
承前です。
向田邦子さんのスカートの寝押しのエッセイの続きを紹介します。
スカートの替えもなかったが、ほかにも無いものだらけの女学生生活であった。
間に戦争がはさまっていたから、食べるものがなかった。五年生の時はじめて習った「お料理」は、さつまいもを使った茶巾絞りである。教材に使うからといって、さつまいもを半分、学校へ持ってゆくことを母に頼む時、うしろめたい気がしたことを、いま思い出した。
教室には一本の花もなかった。学校の花壇も掘り返されて、いも畑になっていたし、先生方も国民服にゲートルである。敵性語である英語は、ずい分早くから授業が無くなっており、英語の先生は肩身せまそうに、事務など手伝っておられた。東条首相の知り合いだというだけで、お作法の先生が時めいており、真善美といっしょに東条首相のおはなしというのを聞かされた。
バレーのボールは、修理して使っていたが、いびつになって、正確なレシーブをしたつもりでも、思わぬ方角に飛んで行った。
私はバレーと陸上競技をやっていたのだが、走り幅跳びの練習をしていて、跳んだところ、上級生が青ざめて、大変だ、日本新記録よ、と言う。私もそんな筈はないと思いながら足から震え出した。職員室に報告に走った生徒もいたが、なに、調べてみたら、巻尺が切れていたので、つないで短くなっていて、数字だけ何十センチかおまけになっていたのである。
レコードもなかった。
学芸会で劇をする。
私は、四年生の時「修禅寺物語」をやったのだが、ここ一番という時にかけるレコードは、「トロイメライ」とサンサーンスの「白鳥」しかなかった。
この二枚が「安寿と厨子王」の時にも、「乞食王子」にもかかるのだが、テレビなど無い時代だったせいか、講堂いっぱいの生徒や先生方は、けっこうハンカチを出して泣いて下さった。そのせいか、私は今でも、この二つの曲を開くと、鼻の奥が少しこそばゆくなってくる。
工場動員中に旋盤で大けがをした友人もいたし、長崎へ疎開して原爆にあい顔中ガラスの破片がめり込んでしまった級友もいた。爆弾でうちも親兄弟も吹きとばされた友達もいたが、だからといって笑い声がなかったかといえば、決してそんなことはなかった。
口は大きくあけるが、一向に声の通らないお習字の先生に「空金」(空中金魚の略)というあだ名をつけ、生理衛生の時間に、知っている癖に困った質問をしてオールドミスの家政の先生の顔を赤らめさせ、私たちはよく笑っていた。校長先生が、渡り廊下のすのこにつまずいて転んだというだけで、明日の命も知れないという時に、心から楽しく笑えたのである。女学生というのはそういうものであるらしい。
(太陽/1980・2)
出所『夜中の薔薇』(向田邦子著)
>明日の命も知れないという時に、心から楽しく笑えたのである。女学生というのはそういうものであるらしい。
このエッセイは80年前の日本の女学生を描いていますが、80年後の今も、ウクライナで、ガザで、そしてイランでも10代の少女たちが「明日の命も知れないという時」のなかで学校に行っているのです....。
向田邦子さんのスカートの寝押しのエッセイの続きを紹介します。
スカートの替えもなかったが、ほかにも無いものだらけの女学生生活であった。
間に戦争がはさまっていたから、食べるものがなかった。五年生の時はじめて習った「お料理」は、さつまいもを使った茶巾絞りである。教材に使うからといって、さつまいもを半分、学校へ持ってゆくことを母に頼む時、うしろめたい気がしたことを、いま思い出した。
教室には一本の花もなかった。学校の花壇も掘り返されて、いも畑になっていたし、先生方も国民服にゲートルである。敵性語である英語は、ずい分早くから授業が無くなっており、英語の先生は肩身せまそうに、事務など手伝っておられた。東条首相の知り合いだというだけで、お作法の先生が時めいており、真善美といっしょに東条首相のおはなしというのを聞かされた。
バレーのボールは、修理して使っていたが、いびつになって、正確なレシーブをしたつもりでも、思わぬ方角に飛んで行った。
私はバレーと陸上競技をやっていたのだが、走り幅跳びの練習をしていて、跳んだところ、上級生が青ざめて、大変だ、日本新記録よ、と言う。私もそんな筈はないと思いながら足から震え出した。職員室に報告に走った生徒もいたが、なに、調べてみたら、巻尺が切れていたので、つないで短くなっていて、数字だけ何十センチかおまけになっていたのである。
レコードもなかった。
学芸会で劇をする。
私は、四年生の時「修禅寺物語」をやったのだが、ここ一番という時にかけるレコードは、「トロイメライ」とサンサーンスの「白鳥」しかなかった。
この二枚が「安寿と厨子王」の時にも、「乞食王子」にもかかるのだが、テレビなど無い時代だったせいか、講堂いっぱいの生徒や先生方は、けっこうハンカチを出して泣いて下さった。そのせいか、私は今でも、この二つの曲を開くと、鼻の奥が少しこそばゆくなってくる。
工場動員中に旋盤で大けがをした友人もいたし、長崎へ疎開して原爆にあい顔中ガラスの破片がめり込んでしまった級友もいた。爆弾でうちも親兄弟も吹きとばされた友達もいたが、だからといって笑い声がなかったかといえば、決してそんなことはなかった。
口は大きくあけるが、一向に声の通らないお習字の先生に「空金」(空中金魚の略)というあだ名をつけ、生理衛生の時間に、知っている癖に困った質問をしてオールドミスの家政の先生の顔を赤らめさせ、私たちはよく笑っていた。校長先生が、渡り廊下のすのこにつまずいて転んだというだけで、明日の命も知れないという時に、心から楽しく笑えたのである。女学生というのはそういうものであるらしい。
(太陽/1980・2)
出所『夜中の薔薇』(向田邦子著)
>明日の命も知れないという時に、心から楽しく笑えたのである。女学生というのはそういうものであるらしい。
このエッセイは80年前の日本の女学生を描いていますが、80年後の今も、ウクライナで、ガザで、そしてイランでも10代の少女たちが「明日の命も知れないという時」のなかで学校に行っているのです....。
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