小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

幸福の科学大学不認可問題(SSKシリーズ18)

2015年02月11日 18時38分15秒 | エッセイ
幸福の科学大学不認可問題



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

2015年1月発表
 私のもとに「ザ・リバティ」という月刊誌が送り届けられます。版元は幸福の科学出版。以前一度だけインタビューに応じたことがあるからでしょう。この雑誌、言うまでもなく宗教団体が発行しているものですが、「霊言」とか「誰それの守護霊」といったキーワードにウサン臭さを感じなければ、けっこう知的水準が高く、現代の国際情勢、政治経済問題などに関してなかなか的確な分析と判断が書かれていることが確認されます。
 ところで2014年10月、文部科学省は2015年4月開学を目指して設置申請していた幸福の科学大学に対して不認可の決定を下しました。校舎も8割以上出来上がっており、入学希望者も相当数いたそうです。
 不認可の理由は二つ。一つは大川隆法氏の著作に霊言を科学的根拠のあるものとして扱う記述があり、これを「創立者の精神」として必修科目で扱うことは、科学的方法の基本である実証可能性や反証可能性に抵触する疑いがある。もう一つは、認可の判断に当たって幸福の科学学園側が下村文科相の守護霊の霊言の要約を送付するなど、心的な圧力をかけた事実がある。
 後者については、事実関係がわからないので、ここでは述べません。前者ですが、この理由付けは憲法で保障された信教の自由、学問の自由に抵触します。もちろん公共性を毀損する活動の自由は許されていませんが、これまで幸福の科学が特段そのような活動を行なった形跡はなく、またこれから大学設置基準に則って宗教教育を穏やかに行うことがそれに値するとも思えません。
 私はけっして特定の宗教団体を擁護する意図からこんなことを言っているのではありません。ただ一般的に、法治国家のルールを遵守して宗教教育を行おうとする試みを国家が阻止するという行為は許されないと思うのです。
 また、実証可能性は自然科学に要求される条件であって、反証可能性のほうは、自然科学の必要条件としては疑問の余地が大きい。逆に人文系の学問では反証可能性こそが学問の自由を保障するといってもよく、幸福の科学大学内で教えられた「霊言」などの教義は、自由主義国家では、やろうと思えばいくらでも反証できるはずです。文科省の不認可理由は、自然科学と科学一般とを混同する誤りに陥っています。ましてや宗教がもともと非合理な本質を持つことを、文科省がまさか知らないわけではありますまい。
 新興宗教である天理教も創価学会も大学経営を公認されています。私は詳しく知りませんが、これらの学内では、それぞれの教義が、単に実証科学的に相対化されて捉えられるのではなく、信仰を深めさせるために「無条件に正しいもの」として教えられていることでしょう。より新しい宗教という点を除けば、幸福の科学だけを特別視する理由は見当たりません。
思うに、オウム事件以来、新宗教を新宗教であるというだけの理由で忌避・排斥する空気が濃厚なために、文科省は、もし当大学の教育が社会秩序を脅かす事態を起こしたら、という恐れと責任逃れの意識に支配されているのでしょう。気持ちはわかりますが、やはり法治国家の原則を曲げるべきではないでしょう。


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7 コメント

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記事の誤りについて (常時 学)
2015-03-03 10:46:13
(第6段落について)「反証可能性」を有するのが科学なのであり(ちなみに、ポパーは科学内での区別立てはしていません)、これに対して宗教は反証不能だから非科学であるとされるのです。たとえば、「気体というものは圧力を加えると収縮する」という普遍命題は常に反証可能性に開かれていますが、「宇宙は6千年前に神によって創造された」という信仰は反証が不能です。ですから、「反証可能性のほうは、自然科学の必要条件としては疑問の余地が大きい。… 幸福の科学大学内で教えられた『霊言』などの教義は、自由主義国家では、やろうと思えばいくらでも反証できる」という見解は「反証可能性」のそもそもの語義を理解していないが故の誤りです。また、憲法上の「学問の自由」は大学設立の自由ではありませんし(「表現の自由」が放送局設立の自由ではないのと同じこと)、幸福の科学の皆さんは自らの大学を持てないことで「信教の自由」を侵害されてもいません。
本当に、大学での勉強は大切ですね。
常時さんへ質問 (ラブラブ)
2015-03-04 10:29:07
常時さんの言うことはだいたいわかりますが、例として挙げられた「宇宙は6千年前に神によって創造された」というのはいくらでも反証可能で、小浜氏もそういうことを言っているのではないですか?
ラブラブさんへ (常時 学)
2015-03-04 22:28:13
さすがはラブラブさん、鋭いところに気がつきました。
 反証可能性に開かれている科学とは簡単に言って「『ああ言えばこう言う』を許さない学問」ということです。はじめの例にあげた「気体の性質」については圧力に抗う気体が出てくればそれで終わりですが(これが科学の進歩です)、「宇宙は6千年前に神によって創造された」という信仰は、考古学や古生物学が示す(反対の)科学的証拠を示されてもそれに対して簡単に言い返すことができるのです。私が好きなのは、「それらのデータは神が人間の信仰心を試すためにわざと配置されたのだ」というものです。そしてこの神のテストに通らなかった者どもがどうなるかは、『ヨハネ黙示録』に詳しく書かれています。
 つまり文科省は、〈この団体は反証可能性のない言説を根本に置く、したがって科学的営みを旨とする大学として認める訳にはいかない〉と、それとしてもっともな判断をしたということです(断っておきますが常時は擬似憲法論ではないまっとうな理由で幸福の科学の大学は開かれるべきだと思っています)。ここでの論点は、文科省は「反証可能性」の意味を正しく用い、このコラムでは理解できていないということでした。
 ちなみに、憲法学者の宮澤俊義はこの「科学」認識を自らの「八月革命説」に(明言はしていませんが)援用し、この自説こそ憲法の科学である、と宣言したことがあります(『憲法の原理』という古い本に入っています)。これに対して早稲田大学の長谷部恭男先生(実名出していいのかな?)は、科学に要求される「反証可能性」概念を丁寧に検証し、この説の科学性を切って捨てました(但し有効性そのものは否定されていません)。長谷部先生はその業績の中で少なくない宮澤批判をなさっていますが、たとえば宮澤の国民代表概念に対してはドイツ公法学のパウル・ラーバントの浩瀚な原典にあたりながら論述を進めるなど、ウルトラ実証的な努力をされています。私たちに真似のできることではありませんが、少なくとも憲法を論じようとするならこういうことは知っておくべきでしょう。ちなみに私、宮澤の(学問ではない)人格批判を読まされたことがあるのですが、こんなことに付き合っていたらせっかくの学問が、たとえば相手の婚姻外異性関係とか、くだらない駄話に堕してしまうでしょう。
 ということで、ラブラブさんの疑問には、「宗教には反証可能性がない(だから素晴らしい)」と答えておきましょう。
再質問 (ラブラブ)
2015-03-05 10:24:06
常時さんの言うとおり「宗教には反証可能性がない」のだとすると天理教や創価学会も同様のはずであって、幸福の科学だけが大学を持てないのは不平等ではないですか? 小浜氏も指摘していますが。
ラブラブさんへ② (常時 学)
2015-03-05 14:15:23
ラブラブさんは文筆家ではなく一般の給与労働者ですから問題はありませんが、このコラムと同じ誤りを犯しています。
 順を追って説明しましょう。まず押さえる必要があるのは、文科省は、問題の認可に関して複数の宗教法人間の価値判断を行っているのではない、ということです。IT企業が申し込もうが、学者の有志が希望しようが、そして宗教法人が申請しようが、文科省はあらかじめ定められた制度にしたがって設置認可の可否を判断するのみです。ですから宗教法人という集合を勝手に当て嵌めてその中での不平等を論ってみても、文科省には何の話だか分からないでしょう。これに対してたとえば税法の扱いで、A宗教法人には収益非課税の扱いがなされB宗教法人には適用されない、という事案であれば、ラブラブさんとこのコラムの言っていることも有効となるでしょう。
 次に、大学の設置認可は文部科学大臣の裁量行為である、ということです。裁量というのは長谷部恭男先生の定義では〈その当否を法的に判断する物差しが存在しない、国家機関の行為〉ということで、裁量権者の判断が広く認められます。もちろんその踰越、乱用を主張するのは勝手ですが、このケースでは抗告訴訟に持ち込んでもまず勝ち目はありません。何年か前の田中文科相の迷走は(あそこまでやれるんだという意味で)このことを教えています。ですからこの件でも、文科省(つまり文科相)は天理教や創価学会の申請は大学設置基準を満たしていると裁量権に基づいて判断し、幸福の科学に関してはそうではなかった、というそれだけのことです。このことは、宗教と無関係の申請者にもそのまま当てはまりますし、強いて言えば、これが平等ということでしょう。ここの主筆は思想・哲学がご専門のようですので、アリストテレスから来た「平均的正義/配分的正義」の概念などを勉強すると良いと思います。
再々質問 (ラブラブ)
2015-03-05 16:50:25
うーん、わかったようなわからないような…。常時さんは小浜氏の主張には賛成なのですか?
ラブラブさんへ③ (常時 学)
2015-03-05 21:28:07
うーん、賛否を問われてもこう間違いが多いと…。
 これまでの話を整理しますと、このコラムでは ①科学理論史の常識語たる「反証可能性」の意味が分かっておらず、②憲法上の「信教の自由」「学問の自由」の理解がトンデモに近い、ということは間違いなく言えるのですが、実はこれ以外にもいくつかの誤りがあります。

1.第4段落「もちろん公共性を毀損する活動の自由は許されていませんが、…」
 この文は「この〔文科省の〕理由付けは憲法で保障された信教の自由、学問の自由に抵触します」という文章に続いていますから、人権の制約原理について述べていることになります。しかし、人権法益の比較衡量対象は「公共の福祉」であり「公共性(の毀損)」などという意味不明の語はまっとうな憲法書には金輪際登場しません。市井の皆さんが「どっちでも同じじゃないか」と考えるのは良いのですが、文筆家にはまず対象への知識が要求されます。ちなみに自民党はこの「公共の福祉」の五語を(良かれ悪しかれ)とても真剣に考え、これを「公益及び公の秩序」に変更する改憲案(12,13,21,29条)まで出しています。
2.第5段落「法治国家のルールを遵守して宗教教育を行おうとする試みを…」
 これは幸福の科学が法治国家のルールを遵守するという文脈になっていますが、噴飯ものです。なぜなら法治国家のルールとは国家権力の発動と限界を定めるものであり、国民の側から権力に対して「遵守」を要求するものだからです。これでは関係があべこべです。「法治国家において民主的に定められた議会制定法のルールを守って…」と言い換えれば通じますが、これって単に「法にしたがって…」で良いですよね。
3.最終段落「新興宗教である天理教も創価学会も…」「オウム事件以来、新宗教を新宗教であるというだけの理由で…」
 経緯としては「新興宗教」という語に侮蔑的な響きがあるということで、これが「新宗教」に変更されました。ですから両者は同じ意味です。もちろん天理教も創価学会も新宗教です。オウムなどの宗派(幸福の科学も含む)は新宗教と差別化する際には特に「新新宗教」と呼ばれます。上の引用は新興宗教と新宗教を別義に使用し、なおかつ新新宗教の語を知らない、という2点で間違っています。

 前にも書きましたが、常時は幸福の科学の大学は開かれるべきだと思っています。宗教は普遍を求めるもので、学問もその本性として普遍を希求すると信じたい。この接点から国民一般を納得させる大学の論理を、東大法学部出身の教祖を頂く幸福の科学なら構築できるでしょう。そうすれば、それにしたがって文科省も裁量の幅を緩やかに用いざるを得ません。
 ラブラブさん、これでよろしいですか?
 この主筆の関連サイトは見たことがないのですが、短い文章にこれだけの間違いがあるのなら、他の部分が無傷とも思えません。常時はヒマですので、おりを見て書き込みを続けようと思います。gooブログさん、ありがとうございます。

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