この制度が始まった時から私はこの制度に懐疑的だった。高齢者が増えるから皆で
支え合う。たったこれだけのこと、しかし出来るはずがなかろう。国民皆保険の国保
でさえアップアップしており、こちらは国保と言うが地方自治体に投げられてしまった
ようなもので、国の制度でありながら住む場所により負担(保険料)が異なる無茶苦茶
な制度と言わざるを得ない。これでさえインチキ臭い制度で高齢化と共に保険金増
は避けられず、そして次は医療費負担率が2割から3割と皆保険の質が低下していく
ことは避けられない。先輩である国保の行く先はイバラの道、皆保険ではなく40歳以
上が加入する介護保険に至ってはイバラの道を裸足で歩くようなことになるから、本
来の主旨から後退の連続で食いつなぐしかなくなるのではないかと思っている。
介護は誰がすべきものか。子供か、身内か、地域か、社会・国家か。
日本の社会構造、家族構造は大きく変化してきたことに加えて、豊かな生活をするた
め夫婦共働きは当たり前になり、子供の養育さえ他人任せにする時代だから、親が年
を取ったとて子が面倒を看る状況では無くなった。地方の若者も都会の学校、会社に
行って親元を離れ、故郷に戻って来ることはなくなり、核家族化は拡散する一方だ。
こんな背景があるから介護保険が生まれたのではない事は、はっきりしている。
時代の先を見ながら新しい制度を作って互助を目指そうとするが、良い法律が必ず人
々の平等な幸せを確保してくれることはないから、庶民の嘆きは終わらないのだ。当初、
制度維持のために保険負担金を高額所得者には多くを負担してもらう案が姿を変えて
しまい『ある一定の所得・年金のある人・・・年280万円』となるらしい。馬鹿なことを言え
当初は高額云々から280万円に下げたら高額所得者ではなく庶民ではないか。だから
文言も『一定の・・』に変えてやがる。姑息な説明を分かりにくくする体質が嫌いだから、
こうした制度も嫌いになっていく。所謂、老後のあり方をどう見るのかによっても考え方
は違ってくる。若い時から苦労して働きながら暮らしてきた人と、いい加減に暮らしてろ
くに社会保険など払わなかった人が介護保険の適用を同じように受けられることもあり
うる。国民年金を満額納めてきた人は約6.7万円、生活保護は倍以上、ここにも何とも言
えない感情が湧いてくる。
本当に困っている人がいい介護保険を受けられますように・・・・・本当に困っている人
の定義も都道府県で異なる、否ケースワーカー個人でも異なる。何か理解しがたいこと
ばかりだが、現在の介護保険の自己負担1割にしても、こんな負担で将来も続くはずは
なかろうし、本当にいい介護保険なんてどこに存在しているのだろうか。