小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源17

2013年12月24日 02時57分52秒 | 哲学
倫理の起源17



 プラトン哲学を根底的に批判するには、キーワードである「イデア」という言語(概念)そのものが含む大いなる倒錯性をさらにはっきりと指摘しなくてはならない。しかしそのためには、そもそも言語というもの自体をどのように捉えたらよいのかについて、概説しておかなくてはならない。
 私たちは普通、「言語とは何か」に思いをいたすとき、「それはこの世界のもろもろの事実・真実を私たちの意識表面に再現したものだ」(「言語=真実写像」説)とか、「それは世界で起きていることについての理解を共有するための手段だ」(「言語=コミュニケーションの道具」説)とか、「それは物事を秩序づけて認識するために、世界を分節して再編した体系だ」(「言語=人間による世界再編の体系」説)など、漠然と概念規定を施して済ませている。
 これらは、それぞれに言語のある側面を捉えており、一概に誤りであるとは言い切れない。
 しかし、たとえば第一の「言語=真実写像」説は、大きくいって三つの点で欠陥をさらす。ひとつは、言語は、それが表出されるために、必ず抽象作用を必要とするので、この世界の実在や私たちの観念の個別実態を、そのまま正確に映し出すことが原理的に不可能であるということ。二つ目にこの説では、「客観的真実」なるものが、言語表現以前に確実に存在することが前提とされているが、そういうものは想定不可能であり、むしろ言語活動の協同的積み重ねこそが、それらしきものを構成してゆくのだということ、三つ目にこの説では、日常的な言語的やり取りの機能の多様性(たとえば疑問、命令、感動表現など)をとうてい言い尽くしていないこと、である。
 第二の「言語=コミュニケーションの道具」説もまた、次のような難点を持っている。ひとつは、言語が意思を疎通させるための単なる道具(手段)であるとすると、私たちが伝えたいと考える思考内容が、言語表現以前に、しかも表現主体それ自身とは独立に、確固として存在することになるが、実際には、思考内容はそれについての言語表現をまさに行う主体自身によってはじめて組み立てられるのであって、しかも言語表現とは、むしろ活動する主体(私たち自身)そのものの表出形態のひとつと考えられること。
 二つ目に、国語学者の時枝誠記が見抜いたように(『国語学原論』岩波書店)ひとつの言語活動は、聞き手や読み手の理解に到達して初めて完結するのだから、そうだとすると、話し手や書き手が「道具」によって運んだはずの思考内容が、「聞く」「読む」という言語活動の帰着点でまったく違ったものに変化する可能性が常にあることになる。事実そうなのであって、聞き手や読み手も「受け取って理解する」という意味での言語主体であることを考え合わせるなら、言語は一定の思考や感情を運ぶ道具なのではなく、むしろ言語表出という活動それ自体を通して幾様にも変化する思考や感情の内容そのものなのである。
 第三の「言語=人間による世界再編の体系」説は、これまでの説に比べて最も言語の本質に迫るものといえるが、それでもこの定義は、言語全体(ソシュールの言う「ラング」)を静的に把握しているきらいがあり、現実の言語活動において、話し手、書き手、聞き手、読み手など、あらゆる言語主体自身の動的な「表現とその享受」の過程を掬い取りえていない。言語は、発話者や聴取者の主体性のあり方如何によって、短い時間の間にも、長い時間の間にも、まさに変幻自在ともいうべき「生き物」性をいつも保持しているのである。
 結果、第三の説のみでは、言語によっていくらでもウソがつける可能性とか、伝言ゲームのように、作為はなかったのに、はじめの事態とはまるで違ったことを伝えてしまう可能性とか、想像力の駆使によって限りなく空想的な物語を作ることができる可能性などの面が、見逃されてしまう恐れがある。
 そこで、第三の説にいま少し動力を加えてより発展させ、次のように定義づけてみてはどうだろうか。すなわち――

 言語とは、人間が、身体と身体とがかかわる場において、規範的、象徴的な音声表出を通して互いに自己を投企することによって、自己自身を含めた世界像をそのつど再編する営みである。

 ずいぶんややこしい、こなれない表現になってしまったが、私自身は、これでもまだ言語という現象を十全に言い当てるには、どことなく不満を感じている。
 ちなみに、ここでは、文字言語や身振り言語(手話)、触覚言語(点字)などを無視して、あえて「音声表出」と限定しているが、なぜそうするのかについての詳しい説明は、当ブログで同時進行中の『日本語を哲学する』第一部・第一章を参照していただきたい。
 一応簡単に要約しておくと、言語はまずその起源において音声表出でなくてはならなかった必然性をはらんでおり、しかも現在においても、その必然性が保存されたところで言語活動がおこなわれていると考えられるからである。
 その必然性とは、意識の表出の授受としての言語活動が、音響知覚の持つ次の三つの特性によって、根源的に支えられるというところに求められる。
 ①発生源が他の知覚によって確認されなくても知覚できること
 ②知覚する「主体」と知覚される「対象」との分離対立という認識論的な把握ができにくく、主体は音響の知覚に意識そのものを満たされてしまうこと
 ③音響は時間的に知覚されるために、意識の流れにそのまま同期すること
 音響知覚のこれらの特性が、言語意識の熟成に必要な「内面的意識」(現場からの超越性、内的な時間意識)の形成に与るのである。
 音声言語以外の言語は、音声言語にもとづいて作られた概念体系が複雑に発達した後に、その体系性にもとづいてより高次なかたちで補完的に考案されたものと考えられる。たとえば文字言語は、「書く」「読む」という行為によらなければその機能が果たされないが、「書く」は観念化された音声の駆使と同じであり、「読む」もまた、観念化された音声の聴取と同じである。もちろん、文字言語と音声言語との違いは多々あるが、言語の本質を考えるにあたっては、その違いは捨象してかまわない。

 さて、言語について以上のように概括した上で、プラトンに戻ろう。
「イデア」とは何か。 哲学者や哲学研究者は、プラトンの編み出したこの言葉の「真意」を、テキストのなかでこの言葉が使われている幾多の事例から帰納的に推定しようとするかもしれない。そして、確からしい推定が成り立った時点で、プラトンがあらかじめ考えていたイデア思想の体系を、その一見するところまとっている神秘的なイメージから引き剥がし、透明なかたちで素描することに成功したと信じるかもしれない。
 しかし、私たちは、彼の著作『パイドン』からすでに引用した部分を、もう一度ここに再現してみよう。けだしじつを言えば、この何気ない表現の中に「イデア」の何たるかが明瞭に表現されているのである。そこで、それをたよりに、プラトンが「イデア」という言葉を持ちまわることで、何を「考えて」いたかではなく、何を「しよう」としていたかを見破ることにしよう。じつはこのことこそが重要なのである。

 では、君も、たとえだれかが、ある人はほかの人よりも頭によって(頭だけ)大きいとか、反対に小さいほうの人は同じその頭によって小さいとかいうようなことを言ったとしても、そんなことは認めないで、自分が言いたいのは、すべて大きいものはまさに『大』によって大きいのであり、ほかならぬこの『大』こそ大きいことの原因であり、また、小さいものは『小』によって小さいのであり、ほかならぬこの『小』こそ小さいことの原因であるということだけだと、そう主張するだろうね?

 君は声を大にして、こう叫ぶだろうね。個々のものが生じるのは、個々のものがそれを分かちもっている固有の本質にあずかることによってであって、それ以外の仕方を自分は知らないと。いまの例で言えば、2になることの原因は2にあずかること以外にはなく、2になろうとするものは2〔のイデア〕にあずからねばならないし、1になろうとするものは1〔のイデア〕にあずからねばならないと。


 たとえばここに一本のボールペンがあるとする。このボールペンをこのようなボールペンたらしめている「原因」は何かと誰かに聞かれたならば、その複雑な製造工程や発明の歴史などを苦労して語ろうなどとはせずに、あなたは、それはボールペンの「イデア」だと答えればよい。プラトンは要するにそう言っているだけである。つまり「イデア」とは、ある物事をその当の物事たらしめているもののことで、いまなら、ある物事の「本質」あるいは「概念」と言い換えるべきところだろう。
 ところで、たったこれだけの言語行為、単に「原因」を「イデア」へと言い換えた言語行為、あるいは既成の言葉による定義の煩雑を嫌って言い逃れたにすぎないとしか思われない言語行為が、なぜ以後二千数百年にわたってヨーロッパ哲学界の基本的な思考様式を強く、しかも大いなる倒錯的思考様式として規定するに至ったのか。
 個別のある事物には、何であれ、必ずその事物が分有する(あずかる)ところの核心的な「何か」があって、それあるがゆえに、それぞれの事物は存在を許されているのである。その「何か」はいまだ名づけられていないが、仮に「イデア」と言っておくことにしよう――このプラトンの言語哲学的プランは、からくりとしては、現実の事物の多様を分類した上で、それぞれの事物を表わす言葉の抽象力を損なわないようにしつつ、そのことによって当の可感的事物よりも、それに対して与えられた言葉(名辞)のほうに存在のふるさとを与えようという提案を意味している。
 つまりは、「存在」の比重を、名づけられたものから名前そのものに移し変えるのである。言い換えると、事物にはすべてそれ固有の「イデア」があると宣言することは、真に存在するものはもろもろの可感的事物ではなく、それらに与えた言語(概念)なのだと言い切っているに等しいのである。
 可感的事物は、真なる存在の影に過ぎず、感覚で捉えることのできない「イデア」、思考によってしか語ることのできない「イデア」こそが真の実在である。それは形も色も大きさも持たず、運動したり静止したりもしない。なぜならそれは、人間の命名行為という純粋に思考の産物であって、この命名行為の総体がイデア界を作り上げるからだ。
 プラトンはしかし、いくらなんでも「イデア」を単なる命名行為とは考えなかったろう。そのように舞台裏を明かしてしまうことは、「イデア」という言葉によって積み上げてきた理想主義精神をみずから掘り崩すことだ。彼はむしろ、そのように名づけられるひとつの純粋で完璧な「世界」が厳然と存在し、もろもろの可感的事物はそこから魂を吹き込まれることによって初めて存在に与ることができるのだと固く信じていた。あるいは固く信じているかのようにこの言葉を用いた。
 しかし、よくよく考えれば、このイデア説を流布させることは、まさに先に指摘した言語行為、つまり自己自身を含めた世界像をそのつど再編する営みなのであって、すべての人々がこの営みに説得され、この流布が完全な成功を収めたあかつきには、「それは存在する」と高らかに唱えてかまわないのである。逆に言い換えるなら、ある言語による世界像の再編がうまくいっていないと普遍的に感じられる場合には、その言語は、物事の本質を形成する資格を持たないことになるのである。
 こうしてプラトンはひとつの観念論を創始したのであり、そうと自覚せずに、この「名前のみが存在の名に値する」という観念論によって、世界像の大きな創造的再編成をおこなったのである。その再編成の試みにはまた、より抽象的なレベル、思考によってしか捉えられないレベルにある概念ほど価値が高いという考え方が引き剥がしがたく結びついていた。
 だが私たちは、言葉というもののたいへん厄介な特性を知っている。
 すでに述べたように、それは個別的事物群をひとまとめに抽象化し、またある事物への形容や修飾を名詞的に固定化することができる。
 絢爛と咲き誇る桜や満天の星空や優美な稜線を描く山、水平線上に沈み行く太陽や若く生命力にあふれた女性の容姿等々を、それぞれに「素晴らしい=美しい」と感じる経験を積み重ねた後、それらの情緒的経験のうちにある共通の感得様式を見出し、それを「美」という名で呼ぶ。この概念の固定化・客体化がいったんなされると、それはそれ自体で存在しているかのような幻想に私たち自身を誘い込む。
 言語のこの自己幻惑的な特性は、さらに進んで、もろもろの「美しい」事物よりも、純粋性において優る「美」という概念そのもののほうが、存在的にも先立つのだという錯覚を呼び起こすのである。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」にもかかわらず。
 この錯覚は、繰り返すが、言葉というスタイルによって思考する私たちにとって、ほとんど逃れることのできない必然性を持っている。しかし、必然性を持ってはいても、それが錯覚であることには変わりがない。「神」が宇宙万物の「原因」なのではなく、はじめにあったものは、私たち人間の力や日常的状態をはるかに超えていると感じさせるもろもろの事象であり、それらの事象に対する私たち自身の驚きと畏敬の感情、すなわち「神的な体験」なのである。「神的な体験」が普遍的であればあるほど、「神」は存在し、しかももろもろの事物に先立って存在すると感じられるようになる。だが本当は、「神的な体験がある。『神』そのものという様なものはない」のである。
「イデア」も同じである。美しいもの、真実なもの、善きものがあちこちに見出され感じ取られれば、美のイデア、真のイデア、善のイデアは、個々のものに先立って存在し、しかもその値打ちは、個々のものよりもはるかに高いということにされてしまう。なんとなればイデアは感覚によっては捉えられず、思考のみによってその存在が確認されるからである――この「信」を支えているのは、言語というものがもともとその特性として持っている抽象力、虚構力、固定化力・客体化力以外の何ものでもない。
 ゆえに、私たちにとっては、言語の厄介な特性あるいは本質的な制約と映るものが、プラトンの世界再編の野心にとっては、格好の思想構築力であった。このじつに単純な、とはいえまことに大いなる錯誤こそが、「イデア」思想の倒錯の核心をなしているのである。
 私はプラトンのイデア論を、言語動物にとって避けることのできない「倒錯」を巧みに利用した思想史上最大の詐術であると考えるが、まさにそうであることによって、この思想は二千年以上の力を及ぼしたのだった。

 しかし、よくよく考えると、「善のイデア」という考え方には、仮にその存在を最高のものとして認めるとしても、いまひとつよくわからないところがある。というのは、このアイデアは、ことを倫理学的な視点で切り取ってみると、最高度に抽象的な「よきもの」があるといっているだけだから、かえってそのことで、人間の言動のうち何を善と呼び、何を悪と呼ぶのかという識別の原理が導き出せないのである。思い切りわかりやすいたとえで言えば、「果物」といっただけではそれがリンゴなのかミカンなのかバナナなのかわからないのと同様である。
 もとより、先に述べたように、個別の意志や行為をそれだけとして取り出して、何々は善、何々は悪というように絶対的な規定をほどこすことはできない。しかし、悪について私が先に説いた「人が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為」という規定、あるいは和辻の説いた「全体性からの離反としての個への停滞」という規定を善悪の絶対的な識別基準とすれば、単なる相対主義に陥らないために必要な抽象水準を保つことができる。しかも、個人の心中において、自分の過去や未来における意志や行動が善にかなったものであるかどうかという判定が確実に得られるのである。

 プラトンはみずからのイデア論を引っさげて、社会的な現実のあるべき姿を模索すべく、『国家』(『ポリテイア』)という長大な作品に挑んだ。かの有名な「哲人国家」の理想はここから出てきたものである。この意気込みや、まことに壮とすべきで、私はこの理想自体はそんなに悪くないと思っている。プラトン自身の問題意識は、民主主義の行きつく先としての衆愚政治に対する危機感にこそあった。ソクラテスの時代にすでにその兆候ははっきりと現れていた。プラトンが尊敬してやまなかった師のソクラテス自身が、この民主政治の衆愚性によって犠牲になるありさまを、若きプラトンは、この目でじかに見たのである。また、彼(プラトンは貴族出身である)の親族が参画した三十人政権も失敗に帰し、当時のアテナイは政治的混乱のさなかにあった。ソクラテスの活動した時代は、民主主義体制が曲がりなりにも生きており、彼はその中で哲学問答、倫理問答に生涯を費やしたのだが、40年を隔てて活躍したプラトンの時代は、ポリスの再建というテーマが心ある人々にとって差し迫った課題だった。
 おそらくソクラテスの時代と異なり、プラトンが哲学の世界でイデア論を構築したその基本動機のなかには、ポリス全体の運命をいかにしてより良い方向に導くかという社会哲学的な問題がはじめから含まれていたに違いない。私はこれまで論じてきたとおり、個人的には、彼のイデア論を哲学的・原理的な人間認識としてみるかぎりにおいて許しがたい倒錯だと考えているが、その国家論への応用という点では、もう少し別の観点からの評価が必要だろうと思う。
 彼の「哲人国家」思想は、言ってみれば、衆愚政治の弊害を脱するためには「精神のアリストクラート」が政治の代表者になるほかはないという思想であり、『論語』における「君子」の概念などと共通している。時代背景もよく似ており、その哲学的な問題意識が国家論に結びつく必然性を考慮すれば、彼の政治哲学としての国家論の基本図式は、当時における理念型の提示としては、かなり妥当なものと考えられる。
 とはいえ、プラトンの国家論こそは全体主義の濫觴であるというような、カール・ポパー(『開かれた社会とその敵』未来社)に代表される批判にも共感できる部分が皆無ではない。たとえば、守護階級の徹底的な育成のために男も女も区別なく素っ裸で体育術を学ばせるべきだというような、後のロシア・マルクス主義における全体主義的教育論やラディカル・フェミニズムの「ジェンダー・フリー」を連想させる記述、国家統治を完成させるために家族の解体を要請しているかに見える記述、統治者と守護階級とその他おおぜい(経済的階級)を、理性、勇気、欲望という人間の心の三特性になぞらえ、国家体制をそのような三層構造によって強固に打ち固めるべきだといった、過剰な設計主義的性格など。
『国家』にじっさいに見られるこれらの特性が、20世紀前半のヨーロッパにおいて激しい議論の対象になったことは、佐々木毅氏の『プラトンの呪縛』(講談社学術文庫)に詳しい。この時期には、自由主義体制、社会主義体制、ナチスによる国家社会主義体制など、大衆社会にふさわしいイデオロギーがいっせいに出そろい、それらが帝国主義戦争の現実に揉まれる中で、思想的にもしのぎを削った。したがって、二千年以上前のプラトンの国家思想がはるかに呼び出されて、それと現代政治思想との関連が熱を帯びて論じられるのも当然であったろう。
 しかし竹田青嗣氏が『プラトン入門』(ちくま新書)でつとに指摘しているように、近代民主主義(開かれた自由な社会)の時代を生きる私たちの観点から事後的にプラトン国家論の全体主義的性格を批判しても、それだけでは、全体主義そのものの起源や問題点や克服課題を的確に剔抉したことにはならない。歴史の教えるところによれば、全体主義は、多くの場合、むしろ民主主義の只中からこそ発生しているからである。
 全体主義が生み出されてしまう事情は、単に頭で考えられた理想自体にのみあるのではない。人性がもともと秘めている強さと弱さ、権力とそれに媚びる卑屈さ(権威主義)、単純で愚昧なエモーションに道を譲り渡すことを許す文化的な退廃、欲望の放任による経済格差の拡大と中間層の衰弱、などにその原因が求められる。そしてこれらの傾向は、民主主義が行き過ぎたときに露出しやすい。プラトン自身も、この傾向に対する問題意識を十分に持っていて、そのために統治の理論を構築する必要に駆られたのである。
 問題意識は十分だったのだが、彼の国家思想は、「なんでも頭で構想する」過剰な設計主義に貫かれていた。それが、政治のあり方を考えるにあたって、ふつうの人間の人性や、社会状況が持つ規定力のおそろしさに対する視野と感覚とを常に織り込む必要を忘れさせたのである。そのため国家にかかわる彼の理想主義的な精神の型は、後世、何度も人民抑圧や専制政治の道具として利用されてしまうことになった。もちろん、こういう理想主義が利用されやすいその哲学的な原因は、やはり彼のイデア原理にあるということをも見ておかなくてはならない。
 だがプラトン国家論には、功績もまたある。それは、哲学的思考を社会の考察にまで拡張して、正義とは何か、共同体の幸福とは何かといった社会哲学的な問いの形式を創始したことである。その始原の原理であるイデア論がたとえ倒錯にもとづいていたとしても、そのこととは別に、あるべき共同体のヴィジョンを具体的に構想したところには、哲学する彼の本来的な動機がよく活かされている。哲学を単なる暇人(スコラ)の遊戯とみなしていなかった証拠である。


*次回からはカントをとりあげます。

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