクシャの祠堂に参詣させる習慣があったと伝えられ
ている。
これらの祠堂ではヤクシャの像が造立されていたと思われるが現存するものの最古の像はマウリア朝(紀元
前317~180年頃、王朝の3代目がアショカ王)時代に成ったものの、インドではかなり後世までクベーラの
名称が用いられており、中世のヒンードゥー経美術にもヤクシャのクベーラとして描写されている。
仏教の『阿育王経』においては四天王の一人はクベーラと音訳した「鳩ビ羅」「金比羅」と記され毘沙門天とは
記されていないという。讃岐の「金比羅さん」が毘沙門天の別称とは驚きました。
インドのクベーラ・ヤクシャが毘沙門天という武装する神格に変化したのはインドの北西辺境にあるガンダ
ーラ地方であった。当時ガンダーラの支配層はインド系ではなく、中央アジアから南下したイラン系民族(ク
シャン族)であった(クシャン朝1~3世紀)。当然ながらガンダーラやその周辺地域のイラン系仏教徒にとって
北方の守護神の名前、その服装や頭飾りなどすべてかれらの文化に調和し、民族意識を満足させる必要があった。
『ヴィシュタダルモッタラ、プラーナ』という図像学書の「プラティマーラクシャナ」によれば毘沙門天の服装
は「ウディチューヤヴューシャ」=「北方人の衣服」であると記されている。これは明らかに中央アジアのイラ
ン系民族の服装(長袖のチュニック、ズボン、靴)である。
クベーラには大黒天のような豊穣、富、財産、現世の幸福といった「福の神」としての機能があるがインドでも
クシャーン朝時代に太鼓腹の男子像で擬人化されていたが同じような現象がガンダーラにおいても起こっている。
それはヤクシャの将軍のバーンチカとその妻のハーリティー女神像の夫婦像に見られる。この男女のペアー像は
豊穣多産の神としてクシャン朝時代のガンガーラでは多くの信仰をかち得ていた。この女神像はギリシャやロー
マの図像を借用していたし、男神像もギリシャやローマそしてイラン系の男性神の姿で表わされている。この
外来の神がのちの毘沙門天像の原形になったという。そしてこの非インド的な男性神はファッローないしファロー
と呼ばれるゾロアスター教の豊穣・富の神である。この神の特色の一つは手に財布を持っている。もう一つの特色
は頭部に一対の鳥翼を戴いていたり、鳳凰を飾った三面立て宝冠を被っていることである。
以前のブログで毘沙門天像の冠帽や着甲の似ているものをグループ化しましたがその理由までは調べていません
でした。時代ごとに地域住民が変われば住民の文化に合わせて神の姿も変容していくらしいと知って、鳥冠を被った
毘沙門天像が丹波から若狭にかけて分布していることを興味深く思いました。たしか聖徳太子の母である穴穂部間人
皇女との関係をつたえている<間人・たいざ>という地もこの辺りです(京都府竹野郡丹後町)。
これらの毘沙門天に関する情報は田辺克己著『毘沙門天像の誕生ーシルクロードの東西文化の交流』や学研・神仏の
かたちシリーズ第2号『四天王』から得ました。
秦川勝が毘沙門天になぞらえられる理由とルーツが今回のブログの情報から推量出来るように感じていますが、より
重要な兜跋毘沙門天王と合わせて次回に推理しましょう。