テレビメディアは情報選択の原理を見直せ(SSKシリーズ17)
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2010年5月発表】
私はあまのじゃくなので、誤解を受けそうなことを書くのが好きである。といっても、あえてひねくれたことを書いてやろうという魂胆を持っているわけではない。ふと感じたことで、自分では正しいと思えるのに、世間常識からすると正しくないか、またはその是非についての自覚がないように思える物事について、これは書いておいたほうがいいと判断したとき、そういう物事を取り上げて読者の注意を喚起するのが好きなのである。
今回指摘したいのは、日本のテレビメディアが、ニュース番組でどういうニュースをどれくらいの長さで報道するかという問題についてである。事例はやや古いが、少し前に三つの事件報道がなされた。私は、この三つの事件報道の流され方には、どのテレビ局にも、ある共通した認識と判断が反映されていると感じたので、それに関して批判的に述べることにする。
三つの事件報道とは、
①冤罪の裁定が出て釈放された足利事件の元服役囚・菅谷さんにかかわる報道。
②くも膜下出血で亡くなった元巨人軍コーチ・木村拓也さんにかかわる報道。
③タイの暴動に巻き込まれて銃弾に倒れた村本カメラマンにかかわる報道。
これらの事件は、ほぼ同じころに普通のニュース特集番組でいずれも大きく取り上げられたが、そのこと自体に異論はない。問題は、それぞれの事件にかかわる報道を、「また同じニュースか。いつまでやってるんだ」と感じさせるほど長期にわたって流していたことである。総報道時間を測ってみたわけではないが、私の印象では、一個別事件に対するいささか過剰な熱の入れようで、他の重要な報道案件(と私が感ずるもの)に比べて、バランスを失しているとしか思えなかった。
冤罪の問題や慕われていた有名スポーツマンの死や危険地域での日本人の巻き添えによる死が重大でないというのか、という非難の声が聞こえてきそうである。しかし、言うまでもなくニュース特番の時間は極めて限られている。番組担当者は、国内外からの膨大な情報を前にしてどれにどの程度の優先権を与えるかを決めて番組を組むのであろう。そのとき彼らをして右に挙げたような三件を「今日もこれを取り上げよう」「今日ももう少しこれで」というように未練がましく選ばせた心意とは、いったいなんだろうか。
一言で言えば、日本という閉ざされた圏域に住む大衆の、きわめて情緒的な関心へのポピュリズム的な迎合の意識と、それと裏腹の関係にある、理性的な公平感覚の欠如である。
これらの報道に過大な時間を費やしている間にも、世界はいうに及ばず、日本国内でも、それらに負けず劣らず重大な案件がわんさかと犇いている。政治、経済、科学技術、安全保障、海外事情その他。ひとつの事件の情緒的価値のみを重んじて必要以上に長い時間をそれに振り当てることは、そのぶんだけ他の情報を伝えないことを意味する。
ちなみにほんの時折CNNなどを覗いてみると、日本の報道機関が伝えていない情報がいかに多いかに気づかされる。番組担当者は、ポピュリズム的・情緒的な情報選択の基準を根本から見直してほしい。これは思想の根幹にかかわる問題である。
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2010年5月発表】
私はあまのじゃくなので、誤解を受けそうなことを書くのが好きである。といっても、あえてひねくれたことを書いてやろうという魂胆を持っているわけではない。ふと感じたことで、自分では正しいと思えるのに、世間常識からすると正しくないか、またはその是非についての自覚がないように思える物事について、これは書いておいたほうがいいと判断したとき、そういう物事を取り上げて読者の注意を喚起するのが好きなのである。
今回指摘したいのは、日本のテレビメディアが、ニュース番組でどういうニュースをどれくらいの長さで報道するかという問題についてである。事例はやや古いが、少し前に三つの事件報道がなされた。私は、この三つの事件報道の流され方には、どのテレビ局にも、ある共通した認識と判断が反映されていると感じたので、それに関して批判的に述べることにする。
三つの事件報道とは、
①冤罪の裁定が出て釈放された足利事件の元服役囚・菅谷さんにかかわる報道。
②くも膜下出血で亡くなった元巨人軍コーチ・木村拓也さんにかかわる報道。
③タイの暴動に巻き込まれて銃弾に倒れた村本カメラマンにかかわる報道。
これらの事件は、ほぼ同じころに普通のニュース特集番組でいずれも大きく取り上げられたが、そのこと自体に異論はない。問題は、それぞれの事件にかかわる報道を、「また同じニュースか。いつまでやってるんだ」と感じさせるほど長期にわたって流していたことである。総報道時間を測ってみたわけではないが、私の印象では、一個別事件に対するいささか過剰な熱の入れようで、他の重要な報道案件(と私が感ずるもの)に比べて、バランスを失しているとしか思えなかった。
冤罪の問題や慕われていた有名スポーツマンの死や危険地域での日本人の巻き添えによる死が重大でないというのか、という非難の声が聞こえてきそうである。しかし、言うまでもなくニュース特番の時間は極めて限られている。番組担当者は、国内外からの膨大な情報を前にしてどれにどの程度の優先権を与えるかを決めて番組を組むのであろう。そのとき彼らをして右に挙げたような三件を「今日もこれを取り上げよう」「今日ももう少しこれで」というように未練がましく選ばせた心意とは、いったいなんだろうか。
一言で言えば、日本という閉ざされた圏域に住む大衆の、きわめて情緒的な関心へのポピュリズム的な迎合の意識と、それと裏腹の関係にある、理性的な公平感覚の欠如である。
これらの報道に過大な時間を費やしている間にも、世界はいうに及ばず、日本国内でも、それらに負けず劣らず重大な案件がわんさかと犇いている。政治、経済、科学技術、安全保障、海外事情その他。ひとつの事件の情緒的価値のみを重んじて必要以上に長い時間をそれに振り当てることは、そのぶんだけ他の情報を伝えないことを意味する。
ちなみにほんの時折CNNなどを覗いてみると、日本の報道機関が伝えていない情報がいかに多いかに気づかされる。番組担当者は、ポピュリズム的・情緒的な情報選択の基準を根本から見直してほしい。これは思想の根幹にかかわる問題である。
小浜さんが開いていらっしゃる会に関心がありましたので、お言葉に従い、数日前に、指定のメールアドレスに空メールを送信させて頂きました。ヤフーメールを用いて2回です。「送信に失敗した」といった知らせはこちらではないのですが、届いているかどうか少し心配でしたので、まずこの旨について書きこませて頂こうと思いました。
報道に対する今回の批評を読んで僕が思い出したのは、以前ネット上で見つけた、「チャンネルによって番組の系統を区別してはどうか」といった小浜さんのアイデアです。もし僕の記憶違いだったら申し訳ないのですが、確か、それぞれのチャンネルに「スポーツ」「自然災害」「政治」等といったジャンルを一つずつ割り当て、24時間そのことばかり放送するのが良策ではないか、といった論であったと想起しています。この批評は、以前「小浜逸郎ライブラリ」等と検索すれば現れていたもののはずで、ブックマークに登録してもいたのですが、いつの間にかページが消去されてしまっているようで、現在確認・再読できないのが残念です。
小浜さんのテレビメディアに対する批判には納得するばかりです。
「報道機関が国民へ情報を伝える」といった活動自体が、僕からすると、言い方がたいへん難しいのですが、「実感が湧かない」といった感じです。「信用していない」と言うような強い拒否ではありませんが、あやふやな印象を持ちます。小浜さんがおっしゃっている通り、伝達の時間が有限であるということは、すなわち、何かを報道する代わりに何かを報道していないというわけで、情報の送り手の価値基準を、僕たちは気にしなくてはならないと考えます。
大学生になってからしばしば思うのですが、「やっぱり、結局テレビ番組というのはエンターテインメントに過ぎないのかな?」というのが僕の感覚です。僕はお笑い芸人が馬鹿なことをしているのを見るのがそれなりに好きなのですが、テレビの本分は、じつはこういった類のものなのかな、と頻繁に思うのです。真面目ではなくて不真面目という前提です。いろいろなニュース番組を含めて、どれも人を魅せるための映像作品という捉えです。
そして真面目なのが、インターネットだという認識です。「情報を得よう」という意欲がある限りは、まずはネットを使うしかないと思います。大学に入学するときに、テレビではなくてノートパソコンを手に入れることができて、本当によかったと思っています。
テレビは不真面目でネットは真面目だという二項の立て方は乱暴でしょうが、現在の僕の感じ方をざっくり言うとそうなるのかな、と考えるのです。
「情報を伝える」といった抽象的な行為をあてはめる具体について、自分が真っ先に思い浮かべるのが、「大人から子どもへ」だと言えます。「報道機関から国民へ」は、まだ、自分にとって最高に切迫した問題だという感じがしないのです。ですから、「報道機関は国民にちゃんと情報を与えて!」といった気持ちよりも、「大人は子どもにちゃんと情報を与えて!」といった気持ちが大きいのです。騙さないでほしい、誠実でいてほしい、といったような……。
このブログにコメントする常連となるつもりはございませんし、むしろ十分な能力を備えないまま書きこむことにたいへん抵抗を覚えるのですが、メールの件をお伝えしたいという気持ちもあり、今回2度目の投稿をさせて頂きました。
先ほど会のご案内をお送りしました。
テレビ=不真面目、ネット=真面目、という分類は、いかにも若い世代らしく、面白く感じました。
たしかに、本気で情報を得ようとすると、ネットに頼るのがいちばんですね。
ただ、少なくともNHKは公共放送の建前を取っていますから、真面目の部分がなくては困りますね。国民の多くの部分が大きな影響をこうむります。
また、ネット情報にも不真面目なもの(過激に感情的なもの)がごまんとあるようです。こちらにも気をつけた方がいいでしょうね。
ではまた。