越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【元亀元年5月〜同年7月】

2014-02-09 00:57:15 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)5月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】


朔日、関東味方中の広田出雲守直繁(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする武蔵国衆)へ宛てて書状を発し、(輝虎の古河公方足利)義氏への御請けが遅れているため、(広田直繁が)心配しているそうであり、その思いを承知したこと、さっさと御請けするべきところ、景虎(上杉三郎景虎。相州北条氏康の末男を養子として迎えた)の祝儀に取り紛れて延引せざるを得ず、ないがしろにしたわけではないこと、去る頃に請状は認めて置いたこと、幸便を得たので差し越すこと、されば、(相州北条)氏政と内談の子細があるにより、来秋に戦陣をいちずに催すので、安心してほしいこと、委細は重ねて申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、其方名字中(広田氏)の名誉であるので、義氏への御請けの添状として、其方(広田直繁)の所へ一筆を申し届けたこと、其元(羽生)から弁舌が立つ者を一人添え、取り急ぎ申し届けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』911号「広田出雲守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


9日、揚北衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城を本拠とする外様衆)から、取次の山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)へ宛てて書状が発せられ、謹んで言上すること、もとより関東で御成果を挙げて、整然と御馬を納められたのは、恐れながら御めでたい限りであること、御音信として御樽、御肴を進上させてもらったこと、なお、委細の事々は山吉方へ申し達したこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』912号「山吉孫次郎殿」宛「鮎川孫次郎 盛長」書状写)。



12日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)から返状が発せられ、先月25日に息子の三郎(上杉景虎)のために御城中で御祝儀を催されたそうであり、まさしく両家の繁栄の基であり、愚老(北条氏康)においても本望満足で、これに勝るものはないこと、近日中に使者をもって御祝儀を申し届けるつもりであること、氏政は敵陣と間近で対陣を遂げているので、このたびは御返事に及ばなかったこと、無沙汰したわけではないこと、やがて使いをもって申し入れること、愚老(氏康)の心構えを申し達する次第であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』913号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。


15日、同盟関係にある奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(俗名は盛氏。修理大夫)・同盛興(平四郎)父子の使僧である游足庵淳相へ宛てて返状を発し、去る頃は二度も盛氏父子から音問に預かり、祝着であること、ここしばらくは音沙汰なく、心配しており、(輝虎は)使僧に及んだこと、適切な取り成しを任せ入ること、されば、相・越一和が落着し、(相州北条)氏康が三郎と称する実子を、輝虎の養子として寄越されたにより、(相州北条家が)来秋に(甲州武田家の)機先を制して(越・相両軍で)戦陣を催すというので、これに合意し、一先ず(関東を後にして)去月18日に着府したこと、相・越両国が一味したゆえ、関東の(統治は)思うがままとなるで、安心してほしいこと、従って、伊達(奥州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家)に波乱が起こり、中野常陸介父子(伊達家宿老の中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲親子)が退去したそうであり、彼の口の様子が案じられるので、つぶさに承りたいこと、今後も盛氏父子とますます相談し合っていきたいと思っており、(蘆名父子を)適切に説き勧めるのを任せ入ること、なお、(詳細は)彼の(使者)口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、赤地の金襴一巻を贈ること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』914号「游足庵」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。



この間、5月26日、同盟関係にある相州北条家の従属国衆である相馬左近大夫治胤(下総国相馬郡の守谷城を本拠とする)が、古河公方足利家の奉公衆である芳春院周興・一色源三郎へ宛てた書状を脚力に託し、あらためて脚力をもって申し上げること、海賊が上様の御座の近辺へ放火したそうであると、そう聞こえてきたこと、ひたすら御心配申し上げていること、このところを披露を頼み入ること、そして、信玄は豆州へ攻め入るも、あっさり退散したそうであると、申し届いたこと、彼の口の様子を御知らせするのが適当であること、佐竹筋については、小田の地(常陸国筑波郡の小田城)には太美(太田道誉)が物主を(佐竹義重から)仰せ付けられたこと、ますます(小田)氏治は御苦労を強いられること、御好事に至れば、やがて申し上げること、これらを恐れ敬って申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1362号「芳春院・一源 御侍者中」宛「相左 治胤」書状写)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、7日、濃(尾)州織田信長の取次へ宛てて書状を発し、このたびの浅井(江州北郡の浅井長政)の謀叛は、どうしようもない事態であること、恐らく近日中には退治されるのではないかと思われ、何よりもって京都を静謐へと導き、士卒を無事に帰陣させたのは、珍重であること、よって、巣鷂(鷹)を信長へ贈ったこと、取り成しが肝心であること、其方の所へ(鷹を)送ること、(信長に)愛玩してもらえれば、本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1547号 武田「信玄」書状)。



元亀元年(1570)6月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


11日、永禄11年春に謀叛を起こし、昨年の春に降伏すると、本拠の村上城から出されて支城の猿沢城で蟄居させられている外様衆(揚北衆)の本庄沙弥全長(雨順斎。弥次郎繁長)から、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて書状(謹上書)が発せられ、このたびの御祝儀(輝虎と上杉景虎の養子縁組)として、太刀一腰、若大鷹一居、鹿毛の馬一疋を御覧に供するため、進上したこと、万事が喜ばしく、この旨を御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』915号「謹上 春日山 参人々御中」宛本庄「沙弥全長」書状)。



24日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)が、上野国衆の富岡清四郎(実名は秀親か。上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、ここしばらく音問が途絶えていたところ、(富岡から到来した)一札の旨を披読、殊に蝋燭一合が到来し、祝着であること、よって、(甲州武田)信玄が武州へ向かって戦陣を催すそうであるとの情報が入ったこと、氏政が立ち向かって一戦を遂げることが合議で決まったので、先段に使者をもって申し届けたこと、年来の交誼といい、このたび参陣し、奔走されるにおいては、喜悦であること、詳細は岩本(太郎左衛門尉定次。御馬廻衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1425号「富岡清四郎殿」宛北条「氏康」書状)。


29日、越後国上杉家の年寄衆である山吉豊守と河田長親が、富岡清四郎へ宛てて返状を発し、(到来した書状の)別紙も披読、されば、去る寅の歳以来(この永禄9年に富岡は越後国上杉方から相州北条方に寝返った)の知行内五郷について、相論の異議(上野国邑楽郡佐貫荘上郷。由良成繁の一族である横瀬国広と領有を巡って相論していた)があるゆえか、これにより、相からの証文(相州北条家が富岡に与えた証文)を寄越されたこと、(証文の効力は)明白であること、そのうえすでに越・相両国の御和睦が成立したからには、何事においても五ヶ年以前(永禄7年)の御下知に準拠するべきであること、なお、詳細は(富岡の)使いに申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』916号「富岡清四郎殿」宛「山吉豊守・河田長親」連署状)。


永禄12年秋から河田長親は越中国代官を任されて、同国新川郡の魚津城に常駐していたが、この頃は一時帰国していたことになろう。


当文書の解釈については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」を参考した。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、6月5日、濃(尾)州織田信長の側近である武井夕庵(爾云。右筆と奉行人を兼ねる)へ宛てて書状を発し、越前ならびに江州の静謐を遂げて、信長が御帰国したのは、珍重であること、浅井(近江国北郡の浅井備前守長政)のことは、一度の不義を企てたとはいえ、追伐を後戻りしてはならないこと、よって、去る4月下旬に市川十郎右衛門尉をもって申し述べた折、江北の通路が封鎖されていたゆえ、(市川は)役目を果たせずに信州まで引き返したそうであり、とりもなおさず折り返し(岐阜へ)向かわせたので、恐らく参着したのではないかと思われること、ただし、(市川)十郎右衛門尉の胆力が足りなかったゆえ、使者が遅れる結果となり、まるで(信長を)侮り軽んじてしまったようで、面目を失したこと、近日中に巣鷂(雌鷹の雛)を贈るつもりなので、その折に詳しく申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、長延寺(実了師慶)は江北に滞留しているのかどうか、いぶかしんでいること、越中椎名(右衛門大夫康胤。越中国新川郡の松倉(金山)城を本拠とする)への加勢を働き掛けるため、(長延寺を)賀州衆の案内で大坂(摂津国大坂本願寺)へ上らせたこと、江北錯乱ゆえに半途での遅留を余儀なくされているらしく、はなはだ心配していること、彼の者の落ち着き先を知らせてほしいこと、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編三』1550号「夕庵」宛武田「信玄」書状)。


27日、常陸国太田の佐竹義重の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国小田城を任されている)へ宛てて書状を発し、ここしばらくは、通路が断絶していたゆえ、思いがけず音問が途絶えていたこと、よって、先月は豆州へ向かって手立てに及び、国中を蹂躙し、十分な成果を得て下旬頃に帰府したこと、おまけに去る5日に(別働隊が)御嶽城(武蔵児玉郡)の乗っ取りに成功したので、要害を修築して矢楯と兵糧を搬入し、甲・信両国から千余名の人衆を送り込んだこと、そして、関東へ出陣致すつもりであること、いよいよ味方中を滞りなく結集させるよう、調略を頼み入るばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1561号「太田美濃守殿」宛武田「信玄」書状写)。



元亀元年(1570)7月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【41歳】


9日、越中国代官を任せている河田長親が、重臣の山田平左衛門尉に証状を与え、小出保下条(越中国新川郡)のうちの小池分ならびに徳楽分の地を、確かに知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』919号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」知行宛行状)。


19日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である藤田新太郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主へ宛てた条書を、相州北条方の使者である篠窪治部に託し、覚、一、(越・相両国の)御同陣について、取り急ぎ使者をもって申し入れられること、一、当方(越後国上杉家)では家中の上下にかかわりなく、(御同陣の是非に)気を揉んでいること、一、甲府(甲州武田家)の使僧を成敗すること、一、半途へ互いが(交渉人を)向かわされ、御相談あって、御落着のうえ、定められた日限通りに御手を合せされるべきこと、一、当秋に御同陣が実現しなければ、味方中の動揺は計り知れず、御後悔するような事態も起こり得ると考えられていること、この補足として、篠治(篠窪治部)を(相府へ)帰して子細を申し述べられること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』920号「藤田新太郎殿 御宿所」宛 山吉豊守条書案)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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