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Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

浦和を救ったVゴール(土橋正樹)

2015-02-06 22:22:33 | 浦和レッズ
オフネタで、元浦和ボランチ、土橋正樹さん(現浦和ジュニアユースコーチ)の思い出です。土橋は、大卒で1995年、当時のオジェック監督時代の浦和に新人として入団しました。オジェック監督が、「前年最下位だから厳しくしなければならなかった。」と語ったほどのチームだったので、世代交代は当然の成り行きで、新人の土橋にも出番が与えられました。

タイプ的には、読みとカバーリングのボランチで、スピードがない分を頭の良さでカバーできる選手でした。当時の浦和のボランチは、堀(現浦和トップチームコーチ)、広瀬と土橋の3人で争っていました。身体能力の堀、テクニックの広瀬と土橋は違う特徴を持っていたのが、出番を得た大きな理由でしょう。

新人王の候補とも思いましたが、Jリーグの新人王は選手の投票なので、知名度の低い土橋には不利で、川口能活がこの年の新人王でした。その後はオジェック、ケッペル両監督に使われましたが、土橋にとって逆風になったのは、原監督になって左SBに回されたことです。正直、スピードに難がある土橋は、相手のスピード型アタッカーに1対1で勝負されると苦しく、左SBの専門家の城定にポジションを奪われてしまいました。

しかし、原監督も土橋のことは信頼していたようで、土橋はCBやボランチなどいろんなポジションができる便利屋として、常にベンチ入りは堅い起用法をされました。彼の思い出の中で、最大なのは2000年のJ2時代、サガン鳥栖戦で決めた昇格を決めたVゴールです。

当時、土橋はベンチ入りの5人の中で唯一の守備的選手でした。攻撃に出なければいけない場面を想定して、3人FWを入れたので、どこでもできる土橋を、守備的選手の補充に使おうとするプランでした。この試合では室井が退場していたので、土橋が急遽左SBに入り、混乱していた浦和のDFラインが落ち着きました。

その土橋は、Vゴール勝ちでしか昇格できない、しかも数的不利という厳しい状態で、その試合を終わらせてくれました。阿部敏之のFKが壁に当たり、こぼれたボールからでした。このボールが鳥栖の選手に拾われるとまずいと、正直びびりましたが、土橋が拾ったので大丈夫だ、後は外してもいいからシュートで流れを切ってくれと願ったロングシュートが、奇跡的に入って、浦和はJ1に戻ることができました。今でも、駒場に行くと当時のことを思い出すことがあります。
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黒星最多記録も努力の証(寺尾)

2015-02-06 19:54:06 | 他スポーツ
国技館で写真を撮れた昔の力士はネタにしたいとずっと思っていましたが、アジアカップやレッズフェスタのネタを書いていて遅くなりました。今回は元関脇寺尾の錣山親方です。若島津の記事でもワースト記録を出しましたが、寺尾も一つワースト記録を持っていて、通算最多黒星記録です。

もちろん寺尾が弱かったゆえの記録ではなく、必然的に黒星が多くなる前頭上位を何度も経験し、39歳まで取ったからこその記録です。彼は新入幕当時のナンバーのインタビューで、「自分は主役にはなれないから、最高の脇役になりたい。」と語っていました。

それはかなったと思います。今の時代ならイケメン力士と言われたであろう甘いマスクと、上位相手に果敢に突っ張っていく敢闘精神で、現役時代は人気力士でした。アメリカ巡業では、その突っ張りを評して「typhoon(台風)」という異名をもらっていました。

また、寺尾の記録には、のちに土佐ノ海に塗り替えられましたが、最高齢入幕記録(38歳)もあります。ベテランになってからは、初場所に毎回聞かれる今年の抱負に「来年の抱負を言うことです。」と現役続行にこだわり、十両に落ちても現役を続けました。

寺尾の思い出は、当時の最強力士、貴乃花との相撲が最も大きいです。当時の貴乃花は四つになったら絶対に勝てないほどの安定感を誇っていましたが、突っ張りの寺尾には2度ほど金星を配給しています。思い切りよく突っ張った寺尾が、引くと貴乃花が仕切り線の白線で滑ってバランスを崩した一番は今でも思い出せます。

また、千代の富士に食らった「吊り落とし」も覚えています。立ち合いから、この大横綱に果敢に突っ張った寺尾ですが、千代の富士に後ろに回られて、最後は持ち上げられて土俵に叩きつけられた一番でした。あの千代の富士が本気で怒ったんだというエピソードです。

のちに花田兄弟が兄弟同時横綱という、更新は不可能に近い記録を立てましたが、寺尾も兄逆鉾と兄弟同時関脇を達成しています。父が元関脇鶴ヶ嶺で、元十両鶴嶺山の長男と逆鉾の次男と井筒三兄弟と言われた相撲一家に育ちました。逆鉾は寺尾と同時関脇を達成してから、肩を痛めて急速に衰えてしまいましたが、寺尾はそれから長く活躍しました。思い出に残る力士の一人です。
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