小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源16

2013年12月05日 00時29分33秒 | 哲学
倫理の起源16




    トマス・アクィナス

 ここで少し私自身の感想をさしはさんでおきたい。
 まず、哲学を、認識論から倫理学へ「視線変更」させたこの手つきは、いかにも鮮やかであるということを認めなくてはならない。そして私は、人間自身を思索の対象とするこの基本的な態度を、大いに多とする。
 だが、同時に二つのことを言っておかなくてはならない。
 ひとつは、「よい」(「いい」)という言葉を道徳的な意味での「善い」に限定することで、『パイドン』におけるプラトンは、その他の「よい」と道徳的な「よい」との関係に配慮しつつ道徳論を展開するだけの広い視野を失っている。そのラディカルな道徳主義のために、人間の快楽や幸福と道徳とがどうかかわりどんな矛盾をはらむかという包括的な問題意識がここでは抹消されてしまっているのである。簡単に言えば、地上的な快楽や幸福の価値は、端的に貶められ、否定されている。
 ちなみにすでに触れたように、『ゴルギアス』では、登場人物に、ソクラテスの好敵手・カリクレスが配されており、彼との議論を通してこの問題が論じられているが、それはニーチェを論ずるときに取り上げることにする。
 もう一つは、既述の通りプラトンは、魂の不死・不滅の原理とイデア世界の厳たる存在とを、互いに支え合う車の両輪として、そこからのみ道徳の根拠を導き出そうとしているため、どちらかいっぽうでも信じられないものにとっては、道徳の原理を見出せないことになる。
「善」のイデアは、プラトンにとって最高のイデア、イデアのイデアであったが、現世での事物は、すべてイデアの影にほかならない(この考え方は、『国家』における有名な「洞窟のたとえ」でわかりやすく説明される)。したがってプラトンに従うなら、日常励行されている何気ない「善」の営みがなされるにあたっても、魂の不死・不滅の原理とイデア世界の存在の原理とがはたらいている理屈になる。だが果たしてそうであろうか。この両原理がなければ、個別の「善」は行われ得ないであろうか。
 そんなことはないのである。
 先に述べたように、「善」とは、共同社会の関係がうまく回っている状態それ自体のことである。この見方からすれば、道徳を道徳たらしめている原理は、私たち一人ひとりがその本質を分かちもつところの、生きた共同性そのもののあり方の中に求められるのであって、魂の不滅やイデアなどの超越的・超経験的な原理を持ち出す必要はない。私はまだ、ではその道徳を道徳たらしめている原理は何なのかという点についてはあまりはっきりとは述べていないが、それについては、後にもっと明確に展開するつもりである。プラトン思想との関連で少しだけほのめかしておくと、その原理は、じつは、「魂の不死とイデアの存在確実性」という原理とは、まったく反対の場所から闡明されるのである。

 ここではさしあたり、プラトンが「イデア」という観念にかくも固執した理由を、『パイドン』にあらわされたかぎりでの彼の思考様式、言い換えると、言葉の使い方という面から解き明かしてみよう。
 こんな箇所がある。

 ただぼくの断言するのは、すべての美しいものは美によって美しいということだ。(中略)で、これにつかまってさえいれば、ぼくはけっして倒れる心配はないし、ぼく自身に対しても、他のだれに対しても、美によってもろもろの美しいものは美しいと答えておけば間違いなしと思うのだ。

 では、君も、たとえだれかが、ある人はほかの人よりも頭によって(頭だけ)大きいとか、反対に小さいほうの人は同じその頭によって小さいとかいうようなことを言ったとしても、そんなことは認めないで、自分が言いたいのは、すべて大きいものはまさに『大』によって大きいのであり、ほかならぬこの『大』こそ大きいことの原因であり、また、小さいものは『小』によって小さいのであり、ほかならぬこの『小』こそ小さいことの原因であるということだけだと、そう主張するだろうね?
 思うに、君は、ある人が頭によって大きいとか小さいとか言ったら、つぎのような反対論にあいはしまいかと恐れているだろうからね。まず第一に、より大きいものがより大きくあるのと、より小さいものがより小さくあるのとは、同一の原因によるのか、とやられ、次に、頭というものは小さいものなのに、それによってより大きいものがより大きいということ、つまり、あるものが小さいものによって大きいということはおかしくはないのか、とやられる。君はこんな反対論が、こわくはないかね?

 では、どうだろうか、1に1が加えられるとき、この加えるということが2の生じた原因であるとか、あるいは1が分けられるとき、この分割が原因であるとかいうのも、君は躊躇しないだろうか。
 君は声を大にして、こう叫ぶだろうね。個々のものが生じるのは、個々のものがそれを分かちもっている固有の本質にあずかることによってであって、それ以外の仕方を自分は知らないと。いまの例で言えば、2になることの原因は2にあずかること以外にはなく、2になろうとするものは2にあずからねばならないし、1になろうとするものは1にあずからねばならない。


 これは奇妙な論理である。私ははじめ、これを読んだとき、何を言っているのかわからなかった。繰り返し読むうち、ようやくその意味と、またプラトンがソクラテスにこのような言い方をさせている意図とがわかってきた。
 プラトンの著作には、これ式の言い方が随所に出て来るが、要するにこれらはすべて、先に示した「ある物事の真の原因は、その当の物事のイデアである」という命題を、身近な例で説得しようとするヴァージョンなのである。
 美しいものの真の原因がただ「美のイデア」にしか求められないのと同じように、小さいと感じられるものの真の原因は「小のイデア」であり、1であること、2であることの真の原因は、それぞれ「1のイデア」「2のイデア」であるとしか考えられない、とプラトンは言うのである。
 こういう弁論の例を聞かされると、当時のアテナイでいかにソフィスト的な屁理屈の応酬がにぎやかに行われていたかが彷彿としてくる。そしてそれらの屁理屈(プラトン自身の論理も含めて)が、まったく常識的な理解とかけ離れたものであったかも。
 プラトンは、たぶん、当時はやっていた言論が、言語がもつことのできる一定の抽象性を利用して、どんな逆説でも真実であるかのように思わせてしまうその乱脈ぶりにうんざりしていたのである。ここでは、「原因(アルケー)」という抽象名詞がキーポイントになっているが、たとえば、頭ひとつ分だけ身長のちがう二人の人がいたときに、大きいほうの人の、その大である「原因」は何か、といった議論が大まじめになされていたことが想像される。
 そこでもし、それは頭一つ分の差によってだと不用意に答えるとすると、たちまち、大きいことの「原因」が、小さいほうの人のその小である「原因」と同じであるのは矛盾しているではないかとか、全身よりもずっと小さいものであるはずの頭が、大きいことの原因であるのはおかしいではないかといった反論が返ってくる。
 また、1に1が加えられるとき2になることの原因は、「加える」という操作だが、一つのものを二つに分割して2が生ずるときの原因は、「分割」という操作であると考えると、同じ2が生ずるのに、いっぽうは「付加」が、他方は「分割」が原因であるとするのは、おかしいではないかといった疑問が呈される。
 アルカイックな文明の時代におけるこれらのロゴスの混乱の理由は、言語の使い方の未整理な状況に帰せられる。その未整理な状況とは、ある言語がある文脈の中で用いられたとき、それがどの程度の具体性、抽象性のレベルで用いられているのかということに対する共通理解がないままに、反論に反論が重ねられていってしまうということである。
 私たちの常識に照らせば、身長を比較して大小の区別が感じられたとき、より大きい人のその大である原因は何かなどという問いは、およそこうした形而上的な議論の枠組みの中にいるかぎり、意味をなさないし、また回答不能である。原因などを問うこと自体がおかしい。しかしその形而上的な枠組みの外に出て、何でこの人はこんなに身長が高いのだろうと問えば、育ち盛りのときに栄養がよかったからだろうとか、両親も高いからそれを受け継いだのだろうなどと答えることができる。
 また言うまでもないが、ある人がある人に比べて頭一つ分だけ大きいととらえることは、その小さな頭が大きいことの「原因」とみなすこととはまったく違う。ただ現象として、それだけの差があると言っているにすぎない。何によってその比較が可能になっているのかと問われたら、それは頭一つ分だけ抜きんでていることによってと答えることは妥当だろうが、そういう言葉の使い方を「原因(元になっているもの)」という言葉に置き換える、その拡張された用法から混乱が生じる。
 また、1に1が加えられるとき2になり、1を分割するときも2になるのは、どういう原因によるのかといった問い方も無意味である。数の計算規則は、もともと具体的なもの(芋でもリンゴでもよい)の数量が増えたり減ったりするという生活経験上の事実にもとづいて立てられているから、1とか2などのそれぞれの数につけられた名前は、互いに他との関係によってその大いさが定まるように決められている。
 一つの芋にもう一つの芋が近づいて、見たところ芋の数量が倍になったととらえられるが、合体して一つになったわけではないので、この変化の結果に対して2という数記号が割り振られたのである。芋を切って分割したときも、二つになったととらえられるが、倍量にはならずかえってそれぞれは半分になってしまう。つまり二つになったうちの一つは、量としては減少している。この、量にかかわる変化の現象を外において、付加の場合も分割の場合も同じように2があらわれるのはなぜかなどと問うのはバカげている。
 なぜこのようなバカげた議論がまかり通ったのだろうか。
 それは、数の概念がうち立てられて、それぞれの数をめぐる相互関係についての認識が高度に発達したため、数の世界が、生活の現実とは自立的に成り立つ独自の世界であるというとらえ方が一般化したからである。
 数という言語はもともと個々の具体物の特性を純粋に捨象したところに成り立つ。一般に言語はこの捨象によって成り立つのだが、数の場合は、その捨象が徹底していて、ふつうの言語が温存している具体物への指示作用までも捨てているのである。たとえば、あれも芋、これも芋ととらえているうちは、「芋」という普通名詞は、個々の芋を指示するというかたちで、個物との連関を失っていない。だが数ある芋が同じ芋であるとしてとらえる言葉の抽象力を自明の前提とした上で、その同じ芋の数を一、二、三と数える段になると、すでにその言語意識にとっては、数えられている対象が何であり、どんな状態にあるか(小さいとか大きいとか)はどうでもよいこととして捨象されるのである。
 教室に集まった生徒の数を数えるようなときは、個々の生徒の具体性に着目していては目的が果たせないから、この捨象は不可欠である。しかし一般に、有理数の世界くらいまでは、そうした捨象が必要であると考えられるかぎりで、生活における有用性との結びつきからそれほと乖離せずに、両者(具体物と数)の関連を比較的簡単に実感できる。
 ところが数記号の世界は、いったんこの抽象化がなされると、人間の理性能力にしたがって、こうした生活の具体性への着目からどんどん離れていく運命にある。この言語としての抽象力の発展が進めば進むほど、数は生活とはかかわりのない自立した世界であるという仮象をまとうことになる。
 この仮象の成立によって、数学は哲学と折り合いがよくなり、数がもともともっている純粋な抽象性という特性をよいことに、数を利用した哲学的詭弁の余地が開けてくるわけである。生活的な実感からすれば、一つのものにもう一つが加わるときの2の発生と、一つのものを二つに分割するときの2の発生とは同じであるわけがない。にもかかわらず、数というものの純粋抽象の力に便乗して、「どちらも同じ2であるのに、それが生じた原因がちがうのはなぜか」などという愚かな哲学的問いが出てきてしまうのである。つまり、2という数が同じ一つの「実体」であるという思い違いをしてしまうのである。
 さてプラトンは、これらの詭弁の横行に対して、美しいもの、大きいもの、2などには、美のイデア、大のイデア、2のイデアというように、みなそれぞれのイデアがあり、それこそが、美しいもの、大きいもの、2としてあらわれているものの「真の原因」だと単純に考えておけばよいのだという論理を対置した。しかしこの考え方は先のような哲学的詭弁が陥っている弊害を免れることができるだろうか。
 なるほど、美そのもの、大そのもの、2そのものというような真実在が現実界の彼岸に存在して、それらによって、現実界における美しいものは(不完全に)美しく見える、などの考えを対置させれば、先ほどのような混乱した詭弁を避けることはできるかもしれない。だが、同時にこのイデア先行論によって何が行われることになるかといえば、言語のもつ特性、すなわち抽象的な概念も実体であるかのように信じさせる特性を極限まで利用するということが行われてしまうのである。
 この実体化の頂点において、まさにイデアという記号表象があらわれる。もちろんそれは、ことの性格上、感覚でとらえられる個物的な実体から最も遠い距離にあるので、不可視であり、可感的世界の外側にある。もともと思惟(言語的な思考)によって構成されたアイデアが、思惟(言語的な思考)によってしかその存在をたしかめられないのは当然である。
 要するに、プラトンが「イデア」という観念を用いてこの世界を秩序づけようとする試みにおいて行ったことは、言語哲学的な面からいえば、実在の多様に触れた人間の思惟作用(言語作用)が、もろもろの実在をその類似性のもとに抽象し、しかるのち出来上がった抽象概念を実体として固定化したということにほかならない。
 そして、「イデア」の絶対的な存在を人々に信じさせようとしたプラトンには、この抽象化と実体的固定化のプロセスが、じつは言語作用(思惟作用)のもつ宿命的な進行の力にもっぱら依存していたにすぎないという自覚がなかったようである。なぜなら彼は、私たちが普通に実体と考えるもので満たされている現象界よりも、言語の体系性によって現出する世界のほうをはるかに深く信じていたからである。ただそれが美しい秩序(善)によって構成されているように見えるという理由のみによって。
 だからこそ彼は、純粋思惟によってしかたしかめられないもののほうが、感覚によってたしかめられるものよりも、その存在の確実性において優位に立つという転倒を行うことができたのである。
 中世スコラ哲学における、唯名論と実念論の対立(普遍論争)も、プラトンのイデア論の当否可能性を引きずっているが、実念論が一つの立場を主張できるのも、プラトンのイデア論と同じように、人間の世界把握の仕方としての「言語」の特性から生まれてきたものと考えれば、納得できる。
 繰り返すが、言語は、抽象概念や類概念を編み出し、それを「もの」のように駆使して思考に力を与えるので、実念論者のように、個物よりも一般観念や普遍概念が先行するという主張もそれなりに一定の説得力をもったのである。
 しかし、ちょうど、ある大きいものの「原因」は「大」のイデアであるというプラトンの論理が今日奇妙にしか聞こえないのと同じように、「果物」という類概念が「リンゴ」という個物に先行して実在するというような考えもいまでは奇妙にしか聞こえない。
 それはなぜかというと、今日では、実際の個物の感知から多くの個物の共通点を抽象して、そこに果物なら果物という類概念を付与するのは、人間自身の言語的思考能力の必然的な道行きにすぎないということが知り尽くされているからである。この普遍論争に関しても、自分たちが使っている「言語」の構造と特性から由来する問題にすぎないという自覚に達すれば、個物が先か、一般観念が先か、どちらが「真に」存在するのかについて雌雄を決するといったたぐいの問題は、消えてしまうのだ。
 ところで、幸か不幸か、私たちは、本来具体的・個別的な世界場面でのそのつどの形容として使われていたはずの「美しい」とか「善い」とか「大きい」とかいった感動や驚きの表現をさらに抽象化して、「美」とか「善」とか「大」とかいった名詞的概念に練り上げ(固定化し)、それらが、それらの特性を発散させる具体的・個別的な「もの」とは独立に存在するかのような言語世界を作り出してしまった。
 小林秀雄は、「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(「当麻」)と言って、個々の実在と心との素朴な交流を通してのみ実現される情緒性だけを信じ、イデア的な「美」「善」「大」などの存在確実性に抵抗してみせた。しかし残念ながら、言語(概念)として成立してしまった観念は、その観念の内包を逸脱しないかぎりで存在すると考えるほかはないのである。それらは、それらにふさわしいかたちで私たちの言語生活のなかで現に使われるのであるから。たとえば「芸術家は永遠に『美』を追究し続ける」というように。
 しかし、プラトンのイデア主義は、人類社会の間で抽象概念・抽象言語が不可避的に成熟していったこの成り行きを徹底的に利用して、そこに思惟によってのみ把握できる世界という楼閣を築いた。そしてそれは同時に、感性的世界の価値のひそかな扼殺を意味した。繰り返すが、その動機は、最高のイデアは善のイデアであるというテーゼから理解されるように、すぐれて倫理的なものだったのである。