越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

近衛前久の関東在国時における新出文書

2022-08-18 20:51:08 | 雑考

 
 ひと昔前に、たまたま図書館で閲覧した『武家手鑑 解題』(前田育徳会尊経閣文庫)の目録によって、上杉輝虎が越後衆の計見出雲守(実名は堯元か)・吉江中務丞忠景へ宛てた書状(年月日不詳)があることを知り、是非ともその内容を確認したく、以来、方々を探し回ったのですが見つからず、近年は半ば諦めていたところ、昨年末に当該文書が収録されている『尊経閣善本影印集成 77 武家手鑑 付旧武家手鑑 〔第十輯 古文書〕』(八木書店)が発刊されたことから、このたび念願かなって文書の画像を見ることができました。
 結論から申しますと、タイトルの通り、近衛前久(初め晴嗣、次いで前嗣を名乗った)の新出文書でありまして、上杉輝虎の書状(『尊経閣善本影印集成77 武家手鑑』では判物とあります)ではありませんでした。この書状には発給者の署名は書かれておらず、花押のみが据えられているのですが、それは驚いたことに近衛前久の花押であったのです。
 
【史料】計見出雲守・吉江中務丞宛近衛前久書状
度〻言上神妙候、仍南方之儀、氏康令退散之由、先以可然候、委曲知恩寺可有演説候也、

 九月十五日(花押)

    吉江中務丞とのへ
    計見出雲守とのへ

※ 知恩寺岌州は京都百万遍知恩寺の第三十世で、長尾景虎の上洛中、近衛家と景虎との間の連絡役を務め、前久の関東下向に従った。

 発給者の関白近衛前久(前嗣)は、永禄2年夏に越後国長尾景虎が将軍足利義輝から関東平定のお墨付きなどを得るために上洛すると、景虎と親交を深めるなかで、景虎の軍事力をもって「京都無念なる条々」を打ち払うことを望み、景虎を再上洛させるにはまず関東の安定を図らなければならないため、関白自ら関東へ下り、その権威をもって景虎の関東平定を支援する盟約を結んだと考えられています。翌年の永禄3年秋に景虎が関東管領山内上杉憲政(号光徹)を奉じて関東へ進攻したのに伴い、同年10月頃にまず越後国へ下り、年が明けて雪解けの季節に関東へ出て活動を始めた5月には、景虎が永禄4年3月に敵である相州北条家の本拠小田原城に迫ったのち、翌月の閏3月に鎌倉の地へ移り、鶴岡八幡宮に社参し、目論見通りに上杉憲政から関東管領山内上杉家を譲られて氏名を上杉政虎と改めたことを受け、自分と同じ藤原氏になったとして、前線の政虎へ喜びを伝えました。その政虎が7月にいったん帰国すると、これには同行せず、遅くとも8月下旬までには、長らく滞在していた上野国厩橋城から、鎌倉公方足利藤氏が拠る下総国古河城へ移り、政虎に成り代わって味方中を鼓舞していますが、相州北条方の攻勢や味方中の離反に遭うに連れて気勢を削がれました。

 くだんの書状に据えられた花押は、関東在国中に近衛前久は実名を前嗣から前久に変えたのと同時に花押をそれまでの公家様から武家様に変えており(時期は古河入城の前後と考えられています)、この武家様の型に当たります。
 そして書状の年次は、前久が関東平定の困難を悟り、盟約を反故にして政虎改め輝虎(永禄4年末に将軍足利義輝から一字を付与された)の制止を振り切って、永禄5年8月3日以前には帰京してしまっていることと、「計見・吉江」に協力して奮闘した稲垣新三郎(足利長尾氏の被官)を称えている永禄4年12月21日付稲垣新三郎宛上杉政虎感状、その稲垣へ吉江忠景を通じて所領が与えられている同年月日付同人宛吉江忠景宛行状(『上越』300・301号)により、前久が古河城にいた頃には、計見と吉江が関東のどこかの城塞を守っていたのは確かであることからして、永禄4年に比定できます。
 
 よって当ブログの上杉輝虎(政虎)の略譜では、この文書を永禄4年9月15日付計見出雲守・吉江中務丞宛近衛前久書状として引用することにしました。


〔参考文献〕近衛通隆「近衛前久の関東下向」(阿部洋輔編『戦国大名論集9 上杉氏の研究』吉川弘文館)◆ 佐藤博信「越後上杉謙信と関東進出 ー関東戦国史の一齣ー」(同前)◆ 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)

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