小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する15

2013年12月09日 18時21分14秒 | 哲学
日本語を哲学する15

第Ⅱ章 沈黙論(2)

③の1 統合失調症患者にしばしばみられる緘黙


 統合失調症患者やうつ病患者の緘黙の場合もまた、一義的にその「意味」を確定するわけにはいかない。統合失調症とか、うつ病とか診断される患者自身が多様な病像を示すし、さまざまな「境界例」と呼ばれるケースもある。精神病理学・精神医学は新しい学問だから、その疾病概念自体が曖昧さを免れないし、精神医療の専門家たちの間でも基礎理論的なレベルで議論百出の混乱状態を呈してきた。
 しかし、診断者の膨大な臨床経験の蓄積から、ほぼ「統合失調症」とか「うつ病」とか診断するにふさわしい共通の病像が見られる事実も否定できない。この両者を「二大精神病」として位置づけたのは、クレペリンやブロイラーだが(前者は、「早発性痴呆」と「躁鬱病」、後者は「精神分裂病」と「躁鬱病」)、いうまでもなく、それぞれの疾病概念の中身もまた、その型によって多岐に分かれるとされてきた。なお現代では、「躁鬱病」にくくられる種々の病像のなかでは、単相型の「うつ病」の占める割合が圧倒的に多いとされている。
 ところで、病像の多様性や疾病概念をめぐる議論の混乱に足をとられて、「沈黙」という本稿の主題に言及できなくなってしまうのでは意味がない。そこで、いささか乱暴ではあるが、「統合失調症」と「うつ病」とが現在でもなお、精神医学上、二つの大きなテーマである事情に鑑みて、この二つにおいてしばしばみられる「緘黙」が、言語論的にそれぞれ何を意味しているのかについて、私見を述べておきたい。

 統合失調症における緘黙(言語的閉じこもり、また周りに人がいるのもおかまいなしにぶつぶつと独語する状態など)は、ウジェーヌ・ミンコフスキーが規定した「現実との生ける接触の喪失」という概念――この概念の当否についても議論があろうが――に照らして、おそらく、自己の世界像と周囲の他者のそれとの大きな乖離に対する漠然とした・不安な認知からやってくるものである。
 患者は幻聴や妄想に悩まされ、それを他者に向かって「現実」であるとして表現することが多いが、他者はそれを「現実」ではないとして否定する。また活発な幻聴や妄想を特に他者や自己に対して表出しない場合でも、事情はさほど変わらない。なぜなら、「自己」とは、キルケゴールの言うように(『死に至る病』)、「関係が関係それ自身に関係するということ、そのこと」なので、患者は、自己のなかに住まう「他者」によって、共同世界からの疎隔感そのものを多かれ少なかれすでに問題視し、あるいは「否定」していると考えらるからである。じつは彼は、「無意識の病識」とでもいうべきパラドックスをどこかにかならず抱えながら生きている。
 この「否定」は、フロイト流に言えば、それ自体がまた一種の反動形成として、孤独な世界像への固執をうながすであろう。人間は、どんな具体的な契機からであろうと、周囲との共同関係から切り離された時間を長くもつと、ちょうと夢の世界がそのことをよく示しているように、「経験的事実」なるものによって検証されない「意識の自己展開」を次々と繰り広げてゆく本質的な性向をもっている。人間とはもともと「妄想的生物」である。
 だから統合失調症における緘黙は、いわば自分の世界像が他者と共有されていないという不安な認知そのものの「言語的表現」なのである。そしてまたこの基礎的な認知とその「否定」とによって再生産される幻聴や妄想への関心の固執が、実際上の緘黙状態をさらに持続させることになる。というのも、身体の中心を襲ってくる音声や、ある妄想観念への囚われは、それ自体が「意識の活動」であることによって、それ以外の周囲の出来事や対象を、意識的な関心の埒外においてしまうだろうからである。
 そもそも、幻聴(病理学用語では「考想化声」とか「作為体験」とか呼ばれる症状を通して現われる体験)とはいったいなんだろうか。
 それは一言で言うなら、「自己」を成り立たせている条件としてすでに内在的に住み込んでいる「他者」を〈私〉の一部として身体的・情緒的に統合することの失敗である。
 前章で述べたように、音響の知覚は、時間に添って確認されるというその本性からして、意識にとっての「対象」とはなり得ず、むしろ意識の流れそのものに寄り添い、意識の具体的なあり方、すなわちある一定の「内面」の形成に与かる。しかし人間は、個々の意識のあり方、「内面」のあり方を他者と共有しているかどうかを絶対的に確定する方法をもっているわけではない。だから、この「共有」を確信して不安を解消するために私たちがとりうるのは、具体的な他者とのそのつどの、身体的・情緒的・言語的なやり取り(一般に「行為」)という方法以外にあり得ない。このやり取りが維持される限りで、共有の確信はたえず更新され、不安は克服される。こうして通常の場合は問題なく生活(共同関係)が成立し、進行する。
 だが、資質、環境、体験その他の諸条件によって、ある極端な孤立が蓄積されると、言語的な意識は、この唯一の方法としての「行為」への結びつきからの撤退を余儀なくされる。言い換えると、身体的・情緒的なやり取りと、言語的な意識との乖離、後者の前者からの浮き上がりが出現する。その結果、言語的な意識(=ここでは観念化された音声)が自分の意識の流れそれ自体を、何か自分の身体の外に存在する「他者」を源としてやってくるものと感じるようになるのである。
 つまり幻聴体験は、人間の意識構造の次の二つの根源的な条件を基盤として生じる。

 a.人間が一個の〈私〉でありうるために「他者」を内在せざるを得ないこと
 b.言語が音声を本源としており、その基礎である「音響」が時間に添って知覚される という点で、意識そのものに同期すること

 したがって幻聴体験は、通常の人間的あり方からは理解を絶した現象なのではなく、むしろまったく逆に人間の意識の普遍的な本質を屈折した形で照らし出しているのである。

③の2 うつ病患者にしばしばみられる緘黙

 うつ病の緘黙の場合はどうであろうか。私はこれを「意識が、過去としての〈私〉に抽象的に、かつ過剰に囚われた状態」によるものと考える。
 うつ病患者がよく訴えるのは、自分には何の存在価値もないとか、未来に何の希望も感じられないとか、自殺したいとか、過去の行為に根拠をもたない罪悪感、全身の倦怠感といった気分である。こうした気分を訴えるのは、几帳面で責任感が強く、こつこつ型の人に多いと言われている。
 自分の「存在価値」にこだわることとか、「絶望感」とか、「罪悪意識」とかいった様態は、存在論的には何を意味しているだろうか。
 まず人の「存在価値」とは、その人が過去において、どんな業績や喜びを他者に与えてきたかによって測られる。他者がある人を「あれはああいう人」とみなすとき、その根拠は、その人との具体的な交渉経験の結果としてである。だがすでに述べたように、ある人が一個の〈私〉でありうるためには、「他者一般」のまなざしを自分のうちに内在化させざるを得ない。したがって、その内在化された観念的な他者による自己評価は、自分の過去を対象とするほかはない。さまざまなきっかけ(リストラでも、出世の望みが断たれたことでも、失恋でも、目的達成後の空虚感でも、何でもよい)によって、自分の前半生は無意味だったという極端な自己卑下の感じに支配された時、彼は、現在かかわりをもっている事実上の他者や対象との生き生きとした交渉の可能性に目が向かなくなってしまう。彼にとって〈私〉とは、ほとんどすべて「私の過去」である。
 また「絶望感」とは、未来の可能性を手元にたぐり寄せつつ生きるという人間の実存的なあり方を封印された状態を意味する。ハイデガーの言うように、人はいまだあらぬところの「ありうる自己自身」をたえず関心の的として生きる存在であるから、その「ありうる自己自身」が具体的な可能性を何も提供してくれないと感じられる状態が「絶望感」である。だからこれもまた、〈私〉の過去に過剰にこだわっている状態だと言える。
 さらに「罪悪意識」が、「すでに行われた自分の行為」にかかわるものであることは言うを俟たない。しかし、その行為なるものが、本当に行われたある具体的な何かを指しているのではなく、自分の前半生全体を漠然と指し示しているような場合、あるいはいくつかの具体的な何かを指しているとしても、それがそれほどの罪責感に値するようなものとはとても考えられない場合には、その人の意識は〈私〉の過去に過剰に囚われていると言える。
 このように、うつ状態とは、意識が過去としての〈私〉に過剰に囚われた状態にあるために、抽象的な過去としての〈私〉、〈私〉の来歴一般のまわりを空転してしまう事態である。意識とは、本来は、未来の行動を条件づける動物的なはたらきとして与えられた機能である。しかしうつ病においては、その「意識」が、目の前に開けた身近な他者や対象世界に自分を着地させることができない。彼の意識にとっては、「これから先の私」が実感をもって存在するように感じられない。しかし、意識だけは、まさに「ただの意識」として空転しつつ流れるので、そこに、うつ病に特有の不安感も伴うのである。
 この状態では、当然、他者へ向かっての情緒的な「開かれ」が何かを生むようには期待できないから、発語という構成行為をあえてなすことにほとんど意味が見いだせなくなる。こうして彼は緘黙に陥りがちになるのである。
 そして、この場合も、通常の人間がしばしば過去の失敗や挫折の経験にとらわれて、暗い落ち込んだ気分になり、「誰とも話したくない」という状態になるのと本質的には変わらない。資質や環境や体験などの条件によって、その固定化の程度が違うだけである。
 統合失調症の幻聴や妄想の場合には、念慮はある具体的な内容をもっており、その緘黙は、しばしば一種の過剰な豊かさゆえの緘黙とも言えるので、意識の未来志向そのものは損なわれていないと考えることが可能である。だが、うつ病の場合には、存在論的な未来志向そのものが壁にぶつかっているのである。

④脳の器質的損傷による失語

 これについては、多言を要しないだろう。器質的損傷による失語は、大きく、感覚性失語(ウェルニッケ失語:発語は流暢にできるが、人の言うことがよくわからない)と、運動性失語(ブローカー失語:人の言うことはよく理解するが、発語がうまくできない)、およびこれらの総合的な失調、その他に分かれるとされている。こうした大脳の言語中枢機能の局在的な障害として失語を切り取るかぎり、そしてその診断が臨床的に明らかであるかぎり、思想的な言語論としての「沈黙」の問題にこのケースを含めることには、さほどの意義は認められない。言語活動を支えるものとしての「情緒的な開かれ」には問題がないと考えてよいからである。
 ちなみに補足しておくと、構造主義言語学者のローマン・ヤーコブソンが規定した「選択(等価な語群から語を選ぶ力)」の失調による失語症と、「結合(文法的な統辞形式を構成する力)」の失調による失語症という有名な二大分類は、脳科学による病因論的分類とはまた違った次元に属する。これは、いわば自らの言語構造理論の証拠提供の意味をもつ分類である。語彙の選択能力の障害とそれらを統合して文として構成する能力の障害とは、いずれも感覚性失語(聞き取りの障害)、運動性失語(発語の障害)との両方に重ね合わせて考えることのできる分類だからである。聞き取りの障害にも「選択」と「結合」の両方の障害の区別が考えられ、発語の障害にも「選択」と「結合」の両方の障害の区別が考えられる。
 しかし、ヤーコブソンのこの分類が多様な失語症現象そのものに対して、どこまで深い認識に達しているかについては疑問なしとしない。たしかに言語現象内部の形式的な把握として失語現象を記述するという点では的確と言えるが、しかし、こういう仕方で失語症を分類した場合、今度は、それらの差異はそれぞれどのような心的状態を基盤として生ずるのかという問いを呼び起こすからである。
 というのは、選択や結合の障害は、「失語症」という常態化してしまった症状に注意を集中しなくても、私たちの日々の言語活動で、部分的にはたえず経験されていることだからである。たとえば、ある人の名前がどうしても出てこない(選択的失語)とか、話しながら語順や文法を間違えて、言いたいことを相手にうまく伝えられない(結合的失語)といったことは、ありふれた現象である。すると、こうした現象には、当然、その発語者の情緒的状態、もっと言えば、時枝が言語の三つの存在条件として掲げた、「主体、素材、場面」がどういう関係におかれているのかという問題が絡んでくる。だから、発語や聞き取りを支えるそうした言語外の条件にまで視野を届かせるのでなくてはならない。しかしこの問題は、時を改めて論ずることにしよう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿