日本書紀の天武天皇紀をこれまで何度か目を通しておりながら、その幼名<大海人皇子>
が<おほしあまのみこ>とルビがふられていることを気づかずにいました。学校の授業で
も万葉集の和歌の世界でも<おおあまのみこ>と呼んでいたのですから・・。しかしこの
<おほしあまのみこ>と知ったことによって様々な謎が解けて来ました。
その謎とは
①出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓う飛鳥の四神(大物主・事代主・阿遅須伎高彦根・
加夜奈留美)の社をつなぐと菱形となる。その菱形の中に飛鳥京がすっぽりと納まっ
ていると横田健一氏は『飛鳥の神々』で指摘されました。出雲系の神々が国譲りを迫
られた天神の都の飛鳥京を何故守ると誓っているのか?
②『古代海人の世界』で谷川健一氏は菱形(比志方)の<ヒシ>は隼人の言葉で<隠れ
岩・水面に見え隠れする礁・磯>を指す言葉であると指摘していましたが、安曇族が
征服者に服従の誓いを捧げる細男舞のあとに必ず添えられるセリフ「彼の舞台は海中
に石と成りていまに侍となむ」とは海中の石と化してしまった(石棺?)磯良を暗示
していると思われる。九州から遠く離れた飛鳥京を<ヒシカタ>で囲い守ろうとした
理由は何故か?
このふたつの疑問が頭の隅にいつもありました。
記紀で飛鳥を冠した都は
①遠つ飛鳥宮 允恭天皇
②近つ飛鳥八釣宮 顕宗天皇
③飛鳥岡本宮 舒明天皇
④飛鳥板蓋宮 皇極天皇
⑤飛鳥岡本宮 斎明天皇
⑥飛鳥浄御原宮 天武天皇
ですが、この中で海人との関係の深さをうかがえるのは、顕宗天皇と天武天皇でしょう。
顕宗天皇は両親ともに葛城の血を濃く受け継いでいる父(市辺押磐皇子)が雄略天皇に殺
された後に身を潜めた丹波で匿ってくれたのが籠神社の宮司家である海部氏の丹波国造・
海部直阿知でした。そして阿知の先祖には倭国造でもある椎根津彦がおりますから海人族
との繋がりは濃厚です。
天武天皇は幼名<おほしあまのみこ>。これは養育にあたった乳母の<凡海連・おほしあ
まのむらじ>から名づけられたと言われています。凡海連は阿知と同族で父の代から国造
家と凡海とに分れています。本拠地は丹波国に凡海郷があり、由良川河口、現在の宮津市
から大浦鵜の舞鶴湾岸と考えられています。
さらに、大海人皇子の長子である高市皇子(たけちのみこ・壬申の乱では実戦の指揮をと
った)の母は胸形君徳善の女・尼子娘で天武天皇のfirst wifeであったろうとされます。
胸形君とは倭の海人は隼人系、安曇系、宗像系があると先に述べましたが、宗像三女神を
奉祭する筑前国宗像郡を本拠とする宗像神社の神官の家柄で、姓氏録では「宗像朝臣、大
神朝臣同祖。阿田片隅命之後也」「宗形君、大国主命六世孫、阿田片隅命之後也」とあり
吾田族とも血縁関係があるとしている。
大海人皇子の幼少期や青年期について記紀は何も述べておらず、天智天皇の弟とされます
が天武の方が三歳年長ではないかと言う説や、天智天皇とは母は同じでも父が異なるので
はないか、また天智天皇の皇女4人が天武妃となっていることも異常である等と様々な疑
いがもたれていますし、京都にあり皇室の位牌を安置する涌泉寺では天武系の皇統のみは
祀られていないという。このようなことを考えると天武天皇は天智天皇とは異なる出自
ではないかと思い始めました。その理由は壬申の乱における大海人皇子の味方についた者
たちの系譜です。
壬申の乱とは671年に天智天皇が崩御した後に、天智天皇の長の皇子・大友皇子と大海人
皇子が皇位を巡る争いとなり壬申の年(672年)に起こった古代史上最大の争乱であった
ことから<壬申の乱>とよばれています。この乱の成り行きは日本書紀巻28天武天皇紀
に詳しく載っていますのでこのブログでは省略しますが、この乱に加わった人々を知るた
めに西郷信綱著『壬申紀を読む』(平凡社選書148、1993年㈱平凡社)を参考にしまし
た。
まず壬申の乱で大海人皇子に加勢した地域をおおまかですが拾ってみました。
①吉野
病の床についた天智天皇が大海人皇子は次の天皇位をねらっていると疑念をいだいて
いる事を察して、自ら出家するといい吉野へ向かう。
吉野は土蜘蛛、国巣、阿陀の鵜飼いなど国神の居住地と記紀に記されている地方。
吉野軍の兵糧を提供したのは彼らではと考えられる。
②美濃と尾張
この地域は魏志倭人伝で倭人の風俗と記された黥面文身(入墨)を写した土器や絵画
の発掘された地域です。大化前代の<穂の国の穂><尾張国の尾>は「秋の七草」の尾
花(薄の穂・尾)から名づけられたと思う。尾花を茅ともいう訳は朝鮮半島にあった
伽耶を導き出すためのもので、穂の国や尾張国は伽耶から移住して来た人々(倭人・
海人)が開拓し、国へと発展させた海人族の国。
吉野に身を潜めた大海人皇子は近江朝廷方が陵墓造成のために人夫を集めているとい
う情報を得、兵士を集めはじめたと察してまず「兵を起こせ」と命令を下したのが、
美濃の安八摩郡(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)多品治(おおのほむ
じ)。湯沐令とは天子・諸公の料地。国司の徴税した分を送付し、中宮や東宮の諸費
用に充てるほか、兵力の供給地で軍事の基盤を為す直轄領をいう。
不破関は美濃国不破郡が近江国と接する境界。大海人皇子はこのあたりに本営をおい
て近江に進撃する。この地には不破勝という百済国の人淳部士等の後也とある不破勝
の居住地。美濃国加毛郡にも不破勝一族がいますが、加毛と言う地名は葛城・地祇系
の人々の地名です。
美濃国各務郡の豪族・村国連男依(壬申の功大と外小紫位を賜る)によって美濃の兵
三千人が集められ不破の道を制圧した。
壬申紀には美濃王。身毛君広(武義郡の豪族・国造の家系・景行天皇皇子・大碓命の
後)。湯沐令田中臣。高田首新家(美濃国主稲・湯沐管理の職・出自高麗国)などが
美濃国からはせ参じた。
尾張国からは、尾張国司守・小子部さひろが二万の兵を率いて来る。
尾張宿禰大隅(国造家・熱田神宮宮司)が軍資を提供した。
大海人皇子にとって最も信頼出来、頼りになる所が美濃でした。
③伊勢・伊賀
伊賀は近江軍を指揮する大友皇子の母(伊賀采女・宅子)の故郷であり、当然近江
方の支配下にあったと思われますが、伊賀臣の上祖は孝元天皇の皇子・大彦命から分
れた七族のうちの安部臣、阿閉臣と同祖とされており「当国の郡司等数百の衆を率い
てきた」とは大彦の子孫たちであったろう。『津軽外三郡誌』で孝謙天皇が大彦の裔
・阿倍一族から立后したと伝えており、祟神天皇以前の旧勢力の縁は氏族の伝承とし
て根付いていたと思われます。
伊勢在住の役人も支援しています。
三宅連石床(新羅城王子・天日矛命の後)
介 三輪君子首(大三輪氏・出雲系)
④九州・吉備
この乱で大分君恵尺(おおきだのきみ・えさか)稚臣(わかみ)という豊後国大分郡
の豪族が大変活躍していますが、大分君の祖は神八井命(神武天皇の末裔)その子孫
は大層繁栄し多くの氏族にわかれています。
意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫の三家連・小長谷造
都祁直・伊奈国造・伊勢の船木直・尾張丹羽臣・島田臣らがいます。
近江方は筑紫の太宰・栗隈王と吉備国守・当麻公広島にも派兵の命令を下しますが、
栗隈王は「筑紫は外敵に対し辺防の任にあたるもので内戦に兵は出せぬ」と断りま
す。この王には三野王と武家王の二子があり、三野王は橘諸兄の父にあたります。
もともと吉野方とみられていた吉備国守・当麻公広島は使いの磐手にだまし討ちされ
たが、同族の当麻真人広麻呂が没した時に、壬申の功により直大壱(正四位相当)を
贈られている。また吉備津神社を創始したのは飛鳥の神奈備の加夜奈留美命と社伝は
伝えており、吉備地方にも入墨の入った顔の土器が出土しているので、尾張同様伽耶
系の移民が開拓し、海人系が国を起こしたと推量しています。
他に大和、山城、渡来系、その他は壬申紀に載る名前から、祖先の系譜をたどり、どのよ
うな人々が大海人皇子の味方だったかを次回に紹介したいと思います。
壬申の乱の表面は皇位を巡る争いに見えますが、国神(地祇族)と大和朝廷との戦いであ
った可能性があると思います。
去年の今頃は目の異常で不安な日々でしたが回復し、ブログを続けることができました。
訪問して下さった皆さまありがとうございました。自分の思いを文章にする難しさをつく
づく感じた一年でした。来年も、もう少し頑張って謎解きを続けたいと思っています。
どうぞ良い年をお迎えください。 草野 俊子
が<おほしあまのみこ>とルビがふられていることを気づかずにいました。学校の授業で
も万葉集の和歌の世界でも<おおあまのみこ>と呼んでいたのですから・・。しかしこの
<おほしあまのみこ>と知ったことによって様々な謎が解けて来ました。
その謎とは
①出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓う飛鳥の四神(大物主・事代主・阿遅須伎高彦根・
加夜奈留美)の社をつなぐと菱形となる。その菱形の中に飛鳥京がすっぽりと納まっ
ていると横田健一氏は『飛鳥の神々』で指摘されました。出雲系の神々が国譲りを迫
られた天神の都の飛鳥京を何故守ると誓っているのか?
②『古代海人の世界』で谷川健一氏は菱形(比志方)の<ヒシ>は隼人の言葉で<隠れ
岩・水面に見え隠れする礁・磯>を指す言葉であると指摘していましたが、安曇族が
征服者に服従の誓いを捧げる細男舞のあとに必ず添えられるセリフ「彼の舞台は海中
に石と成りていまに侍となむ」とは海中の石と化してしまった(石棺?)磯良を暗示
していると思われる。九州から遠く離れた飛鳥京を<ヒシカタ>で囲い守ろうとした
理由は何故か?
このふたつの疑問が頭の隅にいつもありました。
記紀で飛鳥を冠した都は
①遠つ飛鳥宮 允恭天皇
②近つ飛鳥八釣宮 顕宗天皇
③飛鳥岡本宮 舒明天皇
④飛鳥板蓋宮 皇極天皇
⑤飛鳥岡本宮 斎明天皇
⑥飛鳥浄御原宮 天武天皇
ですが、この中で海人との関係の深さをうかがえるのは、顕宗天皇と天武天皇でしょう。
顕宗天皇は両親ともに葛城の血を濃く受け継いでいる父(市辺押磐皇子)が雄略天皇に殺
された後に身を潜めた丹波で匿ってくれたのが籠神社の宮司家である海部氏の丹波国造・
海部直阿知でした。そして阿知の先祖には倭国造でもある椎根津彦がおりますから海人族
との繋がりは濃厚です。
天武天皇は幼名<おほしあまのみこ>。これは養育にあたった乳母の<凡海連・おほしあ
まのむらじ>から名づけられたと言われています。凡海連は阿知と同族で父の代から国造
家と凡海とに分れています。本拠地は丹波国に凡海郷があり、由良川河口、現在の宮津市
から大浦鵜の舞鶴湾岸と考えられています。
さらに、大海人皇子の長子である高市皇子(たけちのみこ・壬申の乱では実戦の指揮をと
った)の母は胸形君徳善の女・尼子娘で天武天皇のfirst wifeであったろうとされます。
胸形君とは倭の海人は隼人系、安曇系、宗像系があると先に述べましたが、宗像三女神を
奉祭する筑前国宗像郡を本拠とする宗像神社の神官の家柄で、姓氏録では「宗像朝臣、大
神朝臣同祖。阿田片隅命之後也」「宗形君、大国主命六世孫、阿田片隅命之後也」とあり
吾田族とも血縁関係があるとしている。
大海人皇子の幼少期や青年期について記紀は何も述べておらず、天智天皇の弟とされます
が天武の方が三歳年長ではないかと言う説や、天智天皇とは母は同じでも父が異なるので
はないか、また天智天皇の皇女4人が天武妃となっていることも異常である等と様々な疑
いがもたれていますし、京都にあり皇室の位牌を安置する涌泉寺では天武系の皇統のみは
祀られていないという。このようなことを考えると天武天皇は天智天皇とは異なる出自
ではないかと思い始めました。その理由は壬申の乱における大海人皇子の味方についた者
たちの系譜です。
壬申の乱とは671年に天智天皇が崩御した後に、天智天皇の長の皇子・大友皇子と大海人
皇子が皇位を巡る争いとなり壬申の年(672年)に起こった古代史上最大の争乱であった
ことから<壬申の乱>とよばれています。この乱の成り行きは日本書紀巻28天武天皇紀
に詳しく載っていますのでこのブログでは省略しますが、この乱に加わった人々を知るた
めに西郷信綱著『壬申紀を読む』(平凡社選書148、1993年㈱平凡社)を参考にしまし
た。
まず壬申の乱で大海人皇子に加勢した地域をおおまかですが拾ってみました。
①吉野
病の床についた天智天皇が大海人皇子は次の天皇位をねらっていると疑念をいだいて
いる事を察して、自ら出家するといい吉野へ向かう。
吉野は土蜘蛛、国巣、阿陀の鵜飼いなど国神の居住地と記紀に記されている地方。
吉野軍の兵糧を提供したのは彼らではと考えられる。
②美濃と尾張
この地域は魏志倭人伝で倭人の風俗と記された黥面文身(入墨)を写した土器や絵画
の発掘された地域です。大化前代の<穂の国の穂><尾張国の尾>は「秋の七草」の尾
花(薄の穂・尾)から名づけられたと思う。尾花を茅ともいう訳は朝鮮半島にあった
伽耶を導き出すためのもので、穂の国や尾張国は伽耶から移住して来た人々(倭人・
海人)が開拓し、国へと発展させた海人族の国。
吉野に身を潜めた大海人皇子は近江朝廷方が陵墓造成のために人夫を集めているとい
う情報を得、兵士を集めはじめたと察してまず「兵を起こせ」と命令を下したのが、
美濃の安八摩郡(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)多品治(おおのほむ
じ)。湯沐令とは天子・諸公の料地。国司の徴税した分を送付し、中宮や東宮の諸費
用に充てるほか、兵力の供給地で軍事の基盤を為す直轄領をいう。
不破関は美濃国不破郡が近江国と接する境界。大海人皇子はこのあたりに本営をおい
て近江に進撃する。この地には不破勝という百済国の人淳部士等の後也とある不破勝
の居住地。美濃国加毛郡にも不破勝一族がいますが、加毛と言う地名は葛城・地祇系
の人々の地名です。
美濃国各務郡の豪族・村国連男依(壬申の功大と外小紫位を賜る)によって美濃の兵
三千人が集められ不破の道を制圧した。
壬申紀には美濃王。身毛君広(武義郡の豪族・国造の家系・景行天皇皇子・大碓命の
後)。湯沐令田中臣。高田首新家(美濃国主稲・湯沐管理の職・出自高麗国)などが
美濃国からはせ参じた。
尾張国からは、尾張国司守・小子部さひろが二万の兵を率いて来る。
尾張宿禰大隅(国造家・熱田神宮宮司)が軍資を提供した。
大海人皇子にとって最も信頼出来、頼りになる所が美濃でした。
③伊勢・伊賀
伊賀は近江軍を指揮する大友皇子の母(伊賀采女・宅子)の故郷であり、当然近江
方の支配下にあったと思われますが、伊賀臣の上祖は孝元天皇の皇子・大彦命から分
れた七族のうちの安部臣、阿閉臣と同祖とされており「当国の郡司等数百の衆を率い
てきた」とは大彦の子孫たちであったろう。『津軽外三郡誌』で孝謙天皇が大彦の裔
・阿倍一族から立后したと伝えており、祟神天皇以前の旧勢力の縁は氏族の伝承とし
て根付いていたと思われます。
伊勢在住の役人も支援しています。
三宅連石床(新羅城王子・天日矛命の後)
介 三輪君子首(大三輪氏・出雲系)
④九州・吉備
この乱で大分君恵尺(おおきだのきみ・えさか)稚臣(わかみ)という豊後国大分郡
の豪族が大変活躍していますが、大分君の祖は神八井命(神武天皇の末裔)その子孫
は大層繁栄し多くの氏族にわかれています。
意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫の三家連・小長谷造
都祁直・伊奈国造・伊勢の船木直・尾張丹羽臣・島田臣らがいます。
近江方は筑紫の太宰・栗隈王と吉備国守・当麻公広島にも派兵の命令を下しますが、
栗隈王は「筑紫は外敵に対し辺防の任にあたるもので内戦に兵は出せぬ」と断りま
す。この王には三野王と武家王の二子があり、三野王は橘諸兄の父にあたります。
もともと吉野方とみられていた吉備国守・当麻公広島は使いの磐手にだまし討ちされ
たが、同族の当麻真人広麻呂が没した時に、壬申の功により直大壱(正四位相当)を
贈られている。また吉備津神社を創始したのは飛鳥の神奈備の加夜奈留美命と社伝は
伝えており、吉備地方にも入墨の入った顔の土器が出土しているので、尾張同様伽耶
系の移民が開拓し、海人系が国を起こしたと推量しています。
他に大和、山城、渡来系、その他は壬申紀に載る名前から、祖先の系譜をたどり、どのよ
うな人々が大海人皇子の味方だったかを次回に紹介したいと思います。
壬申の乱の表面は皇位を巡る争いに見えますが、国神(地祇族)と大和朝廷との戦いであ
った可能性があると思います。
去年の今頃は目の異常で不安な日々でしたが回復し、ブログを続けることができました。
訪問して下さった皆さまありがとうございました。自分の思いを文章にする難しさをつく
づく感じた一年でした。来年も、もう少し頑張って謎解きを続けたいと思っています。
どうぞ良い年をお迎えください。 草野 俊子