越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年5月~同年6月】

2012-12-23 14:27:51 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)5月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


2日、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家に従属する上郡山盛為(民部少輔。出羽国置賜郡の小国城を本拠とする国衆)へ宛てた書状を認め、別紙をもって申し上げること、よって、会津から(蘆名家の軍勢が)菅名の庄(越後国蒲原郡)に乱入し、神洞ならびに雷と号する地利が乗っ取られたところ、当手の者を遣わして追い払い、凶徒を五百余人討ち取ったこと、さぞかし大慶であろうこと、なお、詳細は彼の使者(真壁越中守)の口上のうちにあること、(この紙面を)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』558号「上郡山殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】)。

6日、上郡山民部少輔盛為へ宛てた返状を認め、来札を披読し、祝着の極みであること、よって、信州境目の野尻(信濃国水内郡芋河荘)と号する地を、武田晴信(甲州武田信玄)が欲しがって乗っ取ったこと、時日を移さず、去る(3月)18日に(野尻城を)取り返したこと、その後は堅固に管理していること、(さらに先月は)菅名の庄内に手引きする者がいたので、会津から(蘆名家の軍勢が)乱入したところ、とりもなおさず、当手の足軽共を差し遣わし、凶徒五百余人を討ち取ったにより、(会津衆は)利を失って敗北したこと、諸口はいかにも防備が無事であるので、御安心してほしいこと、遠境にもかかわらず、懇意を尽くしてもらい、感謝に堪えないこと、子細においては、先頃に真壁越中守をもって申し述べたので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』559号「上郡山民部少輔殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


当文書の日付けは2日の誤りで、別紙である前号の本紙に当たるのかもしれない。


〔帰国を望む佐野城衆の色部勝長を説得する〕

下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に在番する揚北衆の色部修理進勝長(越後国瀬波郡の平林城を本拠とする外様衆)から、本田右近允(実名は長定か。旗本部将)を通じて、番城体制の不備を理由に早期の帰国を要求されると、7日、色部修理進勝長へ宛てて書状を発し、本田右近方への書中を披読したこと、よって、その地(佐野唐沢山城)の万事が無調法であるゆえ、労兵を帰国させたいそうであり、当然であること、仕方がないこと、虎房(佐野昌綱の息男である虎房丸。越府に人質として差し出され、輝虎の養子となった)を(佐野へ)送り出すため、近日中にその地の者共が祢り(上野国利根郡根利)まで打ち越すので、その時分に(色部が)越されるのを待ち入ること、これまでの(色部の)辛労は、言葉にできないものであること、それからまた、野尻島(野尻城)を敵が乗っ取ったところに、時日を移さず、取り返したこと、ならびに、菅名へ会津衆が打ち入ったところに、(輝虎が)人数を差し遣わし、凶徒五百余人の凶徒を討ち取ったゆえか、盛氏(蘆名止々斎)が懇望するので、無事を受け入れたこと、諸口はいかにも堅固であるので、安心してほしいこと、返す返すも、路次の往復に自由はないのだから、虎房の迎えの時分に越されるのが適当であること、ただ今までその地(佐野)には何事も起こっておらず、焦って一人(色部勝長)で越し、路次中にて手落ちでもあれば、敵味方から嘲笑されてしまい、口惜しいこと、(実際に在番衆の)五十公野(官途名は玄蕃允。越後国蒲原郡の五十公野城を本拠とする外様衆)がその地を(勝手に)退散したとはいえ、路次が不自由であるため、無法にも敵地に取り押さえられてしまったこと、例えば納得してもらえないとしても、路次に自由がないのだから、万一の事態もあってはと思い、このように忠告していること、これらを謹んで申し伝えた。さら追伸として、虎房の迎えの延引はあってはならないので、その時分に(色部は)越されるべきこと、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』560号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

16日、色部修理進勝長へ宛てて血判起請文を発し、起請文、右の意趣は、このたび加勢として、その地(唐沢山城)に差し置いたところに、吉江(中務丞忠景)と荻原(伊賀守)と同様に奮闘されたわけであり、輝虎一世中の忠信であると、思い続けること、一、其方(色部勝長)の息男(弥三郎顕長)が、彼の脚力を寄越してきたのは、どういうわけともなく、不審が募らせたからなので、わずかでも其方(勝長)の進退に、輝虎かたへの異存があるようには聞き届けていないこと、そのためにこのように誓詞をもって申し遣わしたこと、一、留守中(の勝長)に対しても、懇切に致すつもりであること、また、当国(越後)も無事を約束すること、従って、このたびその地から(勝長が)言って寄越した帰国の希望が叶うまでは、吉江・荻原と入魂し、抜かりない心配りが肝心であること、もしこの旨に偽りがあれば、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、前記した通りであること、これらの条々を申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』561号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」起請文【花押a3】)。


これから間もなく、唐沢山城が相州北条軍の攻撃を受けているとの情報が寄せられ、救援のために急遽、出馬して上・越国境まで進んだところ、唐沢山城衆が北条軍を撃退したとの報告が届き、越府に引き返した。

 

この間、敵対関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、5月に入ってすぐの頃に、佐野唐沢山城から抜け出した越後衆の五十公野玄蕃允を捕縛すると、その五十公野から、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家を頼って在所に帰ることを懇望されたので、5月14日、蘆名止々斎(修理大夫盛氏)へ宛てて書状を発し、それ以来は、関東情勢の変化ゆえ、音問が途絶えたのは、意外であったこと、されば、思いも寄らない巡り合せで、(越後衆の)五十公野が佐野を出城し、その口(会津)へ罷り越され、(五十公野は)貴辺(蘆名)を頼み入り、在所へ(帰る)本意を達したいそうなので、とりもなおさず、(五十公野を会津へ)差し越したこと、御入魂においては、氏政においても本望であること、なおもって長尾輝虎が関東で我儘に振る舞っているので、力の及ぶ限り防戦を遂げ、当夏に至っては、余す所なく当口は静謐であり、おまけに、毛利丹後守(北条高広。上野国群馬郡の厩橋城を本拠とする)をはじめとする越衆(越後衆)までもが当手(相州北条陣営)に属したこと、今から以後は、前々のように申し合わせ、かならず越国(越後国上杉家打倒の)本意を遂げるため、互いに申し合わせたいこと、御同意が肝心であること、委細は、弟の源三(大石氏照。武蔵国多西郡の由井領を管轄する)が申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1023号「葦名殿」宛北条「氏政」書状写)。


その後、相州北条氏政は唐沢山城を攻めたが、落とせずに撤収している。



永禄10年(1567)6月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


4日、先月半ばに表明していた通り、番城体制を敷いている下野国佐野領の唐沢山城の元城主であった佐野昌綱から預かっていた息男の佐野虎房丸を、自らの養子としたうえで佐野氏の家督に据えるための送り出す準備を進めるなか、先月下旬に佐野城衆が相州北条軍を撃退した際に戦功を挙げた佐野氏の被官や地衆へ渡す感状を用意する。

佐野氏の被官である大貫半三郎へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政(北条新九郎氏政)がその地へ取り懸かったところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝であること、そして、先書にも申し遣わした虎房丸(佐野昌綱の息男)の身柄は、(輝虎の)養子として其元(佐野唐沢山城)へ差し越すこと、(虎房丸の佐野家相続の取り決めに)奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』563号「大貫半三郎殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

同じく飯塚対馬守泰貞へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政がその地に向かって戦陣を催したところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝の極みであること、よって、(佐野)虎房丸の身柄は、先書にも申し遣わしたように、養子として其元へ移すこと、奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』564号「飯塚対馬守殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

佐野地衆(鍋山衆)の小曽戸善三へ宛てた感状を認め、伊勢氏政がその地へ戦陣を催したところ、いつもながらとはいえ、各々が防戦に及び、凶徒を数多討ち取り、(唐沢山城を)堅固に保持したのは、類い稀な殊勲であること、内々に後詰めとして越山する覚悟をもって半途まで進んだところ、敵は退散したというので、(越山を)延引したこと、されば、先書に申し遣わした通り、虎房丸を養子として、其元へ差し越し、彼の家の相続について申し合わせること、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』566号「小曽戸善三殿」宛上杉「輝虎」感状写)。

同じく小曽戸図書助へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政がその地へ取り懸かったところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝であること、そして、先書にも申し遣わした虎房丸に身柄は、養子として其元へ差し越すこと、奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』562号「小曽戸図書助殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

同じく梅沢兵庫助正頼へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政がその地へ戦陣を催したところ、いつもながらとはいえ、各々が防戦に及び、凶徒を数多討ち取り、堅固に保持したのは、類い稀な次第であること、内々に後詰めとして越山する覚悟をもって半途まで進んだところ、敵は退散したというので、延引したこと、されば、先書に申し遣わした通り、虎房丸を養子として、其元へ差し越し、彼の家を相続を申し合わせること、以前に指示した通り、近いうちに虎房丸を養子として其元(佐野)へ受け渡すので、彼の家の相続について申し合わせること、ますます忠信を励むのが適当であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』565号「梅沢兵庫助殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。


7月5日付けで鍋山衆の大芦雅楽助へ宛てた同内容の輝虎感状(『上越市史 上杉氏文書集一』993号)が存在することからして、佐野虎房丸を送り出したのは、これ以降のことであろう。


小曽戸善三・同 図書助・梅沢兵庫助を鍋山衆としたのは、江田郁夫氏の論考である「中世下野鍋山衆の成立と終焉」(『栃木県立文書館研究紀要 第三巻』)による。



25日、側近の河田長親(豊前守。越後国古志郡の栖吉領を管轄する)が、配下である小越平左衛門尉(もとは古志長尾氏の被官で、越後国長尾景虎の旗本衆を経て河田に配属された)に証状を与え、(石坂)藤五郎分のうち、いぬもの嶋の地を、(小越平左衛門尉が)佐田甚左衛門尉と相論していること、双方共に是非を明らかにできないので、中分(和解のために間を取って分けた)して四貫百文の地を弐貫五十文宛を知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』568号「小越平左衛門尉殿」宛河田「長親」判物写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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