越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【3】

2012-08-15 19:17:01 | 上杉輝虎の年代記

天文18年(1549)5月7月 越後国守護代長尾景虎(平三) 【20歳】

5月15日、越後国堀内地域(魚沼郡)の領主である宇佐美駿河守定満(越後国守護上杉家の譜代家臣。越後国魚沼郡の真板平城主と伝わる)が、近郷小千谷の領主である平子孫太郎(越後国守護上杉家の譜代家臣。越後国魚沼郡の薭生城主)へ宛てて返書を発し、仰せの通り、ここしばらくは交信が途絶えていたこと、よって、上田(上田長尾政景)とは年内に、 (守護代長尾景虎が)御無事(和平)を調えられるそうであり、何より肝心と思われること、(平子孫太郎も)きっと御満足であろうこと、それは我等(宇佐美)も御同前の思いであること、しかしながら、政景(長尾六郎政景。越後国魚沼郡の坂戸城主)の御舎弟が人質として在府されるそうであり、これを御奉行衆から示されたこと、内々に我等(宇佐美定満)も待ち侘びていたところ、一向にその様子がないこと、ただし、これからはどのようにあるべきなのか、拙夫(宇佐美)に所領(上田領)の一部を割譲する約束も、未だに果たされていないこと、ここまできて別の方法で(知行地を)手に入れるのは、御無事を迎える時期に、御批判はどうかと思い、何はさておき控えているので、当地(堀内地域)は異変に備えておくのが重要の限りであること、こうした状況に同心・被官は気概を失っていること、この苦衷を御察ししてほしいこと、従って、多小(多功小三郎。堀内地域の領主)の本領の内が当知行(平子領)になるとの仰せについては、(宇佐美の)存念を(平子の)御使者へ申し述べたこと、まずは相談をされて、当地(堀内地域)の情勢を安定へと導かれるのが賢明であると思うこと、事態が起こってからでは、後悔されるのではないかと思われ、ここのところを弁えられて対応されるのを望むだけであること、委細は堀方(平子孫太郎の重臣である堀某)へ申し立てたので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』51号「平子殿 御報」宛「宇駿 定満」書状写)。

同日、同じく堀内地域の領主である加治式部少輔定次(同じく堀内地域の領主である福王寺氏の同族か)が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、仰せの通り、ここしばらくは要件がなかったので、音信を通じていなかったこと、しかしながら、無音は不本意な事態であったこと、御書中の通り、ほり方(平子氏の重臣である堀某)を(宇佐美・加治氏ら堀内地域の領主の許へ)確かに寄越されたたとはいえ、(堀は)取り立てて尽力されなかったので、定めて不首尾に終わったものとお考えになってほしいこと、次に、ほりの内の件は、(平子孫太郎が)仰せになった趣旨について、駿(宇佐美定満)の方から意見を申し達せられること、何はともあれ、今までの無沙汰などもあるので、(加治定次が薭生城へ)出向いて(堀内地域の領主たちの存念を)申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』61号「平子殿 参御報」宛「加地式部少輔定次」書状写)。


※『武州古文書』はもとより、『新編 武州古文書 上』90号文書でも署名は加治である。


6月5日、宇佐美駿河守定満が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、重ねて音信を受け取ったこと、つぶさに拝読したこと、上田御無事がもしや破談にでもなれば、(平子孫太郎は)上田は深刻な事態に陥るであろうとの御見解を寄越されたこと、我等(宇佐美定満)もそのように思っていること、さりながら、ここまできて破談する事態には至らないとも思われること、ただし、(上田は守護代方に対して)無事の条件である人質の提出と所領の一部割譲を履行しないのでは、それは不愉快な事態ではないかと思われること、万が一にも破談となれば、この口(堀内地域)の防備については、いずれにしても(平子の)御精励に極まること、それを我等一人(宇佐美)に任されるのであれば、必ずや後悔されるであろうこと、なぜならば、拙者(宇佐美)は無力であり、家中も気概を失っているからであること、上田は様々な計略を当地(宇佐美の要害)に対して仕掛けられていること、なかでもこちらが一味同心しなければ、当地を焼き払うつもりで策動されていること、これを其方(平子)から聞かされたので、内々に探索したところ、里被官(地下侍)の佐藤と重野なる人物が下倉(堀内地域)の周辺で工作していること、(平子からの)情報通りであったこと、爰元は抜かりなく警戒を強めていること、様子については、今泉方(平子氏の重臣である今泉某)が申し述べられること、従って、田河入(堀内地域における平子領)の地については、狼藉者が立ち入らないように配慮しているので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』17号「平子殿 御報」宛「宇駿 定満」書状写)。

相州北条氏康の攻勢に曝されている関東管領山内上杉憲当(憲政。五郎)より、越後国守護上杉家に対する支援要請の取り次ぎを依頼された平子孫太郎から対応を求められると、20日、三奉行のうちの庄(本庄)新左衛門尉実乃(景虎の側近。越後国古志郡の栃尾城主)が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、御懇書の詳細を心得たこと、よって、関東の、 屋形様(上杉憲当)からの御音信の件について、(守護代長尾景虎が)御事情を酌み取られて取り計らうこと、さりながら、(景虎への)御状を調えられることなく、北へ向かわれるのはどうかと思われ、御名字については、広く世間に知れ渡っているゆえ、慣例ばかりをもなされるのかどうか、もしそのようであるならば、(上杉玄清へ)仰せになるのではなく、今より景虎への(憲当の)御状を調えられれば、しかるべく御披露されるつもりであるから、認められるのが適当であること、いずれも案書を申し受けられる方はそうしていること、ただし、鳥子紙にて御判を据えられた御状を給うべきこと、(平子は憲当への)御祝儀が度重なっている件については、御出費がかさんで金銭が著しく不足されているそうであり、御太刀・御折紙(目録)などにて(憲当へ)御返信するのに伴い、銭金百疋にいとまき(糸巻)御太刀を其方(平子孫太郎が)で御用意できなければ、某(本庄実乃)の方で工面して貸し出すこと、(景虎は)間違いなく御出張の件について、来月10日頃に催されたいと考えており、(平子も)御出陣については、そのように心得られるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』19号「平孫 参御報」宛「庄(本庄)新左衛門尉実乃」書状写)。

同日、別紙において、(上田長尾氏によって)宇駿(宇佐美定満)要害が放火された件について、(平子孫太郎から)仰せ寄越されたこと、(平子が)前に宇駿へ寄越された御書中を拝読したこと、不快の念を禁じ得ないこと、もとより事実であるならば、(上田長尾氏が)たとえ御新造様(景虎の妻か)の近い御身るい(親類)に当たるとしても、わずかであっても味方中の城館に放火したならば、御屋形(上杉玄清)の御裁断を仰ぐ事態であること、あくまでもその身をもって罪を認めないのであれば、宇駿(宇佐美)が捕縛した罪人と一緒に当地(越府)へ寄越されるべきこと、此方において景虎が裁かれること、今後は罪科が明白であれば、そちらで罪人を裁かれても構わないこと、(景虎が平子に)肩入れされているからこそ、(本庄実乃は)思うところを、そのまま包み隠さずに申し述べたこと、金沢方(越後国上郡の国衆)はあれこれ(平子の)悪口を言い立てているので、彼方(金沢)へ不快の念を言い放ったこと、誠に差し出がましい限りではあるとはいえ、堪えられずに心のままに言い放ったこと、詳細については小林(平子家中)へ紙面をもって申し述べること、異変があれば申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』18号「平孫 参御報」宛「庄新左衛門尉実乃」書状写)。

同日、取次の吉江木工助茂高(もとは古志長尾氏の被官)が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、御音問の趣旨をつぶさに拝読し、委細を心得たこと、よって、 御屋形様(上杉玄清)の関東への御出陣の件については、来月20日頃になるそうであること、重ねて飛脚などを立てるので、抜かりなく(出陣の)準備をされるのが肝心であること、諸々については後便を期するので、この紙面は要略させてもらうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』82号「平子孫太郎殿 参御報」宛「吉木工 茂高」書状写)。

7月4日、本庄新左衛門尉実乃が、平子孫太郎へ宛てて書状を発し、御屋形様(上杉玄清)へ(平子が)御音信をもって仰せ立てられたこと、とりもなおさず景虎が披露されたところ、大変に喜ばれた(玄清から)御書を(平子へ)遣わされるので、御めでたく思うばかりであること、景虎においても、ひときわ喜ばれていること、一、宇駿(宇佐美定満)の要害が放火された件については、(玄清が)先書に御目を下されたゆえ、平伏して申し述べたところ、とりもなおさず御成敗するように仰せ越されたこと、恐れながらそのようにされるのが適切と思うばかりであること、とりもなおさずこれも景虎へ裁きに及ぶようにと披露したので、御安心してほしいこと、一、関東御出陣の件については、(平子)ただ一人に負担を強いるつもりはないので、御造作ながら十分な御用意が肝心であると思われること、一、景虎は諸軍を(小千谷)で待たれるつもりなので、とにかく御要害に修繕などを施されて、受け入れ態勢を整えるのが適切であると思うこと、一、御舎弟孫八郎殿の御将来について、御袋様(平子の母)より仰せ越されたこと、これまたやむを得ないと思われること、ただ今すぐにとはいかないとはいえ、御次いでをもって御心得として申し入れること、およそ、御先輩であられるので、公家をも御覧になられるべきであり、(屋形上杉玄清の)台飯式(給仕)でも、景虎のそれにでもさせなさるのが適当であると思われること、そのゆえは、斎藤小三郎殿(朝信)の御舎弟平七郎殿、それから千坂対州(対馬守)の御舎弟源七郎殿、いずれも台飯式にて御側に詰められているので、御同前にされるのが適当であると思われること、御心得として申し述べたこと、一、御袋様が御音信として仰せ越された意趣は、これまた御受けできたものと思っていること、そのように御心得になって下さってほしいこと、一、このような対応は軽率もはなはだしいとはいえ、(越後国上杉家に)代々御取り立てられた御家柄ゆえの特別な配慮であり、申すまでもなく、時分を急いだこと、(玄清に)御近辺には吉江中務(吉江中務丞忠景)が蹲踞しているので、いかにもいかにも御懇切にされて取り入るのが肝心であると思われること、たとえ意にそぐわない事態に見舞われても、少々のことは御辛抱されて、御懇切にされるのが賢明であること、めでたく万事が整ったのちに、重ねて申上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』20号「平子孫太郎殿 御宿所」宛「庄新 実乃」書状写)。


● 斎藤小三郎:朝信。越後国守護上杉家譜代の重臣。越後国刈羽郡の赤田城
  主。

● 千坂対馬守:上杉定実・長尾為景期に年寄衆であった千坂藤右衛門尉景長
  の後身あるいは次代であろう。越後国守護上杉家譜代の重臣。越後国蒲
  原郡の鉢盛城主か。

● 吉江中務丞:忠景。越後国守護上杉家譜代の重臣。越後国蒲原郡の吉江城主
  か。


この関東出陣は、7月中旬から下旬を目処に準備が進められたが、結局のところ実行されなかった。


※『上越市史』17・18・19・20号文書の解釈については、井上鋭夫氏の著書である『上杉謙信』(新人物往来社)の「【国内統一】 上田長尾氏の立場 景虎の政治工作」を参考にした。

※ 文書番号をで示します史料は、小考によって年次を改めて引用するものです。その根拠につきましては、略譜の完成後に順次、説明していきます。



天文18年(1549)10月~12月  越後国守護代長尾景虎(平三) 【20歳】

このたび平子孫太郎の要望に応じて、旧領の越後国西古志(山東)郡乙面保山俣(山之俣)の回復を認めると、現在の給人である松本河内守(越後国守護代長尾家の譜代家臣。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主)に引き渡しを命じたが、松本はあれこれ不服を申し立てて拒否したので、11月4日、松本河内守へ宛てて書状を発し、平子孫太郎方の本領である山俣の地について、古志郡の内において吟味したので、その意見に任せて引き渡すように申し遣わしたところ、異議があると申し越したので、今もって延引していること、しかしながら、取り立てて支障がないのであれば、これではとめどがないので、速やかに引き渡すのが肝心であること、およそ彼方(平子氏)については、道七(長尾為景。景虎の父)以来のつつがない間柄であり、それよりほかとは比べものにならないゆえ、この通りであること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』22号「松本河内守殿」宛長尾「景虎」書状写)。

6日、平子孫太郎に証状を与え、西古志(山東)郡内山俣三拾貫分の件について、本地であるとして繰り返し嘆願されており、何はともあれ御知行されるべきこと、 御屋形様(上杉玄清)の御判(安堵状)については、追って申請すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』23号「平子孫太郎殿」宛「長尾平三景虎」書状【花押a1】)。


8日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃(景虎の近臣)・大熊備前守朝秀(越後国守護上杉家の譜代家臣。越後国頸城郡の箕冠城主)・小林新兵衛尉宗吉(越後国守護上杉家の譜代家臣か)が、松本河内守へ宛てて書状を発し、平子殿御本領山俣の地について、 殿様(景虎)から(松本へ)御書が寄せられること、この趣旨に従って、相違なく早々に引き渡されれば、適切であること、そのために一筆を申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』24号「松本河内守殿 御宿所」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新兵衛尉宗吉」連署状写)。


しかし、それでも松本河内守は容易に応じなかったので、これから解決までに約三年を有することになる。


この間、越後国堀内地域の領主である多功小三郎(長尾晴景と景虎の兄弟抗争の折、宇佐美定満と共に景虎に味方して戦死した)の遺領が平子孫太郎に再交付された件について、10月10日、同じく堀内地域の領主である宇佐美駿河守定満が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、仰せの通り、ここしばらくは音信が途絶えていたこと、どうされているのか様子を知りたいと思うばかりであったこと、多功小三郎方の遺族が知行している堀内の地を引き渡すようにとの仰せであること、今夏以来、繰り返し御返答に及んでいる通り、(多功の)本領であるといい、当知行であるといい、取り分け(多功は景虎の)御味方に属し、最前において戦死を遂げられていること、およそ(多功方の遺族にとっては)押生・田河の地は本領であり、このたび御嘆願に及んだところ、すでに貴所(平子孫太郎)が半ばまで御知行されているので、(多功遺族は)是非を申さずに引き渡すつもりでいたところ、堀内の地まで引き渡されるようにとの仰せには、困惑していること、何度でも御嘆願に及ぶつもりであること、すでに引き渡した田河の地も全部が横領されてしまったこと、ここに御心を砕くべきであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』96号「平子殿 御報」宛「宇駿 定満」書状写)。



10月14日、上田長尾氏の被官である金子勘解由左衛門尉尚綱(多功氏とは姻戚関係にあるらしい)が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、示された通り、これまで音信を通じていなかったところ、御懇書を拝読したこと、よって、宇賀地の地について、仰せ越され、すでに去春に(上田長尾氏が)府内と無為(和睦)を遂げられた折、所帯方以下については双方の間で境界などの画定を定められ、そのうえ、このたび正印(上田長尾六郎政景の父である長尾越前守房長か)が出府を遂げられるからには、あれこれ承った事柄は、こちらの理解の範疇をはるかに超えていること、何度(宇賀地の引き渡し要請を)承ったとしても、この趣旨にて御返事に及ぶつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』21号「平子孫太郎殿」宛「金子勘解由左衛門尉尚綱」書状写)。



12月12日、宇佐美駿河守定満が、三奉行の本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・直江神五郎実綱(上杉家の譜代衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主)へ宛てて返書を発し、多功方屋敷一所を平子殿へ引き渡すように、重ねて仰せ越されたこと、とりわけ御直書を寄越されたので、(多功遺族へは)異議を唱えず(平子へ)引き渡されるように申し届けたこと、およそ彼(多功遺族)の処遇については、今夏以来、(宇佐美が)嘆願を繰り返していたところ、ついに(景虎の)御理解を得られなかったこと、こうした結果に至ったのは、方々が御取り成しに御精を出されなかったゆえであり、困り果てていること、一方の申状の要点だけの審査を採用して庄田方(惣左衛門尉定賢。景虎の旗本)をもって、彼の進退を申し上げられるつもりであり、新左衛門尉殿(本庄実乃)・備前殿(大熊朝秀)から御審問の御一札を寄越されたので、(先年の国乱において多功が)拙夫(宇佐美定満)に同心し、あまつさえ御味方として戦死を遂げられたこと、幾度となく子細を説明してきたこと、これからの彼(多功遺族)の進退の件について、ひたむきな御取り成しを御頼みするばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』100号「庄新左衛門尉殿・大熊備前守殿・直江神五郎殿 御報」宛「宇佐美駿河守定満」書状写)。


この宇佐美定満の嘆願は聞き入れられなったようで、これから間もなくして宇佐美は守護代方から上田方に転じたようである。


16日、東福院へ宛てて証状を発し、このたび町田の地(越後国頸城郡佐味荘吉川)へ、何度も使いを致されたこと、顕法寺(同前)の件については、六郎殿(弟の景虎に守護代長尾家の家督を譲って隠居した長尾弥六郎晴景であろう)へ申請して(顕法寺を)与えることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』27号「東福寺 参」宛長尾「景虎」判物【花押a1】)



天文19年(1550)2月 越後国守護代長尾景虎(平三) 【21歳】

これより前、江州在国の将軍足利義藤(のち義輝)に金品を献上することにより、白傘袋・毛氈鞍覆の使用を免許されて守護代に相応する格式を得たので、謝礼のために金品を贈ったところ、2月28日、将軍足利義藤から御内書が発せられ、白傘袋・毛氈鞍覆の礼として、太刀一腰・鵝眼(銭)三千疋が到来したこと、殊勝な心掛けであること、なお、これらを詳細は晴光(大館左衛門佐晴光。奉公衆)が紙面で申し述べること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』29号「長尾平三とのへ」宛足利義藤御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウワ書「長尾平三とのへ」)。

同日、大覚寺門跡義俊(太閤近衛稙家の弟。稙家の娘は義藤の妻)から書状が発せられ、白傘袋・毛氈鞍覆御免の件について、愛宕山下坊(幸海)に申し付け、 (足利義藤の)上聞に達したところ、とりもなおさず、 御内書を発せられたこと、大館左衛門佐(晴光)の副状も調えて送られること、いよいよ本意を寄せ、在京を遂げて忠功を励むのが肝心であること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』30号「長尾平三とのへ」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾平三とのへ (大覚寺義俊)花押」)。


同日、大館晴光から副状が発せられ、白傘袋・毛氈鞍覆御免の御礼として、太刀一腰・青銅(銭)三千疋を御進上されたこと、よって、 御方御所様(足利義藤)が御内書を発せられたこと、御面目の極みであろうこと、なお、それを(大館晴光は)心得て(景虎へ)申し述べるように、御指図されたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』32号「長尾平三殿」宛大館「晴光」副状 封紙ウワ書「長尾平三殿 大館左衛門佐晴光」)。

吉日、愛宕山幸海から、越後国守護代長尾家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し上げること、よって、白傘袋・毛氈鞍覆の件について、将来に御赦免は御由緒になるであろうこと、そして、(将軍は)当御代(景虎)の武勇御名誉のほどを御耳にされて、両様の御赦免の件を御指図されたこと、粗忽者ではあるといえども愚僧においては、為景御代から御祈念の御契約を結んでいること、とりわけ、 殿中で親交があり、 上意の趣旨を踏まえて、なにはともあれ祝儀の取り計らいに奔走したこと、これにより、速やかに、 御内書を発せられたこと、とりわけ大覚寺御門主、次に大館左衛門佐殿の御状が添えられるので、あれこれ御面目の極みであろうこと、上使が下されるべきとはいえ、御国(越後国)は乱後から日も経たず、諸事万端に御取り紛れていると思われるにより、御手数をかけるとして、留められており、詳細は花蔵院(円誉。越後国五智国分寺の住持。景虎の使僧)ならびに神余殿(隼人佑実綱。越後国上杉家の在京雑掌)が申し達せられるであろうこと、これらを恐れ敬って申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』33号「長尾平三殿 参人々御中」宛愛宕山下坊「幸海」書状 封紙ウワ書「長尾平三殿 愛宕山 下坊 幸海」)。

吉日、愛宕山幸海から、越後国守護代長尾家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、御祈祷の巻数である勝軍地蔵札を進献したこと、御頂戴あって御満足されたであろうこと、従って、太郎房の祈念による団扇を進納すること、何かにつけ御本意に寄せられるべきこと、ますます国家安全と御武運長久の御祈念を、いささかも怠りなく精励するので、貴意にかないたいこと、これらを恐れ敬って申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』34号「長尾平三殿 参人々御中」宛愛宕山下坊「幸海」書状)。


※ 上使は4月17日に到来した。


こうした最中、26日に守護上杉入道玄清(兵庫頭定実)が死去し、越後国上杉家は断絶する(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。



天文19年(1550)閏5月 越後国長尾景虎(平三) 【21歳】

越後国刈羽郡鵜河荘安田の領主である安田毛利景元(前上杉家の譜代家臣。越後国刈羽郡の安田城主)を始めとする諸将から、御内書頂戴の祝儀として太刀を献上されると、5日、毛利越中守景元へ宛てて書状(謹上書)を発し、京都から、 (将軍足利義藤の)御内書を頂戴したので、御祝儀として太刀一腰を贈られて、感謝に堪えないこと、このほかについては後信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』35号「謹上 毛利越中守殿」宛長尾「平
景虎」書状【花押a1】)。



天文19年(1550)9月 越後国長尾景虎(平三) 【21歳】

上田長尾六郎政景が反乱を起こしたことから、出馬して対応に当たるなか、23日、上田勢と直接に対峙している福王寺兵部少輔(福王寺殿(実名は重綱、孝重と定まらない。越後国魚沼郡堀内地域の領主。越後国魚沼郡の下倉山城主)・江口某(藤五郎親広か。同藪神地域の領主。同平地山城主)・大沢某(通称は内匠助か。同前。同大沢城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、その地(堀内地域の要衝である下倉山城)における在城の御辛労と御心労は遺憾であること、今日に至ってもそちらに凶事が起こっていないのは、つまりは方々の御奮闘ゆえであり、満足していること、これからの戦略について、(景虎)相談を持ち掛けなければならないとはいえ、吉江(木工助茂高。旗本衆)・庄田(惣左衛門尉定賢。旗本衆)と相談し合い、適切に防備を整えるのが肝心であること、尤も拙者(景虎)においては、この折に帰陣するつもりであったところ、当郡(古志郡)の形勢が保つのが大切であるため、とりあえずは越年する様相であること、其元(下倉山城)に異変があれば、速やかに知らせてもらいたいこと、またあらためて申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、その地で凶事が起こらないように、在城の面々が相談し合い、支障がないように、防備するのを頼み入るばかりであることを申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』36号「福王寺殿・大沢殿・江口殿」宛長尾「平三景虎」書状写【花押a影】 ●『越後入廣瀬村編年史』)。



天文19年(1550)12月 越後国長尾景虎(平三)【21歳】

臨時の公田段銭を徴収すると、3日、奉行衆の本庄実乃(大身の旗本衆)・大熊朝秀(前上杉家譜代の重臣で、公銭方の責任者を務めていた)・小林宗吉(前上杉家の譜代家臣か)が、越後国中郡の国衆である飯田与七郎へ宛てて請取状を発し、越後国頸城郡夷守郷上広田の地における段銭については、確かに受領したことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』37号「(本庄)実乃・(大熊)朝秀・(小林)宗吉」連署役銭請取状)。


引き続き古志郡に在陣するなか、28日、奥州会津(会津郡門田荘)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)の取次である松本右京亮へ宛てて返書を発し、来翰の通り、ここしばらくは音信が途絶えていたこと、内心ではどうされているのか様子を知りたい思うばかりであったこと、そうしたところに寄せられた音信の趣旨には、ひたすら満足していること、よって、上田(魚沼郡上田荘)と当郡(古志郡)の間で争いが起こり、拙者(景虎)に不埒を働く輩が現れたこと、しかしながら、大事には至っていないので、安心してほしいこと、異変が生じたならば、これより申し述べること、万事については来春に承ること、詳細は重ねて申し送るので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』38号「松本右京亮殿 御報」宛「長尾平三 景虎」書状写)。


◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『武州文書』
◆『新編 武州古文書 上』府内下
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」

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