わがかどにいなおうせどりのなくなへにけさ吹く風にかりはきにけり
(巻4-208)
古今伝授三鳥のひとつ<稲負背(いなおうせどり)>が詠み込まれている。
古歌に多く詠まれていて、セキレイ・トキ・スズメなどの説があるが未詳。
和名抄に<稲負鳥・其読 伊奈於保勢度利(いなおほせどり)>とあり
語源としては<稲を刈り背に負わせる意・百草露>
<鳥の姿が稲を負っているに似ていることから・和訓栞>
<日本に稲の種をもたらしたという言い伝えから・古今集註>
などの説がある。
私は語源をイメージ化している内に<稲負う背>とは<稲の荷>つまり<稲荷鳥>
ではないか?と思った。
子供のころ生家の庭には<稲荷明神>を祀っていた。水やご飯を供える手伝いはま
まごとのようで面白かったし、刻みの多い階段が人形サイズなので人形遊びの場で
もあった。その社には陶器の狐があり<お明神さん>と我が家では呼んでいた。
稲荷信仰は古くより農業や商売の神として民間に広く支持されて現在にいたって
いるが、その起源が『山城国風土記』逸文に記されている。
「秦氏の遠祖が山城国で富栄えていたが、その富貴に奢る挙動があった。つまり餅
の的を作って射たところ、その的が<白鳥(しろとり)>と化して伊奈利山の峰に
止まった。そこに稲が生じ、ついに社の名となった。
その子孫は祖先の非を悔い、社の木を根こじて家に植えた。その木が根づけば吉、
枯れれば凶ということになっている」
つまり稲荷社の名前の由来と起源、神木<験(しるし)の杉>の由来を述べている
のだが、稲荷神は<宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)>という穀霊神で
その神像は<稲を負った農民の姿>で表現されている。
私はこの神が記紀や『出雲国風土記』に記されている<少名彦神(すくなひこがみ
>と同じ穀霊神であることから、出雲と関係があるのではと考えていたが、面白い
ことに気がついた。
古代の<出雲大社>は社伝によると上古は96メートル、中古は48メートルの高さだ
ったとあり、平安時代に源為憲(みなもとのためのり)が子供向けに編んだ教養書
『口遊(くちずさみ)』の<大家の項>に<雲太和二京三(大きい建物は一位出雲
の出雲大社。二位大和の東大寺大仏殿。三位京の大極殿の意)>とありその壮大さ
が証明されている。島根県古代文化センターにある出雲大社の復元模型図を見て
いると<階段が長く刻まれていた生家のお明神さん>とそっくりな形である。
庶民が出雲大社(杵築明神)の姿を稲荷明神として伝え続けてきたのではないか?
と思った。
『出雲国風土記』には<たく衾(ふすま)新羅>と記されているが、稲荷神と新羅
を結びつけることが可能だろうか?
秋の七草の「藤袴」では
藤袴→蘭(らに)→阿羅木(あららぎ)→新羅城(あららぎ)から
城(しろ)を取り 「新羅」となったが
古今伝授の「稲負鳥」では
稲負鳥→稲荷鳥→(稲荷社の由来の)白鳥に転化させることで
「白鳥(しろとり)」となる
藤袴とは<しろとり>を共有して「新羅」を表わすという巧妙な仕掛けが隠されていたのだ。
しろとり(古名・鵠・くぐひ)は記紀で<垂仁天皇の子・本牟智和気王(ほむちわ
けおう)が大人になっても口がきけなかったが鵠を見て初めて言葉を発した>
<景行天皇条に倭建命(やまとたけるのみこと)が死後に白鳥になって飛び去った
>などの説話がある。
また出雲の国造は平安時代まで新任の儀式を朝廷で行ったが、その際の献納物に
鵠二羽が含まれていた。白鳥は出雲と縁の深い鳥であった。
(巻4-208)
古今伝授三鳥のひとつ<稲負背(いなおうせどり)>が詠み込まれている。
古歌に多く詠まれていて、セキレイ・トキ・スズメなどの説があるが未詳。
和名抄に<稲負鳥・其読 伊奈於保勢度利(いなおほせどり)>とあり
語源としては<稲を刈り背に負わせる意・百草露>
<鳥の姿が稲を負っているに似ていることから・和訓栞>
<日本に稲の種をもたらしたという言い伝えから・古今集註>
などの説がある。
私は語源をイメージ化している内に<稲負う背>とは<稲の荷>つまり<稲荷鳥>
ではないか?と思った。
子供のころ生家の庭には<稲荷明神>を祀っていた。水やご飯を供える手伝いはま
まごとのようで面白かったし、刻みの多い階段が人形サイズなので人形遊びの場で
もあった。その社には陶器の狐があり<お明神さん>と我が家では呼んでいた。
稲荷信仰は古くより農業や商売の神として民間に広く支持されて現在にいたって
いるが、その起源が『山城国風土記』逸文に記されている。
「秦氏の遠祖が山城国で富栄えていたが、その富貴に奢る挙動があった。つまり餅
の的を作って射たところ、その的が<白鳥(しろとり)>と化して伊奈利山の峰に
止まった。そこに稲が生じ、ついに社の名となった。
その子孫は祖先の非を悔い、社の木を根こじて家に植えた。その木が根づけば吉、
枯れれば凶ということになっている」
つまり稲荷社の名前の由来と起源、神木<験(しるし)の杉>の由来を述べている
のだが、稲荷神は<宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)>という穀霊神で
その神像は<稲を負った農民の姿>で表現されている。
私はこの神が記紀や『出雲国風土記』に記されている<少名彦神(すくなひこがみ
>と同じ穀霊神であることから、出雲と関係があるのではと考えていたが、面白い
ことに気がついた。
古代の<出雲大社>は社伝によると上古は96メートル、中古は48メートルの高さだ
ったとあり、平安時代に源為憲(みなもとのためのり)が子供向けに編んだ教養書
『口遊(くちずさみ)』の<大家の項>に<雲太和二京三(大きい建物は一位出雲
の出雲大社。二位大和の東大寺大仏殿。三位京の大極殿の意)>とありその壮大さ
が証明されている。島根県古代文化センターにある出雲大社の復元模型図を見て
いると<階段が長く刻まれていた生家のお明神さん>とそっくりな形である。
庶民が出雲大社(杵築明神)の姿を稲荷明神として伝え続けてきたのではないか?
と思った。
『出雲国風土記』には<たく衾(ふすま)新羅>と記されているが、稲荷神と新羅
を結びつけることが可能だろうか?
秋の七草の「藤袴」では
藤袴→蘭(らに)→阿羅木(あららぎ)→新羅城(あららぎ)から
城(しろ)を取り 「新羅」となったが
古今伝授の「稲負鳥」では
稲負鳥→稲荷鳥→(稲荷社の由来の)白鳥に転化させることで
「白鳥(しろとり)」となる
藤袴とは<しろとり>を共有して「新羅」を表わすという巧妙な仕掛けが隠されていたのだ。
しろとり(古名・鵠・くぐひ)は記紀で<垂仁天皇の子・本牟智和気王(ほむちわ
けおう)が大人になっても口がきけなかったが鵠を見て初めて言葉を発した>
<景行天皇条に倭建命(やまとたけるのみこと)が死後に白鳥になって飛び去った
>などの説話がある。
また出雲の国造は平安時代まで新任の儀式を朝廷で行ったが、その際の献納物に
鵠二羽が含まれていた。白鳥は出雲と縁の深い鳥であった。