それでは残った三名の選歌を紹介します。
Dさん(六十代・男性):
・あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(20) 額田王
・紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(21) 天武天皇
・東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ(48) 柿本人麻呂
・磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまた還り見む(141) 有馬皇子
・み空行く月の光にただ一目あひ見し人の夢にし見ゆる(710) 安都扉娘子
・世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893) 山上憶良
・若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る(919) 山部赤人
・石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(1418) 志貴皇子
・春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(4139) 大伴家持
・わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(4291) 大伴家持
*オーソドックスな選択です。どれも名歌というにふさわしい。また人口に膾炙していますね。20と21は、秘めたる恋の相聞として有名ですが、宴で酔った天武天皇の舞姿が女に秋波を送るように見えたので、額田王が半ばいさめ、半ば揶揄するように歌ったのを、天武が当意即妙で返した、という山本解釈もあります。いずれにしても、文芸の価値はその成立事情とは自立したところに求めるべきですから、額田王のこの歌が、恋心の機微を美しくとらえた最秀作の部類に入ることは間違いないでしょう。893は有名な「貧窮問答歌」の反歌ですが、齢七十を超えた憶良の心境がいみじくも出ていて、貧窮問答歌そのものよりも優れていると思います。Dさんは公平な評価をする人だと思いました。
Eさん(六十代・女性):
・籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも(1) 雄略天皇
・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(8) 額田王
・あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(20) 額田王
・紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(21) 天武天皇
*以上二つはセットとして考えてください。
・わがせこを大倭へ遣るとさ夜更けてあかとき露にわが立ち濡れし(105) 大伯皇女
・瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思はゆ 何処より 来りしものそ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ(802) 山上憶良
・石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(1418) 志貴皇子
・旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめ天の鶴群(1791) 遣唐使の親母
・勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ(1808) 高橋虫麻呂歌集
・鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまへな妹が直手よ(3439) 作者未詳
・吾が夫子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな(3774) 茅上娘子
*一見して、若い番号の歌を多く選んでいることがわかります。万葉集の順序は、必ずしも時代順ではありませんが、巻十までの間に初期から中期までの古い歌が多く集められていることは事実です。Eさんはおそらく、上古の格調ある歌の中に神話的なロマンを見出しているのでしょう。それは、1の求婚歌や、105の、やがて謀反の疑いで処刑される大津皇子を送り出す姉の運命的な別離の歌、「あかねさす」の洗練された恋心のやり取り、などへの共感のさまに伺うことができます。また有名な802や1791を選んでいるのは、子どもを思う母心を投影させているのでしょう。さすがは女性らしい細やかなセンスだなあと思いました。
私(七十代・男性):
・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(8) 額田王
・淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ(266) 柿本人麻呂
・石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(1418) 志貴皇子
・朝寝髪われは梳らじ愛しき君が手枕触れてしものを(2578) 作者未詳
・燈の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ(2642) 作者未詳
・信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ履はけわが背(3399) 作者未詳
・鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまへな妹が直手よ(3439) 作者未詳
・わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(4291) 大伴家持
・天離る 鄙治めにと 大君の 任のまにまに 出でて来し 吾を送ると 青丹よし 奈良山過ぎて 泉川 清き川原に 馬とどめ 別れし時に 真幸くて 吾帰り来む 平けく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉鉾の 道をた遠み 山川の 隔りてあれば 恋しけく 日長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の来れば 嬉しみと 吾が待ち問ふに 逆言の 狂言とかも 愛しきよし 汝弟の命 何しかも 時しはあらむを はだ薄 穂に出る秋の 萩の花 にほへる屋戸を 朝庭に 出で立ちならし 夕庭に 踏み平らげず 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちなびくと 吾に告げつる(3957) 大伴家持
・色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばま清かに見む(4424) 物部刀自売
*「あかねさす」はみんなが選ぶと思ったので、へそ曲がりの私はあえて避けました。それでも万葉の最高の歌姫を入れないわけにはいかず、「にぎたづ」にしました。
ところで昨年の百人一首の会の時には、意識的に恋歌に限定して選んだのですが、今回の選歌を見ても、私はやはりエロス感情や身近な生活感情の動きに一番関心があるようです。
ちなみに今回は示し合わせたわけではまったくないのに、私の選んだ歌は、八つまでが誰かの選歌と重なっています。これは自分としてはうれしいことでした。なお他の人が選ばなかった2578は、エロチシズムのリアリティをとても感じたから。また3957の長歌は、家持が越中に赴任した時に送ってきてくれた弟が急死した知らせを受けて、その驚きと悲しみをうたったもので、家持の真率な心の動きに打たれました。
長歌はもともと宮廷歌人が天皇の営みなどを寿ぐ儀式的・宗教的な意味合いが濃かったものですが、家持の時代にはその趣向はすたれて、いたたまれぬ個人感情を吐露するところまで来ていたのですね。万葉集に載せられた歌はわずか150年ほどのものに限られていますが、この間に、長歌の歌い収めとしての反歌から短歌として自立していく過程を通して、しだいに、歌は共同体の精神から独立した個人表現としてのフォームを確立させていきます。これを是とするか非とするか。山本健吉は、芸術の本質という見地からして、この事態をあまり面白く思っていないようですが、もちろん言葉の芸術という枠組みの中では、復権の試みは不可能でしょう。
さて今回の試みでは、61の歌を掲載しましたが、けっこう重なりが多いことに気づかれたと思います。
試みに人気投票ふうに整理してみると、
「いわばしる」
「わがやどの」
「ともしびの」 以上各3票
「あかねさす」
「にぎたづに」
「むらさきの」
「あふみのうみ ゆふなみちどり」
「たびびとの」
「かつしかの」
「しなのぢは」
「すずがねの」
「いろふかく」 以上各2票
いろいろと不十分なところもある会でしたが、普段忙しさに紛れて、なかなかこういう試みはできるものではなく、何とかやりおおせただけでもよかったと感じています。
今後それぞれの立場と関心に合わせて、さらに日本文化史への関心を深めていければ、と思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます