ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き 呼子鳥

2009-09-02 14:33:48 | 日本文化・文学・歴史
  をちこちのたつきも知らぬ山なかにおぼつかなくも呼子鳥かな
                        読み人しらず(巻1-29)

 古今集の中で古今伝授・三鳥のひとつ<呼子鳥>が詠まれている。
現在呼子鳥という名称の鳥はいないが、伝承では<郭公>の異名とされる。

私は字義から考えると<呼子の鳥>か<子を呼ぶ鳥>だろうと思った。秋の七草の
萩は<宮城野の萩>の地名がヒントだったから、呼子は九州の佐賀の<呼子>では
ないか?と思った。

呼子は佐賀県東松浦半島の北端に位置し、古来壱岐・対馬を経て朝鮮に至る最短の
要津(ようしん)である。秋の七草を詠んだ山上憶良は『肥前風土記』に語られる
<松浦佐用姫>の伝説
  「大和政権は527年に新羅の任那侵略を阻止すべく大軍を北九州に集結させて
   いたが、筑紫国造磐井が叛乱をおこし目的を達成できずにいた。そこで勅命
   により大伴金村の子の磐と狭手彦が下向した。磐は筑紫にとどまる一方、狭
   手彦は全軍を指揮して松浦の里に陣をはったが、この地の長者の娘佐用姫と
   恋に落ちた。やがて狭手彦が船出する時が来た。佐用姫は狭手彦の後を追い
   鏡山から領巾(ひれ)を振りなごりを惜しんでいたが、船影が消えると彼を
   追って呼子の加部島まで渡り、その地で悲しみのあまり石と化したという)
をうたっている。

  遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
                       (万葉集5-871)

(万葉集巻五にはこの歌に続き、後人の追和(872)最後人の追和(873)最最後人
の追和二首(874.875)三島王、後に追和(883)とたくさんの追和歌を載せてる。
この暗号解読の助けとなるよう家持の作為を感じる。)

用を助ける姫とは不思議な名前だと思ったが、はたしてこの加部島の西の加唐島
(かからじま)に<呼子>の地名の起源と思われる<子を呼ぶ>説話が『日本書
記・雄略紀』に記されている。

 雄略天皇五年に百済の蓋ろ王(がいろおう)は弟の昆支王(こんきおう)を日本
に派遣することにした。弟の所望により自分の寵愛していた女を与え同行させたが
その時女は身重で臨月にあたっていた。蓋ろ王は弟に旅の途中で子供が生まれた
ならば百済へ送り返すように命じた。はたして筑紫の各羅島(かからじま)で
男の子が生まれ<嶋君(セマキシ)>と名づけられた。母子は百済へ送り返された
がその子は後の<武寧王(ぶねいおう)>であり、百済の人は各羅島を<主嶋(ニ
リムセマ)>と言っている。

この逸話の各羅島は現在の加唐島とされていて、百済人の集落があったと伝えられ
ている。また武寧王のし号が<斯麻王(しまおう)>であったことは『書紀・武烈
紀』や『三国史記』にも記されているが、1971年に韓国の公州にある宋山里古墳群
で偶然発見された一基の古墳に「斯麻王」と記された墓誌が出土し、武寧王陵と特
定された。

百済からの渡来人説のある蘇我氏の馬子を『書紀・推古紀』では<嶋大臣(しまの
おおおみ)>と記しており、<嶋君・斯麻王>との一致は偶然とは思えない。

<呼子鳥>も<女郎花>も『書紀』の説話を用いて<百済>を暗示しているが、二
つの説話は相前後しており作為的である。

では呼子鳥がなぜ<郭公>の異名とされたのか?

  いくばくの田をつくればか郭公(ほととぎす)しでの田長(たおさ)が
  朝な朝な呼ぶ
                     (古今集・巻19-1013)

郭公が「ほととぎす」なら謎はとける。
<ほと>は古代・女性器の名称。<とぎす>を夜伽(よとぎ)のとぎと解すると
<女郎(あそびめ)>となり<女郎花>と結びつく発想と思われる。

しかし私は本当の<呼子鳥>は<かささぎ>ではないかと思っている。
かささぎ(偏は昔に鳥と表記)は古より佐賀平野のみに棲息している朝鮮烏である。
ちなみに藤原定家の「詠花鳥和歌十二ヶ月」の花鳥の取り合わせは
 七月 女郎花とかささぎである。  


 
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