
オフネタで、元浦和ボランチ、土橋正樹さん(現浦和ジュニアユースコーチ)の思い出です。土橋は、大卒で1995年、当時のオジェック監督時代の浦和に新人として入団しました。オジェック監督が、「前年最下位だから厳しくしなければならなかった。」と語ったほどのチームだったので、世代交代は当然の成り行きで、新人の土橋にも出番が与えられました。
タイプ的には、読みとカバーリングのボランチで、スピードがない分を頭の良さでカバーできる選手でした。当時の浦和のボランチは、堀(現浦和トップチームコーチ)、広瀬と土橋の3人で争っていました。身体能力の堀、テクニックの広瀬と土橋は違う特徴を持っていたのが、出番を得た大きな理由でしょう。
新人王の候補とも思いましたが、Jリーグの新人王は選手の投票なので、知名度の低い土橋には不利で、川口能活がこの年の新人王でした。その後はオジェック、ケッペル両監督に使われましたが、土橋にとって逆風になったのは、原監督になって左SBに回されたことです。正直、スピードに難がある土橋は、相手のスピード型アタッカーに1対1で勝負されると苦しく、左SBの専門家の城定にポジションを奪われてしまいました。
しかし、原監督も土橋のことは信頼していたようで、土橋はCBやボランチなどいろんなポジションができる便利屋として、常にベンチ入りは堅い起用法をされました。彼の思い出の中で、最大なのは2000年のJ2時代、サガン鳥栖戦で決めた昇格を決めたVゴールです。
当時、土橋はベンチ入りの5人の中で唯一の守備的選手でした。攻撃に出なければいけない場面を想定して、3人FWを入れたので、どこでもできる土橋を、守備的選手の補充に使おうとするプランでした。この試合では室井が退場していたので、土橋が急遽左SBに入り、混乱していた浦和のDFラインが落ち着きました。
その土橋は、Vゴール勝ちでしか昇格できない、しかも数的不利という厳しい状態で、その試合を終わらせてくれました。阿部敏之のFKが壁に当たり、こぼれたボールからでした。このボールが鳥栖の選手に拾われるとまずいと、正直びびりましたが、土橋が拾ったので大丈夫だ、後は外してもいいからシュートで流れを切ってくれと願ったロングシュートが、奇跡的に入って、浦和はJ1に戻ることができました。今でも、駒場に行くと当時のことを思い出すことがあります。
タイプ的には、読みとカバーリングのボランチで、スピードがない分を頭の良さでカバーできる選手でした。当時の浦和のボランチは、堀(現浦和トップチームコーチ)、広瀬と土橋の3人で争っていました。身体能力の堀、テクニックの広瀬と土橋は違う特徴を持っていたのが、出番を得た大きな理由でしょう。
新人王の候補とも思いましたが、Jリーグの新人王は選手の投票なので、知名度の低い土橋には不利で、川口能活がこの年の新人王でした。その後はオジェック、ケッペル両監督に使われましたが、土橋にとって逆風になったのは、原監督になって左SBに回されたことです。正直、スピードに難がある土橋は、相手のスピード型アタッカーに1対1で勝負されると苦しく、左SBの専門家の城定にポジションを奪われてしまいました。
しかし、原監督も土橋のことは信頼していたようで、土橋はCBやボランチなどいろんなポジションができる便利屋として、常にベンチ入りは堅い起用法をされました。彼の思い出の中で、最大なのは2000年のJ2時代、サガン鳥栖戦で決めた昇格を決めたVゴールです。
当時、土橋はベンチ入りの5人の中で唯一の守備的選手でした。攻撃に出なければいけない場面を想定して、3人FWを入れたので、どこでもできる土橋を、守備的選手の補充に使おうとするプランでした。この試合では室井が退場していたので、土橋が急遽左SBに入り、混乱していた浦和のDFラインが落ち着きました。
その土橋は、Vゴール勝ちでしか昇格できない、しかも数的不利という厳しい状態で、その試合を終わらせてくれました。阿部敏之のFKが壁に当たり、こぼれたボールからでした。このボールが鳥栖の選手に拾われるとまずいと、正直びびりましたが、土橋が拾ったので大丈夫だ、後は外してもいいからシュートで流れを切ってくれと願ったロングシュートが、奇跡的に入って、浦和はJ1に戻ることができました。今でも、駒場に行くと当時のことを思い出すことがあります。
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