越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀元年9月】

2014-05-26 11:00:10 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)9月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)  【41歳】


8月下旬から9月上旬の間に謙信と号する。


3日、相模在国の今川氏真(上総介)から、越後国上杉家の年寄三人衆の柿崎和泉守景家(譜代衆)・山吉孫次郎豊守(大身の旗本衆)・直江大和守景綱(同前)へ宛てて書状が発せられ、ここしばらくは申し交わしていなかったこと、よって、信州へ向かって御出張するそうであり、大慶であること、それについて(相州北条)氏政も出馬するように、(今川氏真が)唯一無二の奔走をすること、いよいよ当方(氏真)の事情につても、取り成しを頼み入ること、爰許の様子はかならず大惣(大石惣介芳綱。謙信旗本)が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている『上越市史 上杉氏文書集一』936号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿・直江大和守殿」宛今川「氏真」書状)。

同日、今川氏真の側近である朝比奈備中守泰朝から、柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守へ宛てて副状が発せられ、あらためて使者をもって申し入れ致すべきところ、(氏真は)相州に居住しているので、なんやかやするうちに疎意をされたかのようになってしまったこと、よって、信州へ向かって御進発されるそうであり、氏真に対しても大慶そのもであると思われること、いよいよもって御入魂の御取り成しを、頼み入れるほか以外にないこと、なお、大石惣介殿が口説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』937号「直江大和守殿・山吉孫次郎殿・柿崎和泉守殿 御宿所」宛朝比奈「泰朝」書状)。

同日、今川氏真から、別して取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた書状が発せられ、(輝虎へ)直書をもって申し入れるべきとはいえ、両三度にわたって(氏真は輝虎へ直書を送ったにもかかわらず)御返答に預かっていないこと、いぶかしんでいたところ、(氏真の)書札礼が不躾であると、其国(越後国上杉家)においては御不満があると聞き及んだこと、さらさら一両年以来(書礼を)間違えたつもりはないこと、ただし、万が一にも御不満であるならば、(輝虎が望まれる通りの書礼に則って)認め置くこと、略式にはしないこと、そもそも遠路であり、諸事に差し障りがあったところは、御斟酌してもらうほかない旨を、進退の、いよいよ御周旋を其方(山吉豊守)に任せ置くこと、委細と当口の模様は大惣が口説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』582号「山吉孫次郎殿」宛今川「氏真」書状写)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』等は当文書を永禄10年に置いているが、長谷川弘道氏の論考である「駿越交渉補遺 ー「書札慮外」をめぐって ー」(『戦国遺文 今川氏編 第二巻』月報2)に従い、元亀元年の発給文書として引用した。


7日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)が、取次の山吉豊守へ宛てて、辰刻(午前八時前後)に急報となる書状を発し、先月29日付の(輝虎の)御直札が、一昨5日に御到来し、拝読致したところでは、5日に御出府して、早々に上田(越後国魚沼郡上田荘)の地へ御着陣すると、仰せ下されたこと、(これを知れば)南方(相州北条家)をはじめとした御味方中はいずれも意気を揚げられるはずなので、間違いなく御肝心に極まると思われること、とりもなおさず小田原(相府)へも申し届けたこと、よって、(甲州武田)信玄が岩村田(信濃国佐久郡)に着陣したのに伴い、箕輪の(上野国群馬郡の箕輪城)の城主(城代)である内藤修理亮(昌秀。譜代家老衆)が出迎えに向かったにより、(箕輪領へ忍び込んだ)境目衆の者が見聞し、昨戌刻(午後八時前後)に報告を寄越したので、(こうした状況を)御承知して頂くため、取り急ぎ申し上げたこと、(信玄が)碓氷峠を越えてくるのかどうか、この模様を詳しく聞届けて、重ねて注進致すつもりであること、まったくこのように(謙信が)御迅速な御出馬をされたのは、御専要な御機会であったと、力を得られたこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、信玄が岩村田に着陣したとの情報は、小幡谷(上野国甘楽郡。甲州武田家に従う西上野先方衆の小幡氏領)・御嶽(武蔵国児玉郡。同じく武蔵先方衆の長井氏領)の消息筋からの内容とも一致することを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』938号「山吉殿」宛「北條丹後守高広」書状)。


15日、今次の関東遠征における先遣隊として上野国沼田城(利根郡沼田荘)へ向かっている板屋修理亮(実名は光胤か。大身の旗本衆・松本鶴松丸の陣代)へ宛てて、辰刻(午前八時前後)に急報となる書状を発し、昨日も申し遣わした通り、方々から寄せられた注進を、確かに聞いて承知した有様は、信玄が厩橋(上野国厩橋城)へ向かって手立てを催すようなので、両手(栃尾本庄・松本の両衆)の者は昼夜を問わず倉内(上野国沼田城)へ早々に打ち着くべきこと、兵糧については、後から送らせてでも、人数は一騎一人の不足もなく、夜通しで倉内へ着城するべきであり、今がその時なので、(板屋修理亮を)頼みとするだけであること、愚老(謙信)においても押っ付け沼田へ入るつもりであること、両手の者共が無道狼藉を働くことがないように、(栃尾本庄)清七郎(実名は綱秀か)に申し付けるべきこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、この書中を、吾分(板屋修理亮)が沼田へ打ち着いたあかつきには、清七郎の召し使う者に持たせ、一刻も早く北条丹後守かたの許へ届けるべきことを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』939号「板屋修理亮とのへ」宛上杉「謙信」書状写)。

越後国上田の地に留まり続けるなか、27日、上野国厩橋城を経由して武蔵国鉢形城(男衾郡)へ向かっている使者の後藤左京亮勝元(謙信旗本)へ宛てて、亥刻(午後10時前後)に急報となる書状を発し、取り急ぎ早飛脚をもって申し届けること、(相府へ派遣していた)大石惣介(芳綱)が言って寄越した有様は、(北条氏政は)氏康が最期を待たれ、明日をも知れぬ容態なので、同陣はできないと言っていること、そのうえに、証人も渡さないと言って、惣介を21日に追い返されたそうであること、吾分(後藤勝元)は厩橋に留まり、(鉢形の)新大郎(藤田氏邦。氏康の四男)へ申し届ける様は、「既に御同陣の心懸けをもって、(上・越国境の越後国魚沼郡)上田まで輝虎(謙信)は罷り越されたところ、(氏政は)御同陣できないと、(当方の使節である)大石と須田(弥兵衛尉。謙信旗本)に御返答のうえは、我等(後藤)が重ねて使いとして相府小田原へ罷り通うのはどうであろうかのこと、そのために貴殿様(藤田氏邦)の御意見を得るべき心中をもって、御内儀を得たいこと、御返事により、其意を承知すべき由」と(書状で)申し、厩橋から鉢形へ飛脚を立てて、新大郎の存分を聞き届け、吾分(後藤)は小田原へ向かうべきこと、また、(後藤がすでに)厩橋を通過している場合には、鉢形にて新大郎へこの段を申し届け、鉢形にて小田原(北条氏政)の対応を聞き届けたうえで、小田原へ向かうべきこと、辛労であろうとも、それでもなお今が正念場であり、使命に奮励するのが肝心であること、たとえ中途で滞留するような事態に見舞われたとしても、諦めずに使命を果たすべきこと、万事がめでたく調ったのちに重ねて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』940号「後藤左京亮殿」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


晦日、病床にある北条氏康(相模守)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、大惣(大石芳綱)が帰国するので、申し届けること、条々を彼(大石)の口上に申し含めたので、(この紙面は)委細を省略すること、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)が今もって逗留しているようならば、彼の者に御返答を詳しく仰せ下さってほしいこと、もしまた半途までも罷り立っているのならば、(謙信から)使者一人を仰せ付けられるように、取り成しの一切を頼み入ること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』941号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状写)。



この間、同盟関係にある相州北条氏政の兄弟衆で、伊豆国韮山城(田方郡)に在番中の北条氏規(氏康の四男。相模国三崎領を管轄する)が、9月17日、自身の重臣である山本信濃入道(俗名は家次。水軍大将)へ宛てて書状を発し、注進状を披読したこと、向地(上総国の房州里見領)へ攻め入り、新七郎(家次の次男。実名は正次か)自身が高名を挙げたそうであり、心地よい首尾に満足していること、されば、敵が反攻するようなので、心配していること、そうではあっても、敵が攻め懸けてくるにおいては、(氏政が)その地へ御加勢を手配するそうなので、日増しに防備が整い、安心であること、殊に(氏政が)小田原に御馬を立てられているからには、郡内(相模国三浦郡)への攻撃はないものと推察していること、(三崎衆へ)昼夜の防備を怠らないように申し付けられるべきこと、一、当城(韮山城)へ敵が来る日も来る日も攻め懸けており、このたびは熾烈に押し込んできているとはいっても、諸口はいずれも堅固に防戦していること、とりわけ此方(氏規)の持ち場の和田嶋口は、いかにも堅固であること、安心に思われてほしいこと、繁忙なので、(使者の)口上に委細があること、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、海賊衆の奔走が肝心であること、各々には苦労であること、これらを申し添えている(『戦国遺文 後北条氏編五』4023号「山本信濃入道殿」宛北条「氏規」書状 ●『戦国人名辞典』山本家次の項)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、9日、甲斐国諏訪南宮神社(八代郡)に願文を納め、普賢法五百座勤行、その基軸は、北越の輝虎の親戚郎従の族が、俄頃に叛乱を起こすか、それでもなければ、悪疾の病痛により、輝虎が没命するか、このいずれかの災厄に見舞われて、越軍が我(信玄)の信濃・上野の二国に向かって、戦火を及ぼさず、人民が太平を恙なく謳歌し、ここに、信玄が甲士を率いて関東へ発向し、とりもなおさず、あるいは怨敵に慈心を施して幕下に降らせるか、あるいは怨敵を撃破して四散させたうえで、残らず予(信玄)の指揮に服させるか、いずれかの果報を得て、凱歌を奏でて安楽に帰府することが実現すれば、ひとえに、 諏方南宮大明神の保祐を仰ぐものであること、よって、この祈願状に前記した通りであること、(『戦国遺文 武田氏編三』1592号武田「信玄」願文)。


※ 当文書の解釈については、小林計一郎著『信玄、謙信と信濃』(信濃毎日新聞社)の「第九章 真剣な神仏合戦」を参考にした。


26日、同盟関係にある常陸国太田の佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉へ宛てて返状を発し、わざわざの音問は祝着であること、先書でも露わにした通り、深谷(武蔵国幡羅郡。深谷上杉氏領)・藤田(同国榛沢郡。鉢形藤田氏領)領中を余す所なく荒らし回ったところ、明日は秩父(同国秩父郡。鉢形藤田氏領)へ移陣し、郡中を撃砕して、そのうえでの陣容等に工夫を廻らせたなら、(太田道誉の許へ)使者をもって申し届けること、どうせならば直談を遂げて、申し合わせをしたく、念願していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1740号武田信玄書状)。


※『戦国遺文 武田氏編』等は当文書を元亀2年に置いているが、柴辻俊六『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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