内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

学部三年生小論文口頭試問、あるいは学問的問題意識の覚醒について

2018-04-20 22:59:51 | 講義の余白から

 今日は、学長室がある建物を除いて、すべての大学の建物の封鎖が解除された。しかし、どの建物へのアクセスも一ヶ所に限定され、その入口には警備員が立っており、身分証明書を提示しないと中には入れなかった。しかも、入れる時間帯は午前8時から11時半までに限られていた。
 午前10時に、私が指導教官である学部3年生3人と普段授業を行なっている建物の前で待ち合わせ。その建物内の空いている教室で、彼らが先週提出した小論文についての個別口頭試問を行うためである。それぞれの学生に対して、10分間のプレゼンと10分間の質疑応答を行なった。
 テーマは、それぞれ、文学作品の翻訳可能性(テオフィル・ゴーティエ『 La Morte amoureuse 死霊の恋』、ラフカディオ・ハーンによるその英訳『 Clarimonde クラリモンド』、芥川龍之介によるハーン訳からの重訳『クラリモンド』の比較を通じて)、落語のユーモアの普遍性と固有性(欧米のワンマン・ショーとの比較研究)、江戸時代から明治・大正・昭和にかけての美人画の変遷(その女性の表象史を通じて見た社会・政治・文化・技術の諸領域における日本の近代化とその多様性)。
 先月から今月にかけて、私の指導の下、彼らはこれらの主題についてA4サイズ10頁ほど小論文を作成した。いずれも論文の構成はまだまだ稚拙であったが、いずれも、修論さらには博論にまで発展・深化さうる問題性を把握できていたという点で、十分合格点を与えられる内容であった。
 面白いのは、普段の授業の成績と学問的問題把握のセンスとは別物だということである。例えば、美人画をテーマに選んだ女子学生などは、普段のテストの成績はまったく振るわない。二年・三年どちらも、日本式に言えば、「裏表」をやっている。ところが、この小論文には、これまで見せたことのない積極的な姿勢で取り組み、私が紹介したかなり浩瀚な文献をちゃんと読み込み、今後の発展・深化が期待できるいい論文を書いてきた。
 大学入学時に美術史専攻か日本学専攻かで迷い、その迷いを引きずったまま日本学科で自分のやりたいことが見つけられないままにここまで来てしまったが、ずっと気になっていた美人画を今回小論文のテーマに選んで、自分がやりたいことが初めて見つかったと、授業中には見せたことのない生き生きとした表情で、それこそ目を輝かせながら話してくれた。
 学部卒業後、彼らがどんな進路を選ぶのか、私は知らない。しかし、今回の小論文の作成を通じて、長い時間をかけて探求するに値する「鉱脈」を彼らがそれぞれ掘り当てたことだけは確かである。いささかなりともその手助けができたことを嬉しく思っている。













散りぎわのマグノリア、そして「もののあはれ」

2018-04-19 12:40:45 | 講義の余白から

 今日の記事の右上に貼り付けた写真は、昨日、大学付属植物園で撮った、散りぎわのマグノリア。輝きと張りを失いはじめた薄紫の花弁と陽光に映える若葉の新緑とのコントラストが美しくもちょっと切ない。
 昨日は、大学封鎖により休講。今日は、全国レベルでの改革反対集会のために休講。結局、今週私は授業なし。このような「公的な」理由での休講の場合、補講の義務はない。それに、封鎖により延期された試験の教室確保が優先されるから、同時期に補講のために空いている教室を見つけることは事実上難しい。結果として、先週も休講にした学部三年の近世文学史は、予定回数より二回少なくなってしまう。
 毎年、学部最終学年最終学期の最後の四回の講義は、それぞれ、本居宣長の文学批評原理論、新井白石の近代的学問論、伊藤仁斎の生命論的倫理学、荻生徂徠の知の考古学について話すことにしているのだが、今年は、封鎖のあおりで、内容の大幅な変更・縮小を強いられる。私としては残念至極であるが、学生たちにとっては、それだけ試験準備の荷が軽くなるから、喜んでいるかもしれない。
 しかし、自分で言うのもなんだが、私の講義の試験問題は、結構面白いんである。ほとんどの学生は、それを面白がって、真剣に準備し、なかなか読みごたえのある答案を書いてくれる。
 例えば、近世文学史の中間試験の問題は、次のような課題であった。

 西鶴と芭蕉を招いて「文学とは何か」というテーマを巡る架空の討論を準備・開催せよ。そして、その討論の進行役を務めよ。討論の年月・場所は、同時代人である両者の伝記的事実およびそれに関連する歴史的所与からしてあり得たかも知れない設定でなければならない。討論を始めるにあたって、開催者として自己紹介し、この討論を準備・開催した動機を述べよ。論述は、司会進行役として討論後にまとめた記録という形式でもいいし、ライブ形式でもよい。司会進行役として、まず、討論のテーマ・論点を明確に提示し、両者に対してそれぞれに的確な問いを順次投げかけ、西鶴と芭蕉とがそれぞれ自分の文学観を打ち出しやすいように二人の討論を仕切りなさい。

 全部で二十二枚の答案中、互いに似通った答案はまったくなかった。ほぼ全員、講義内容を踏まえつつ、授業中には触れなかった歴史的事実までそれぞれによく調べ、それらに依拠しつつ、自らの思考力と想像力を動員して、「文学とは何か」という問いと向き合ってくれた。司会者として、架空の人物を避け、蕉門十哲のうちの一人を選んだ答案が六枚あった。それぞれ選んだ門人は異なっていたが、いずれも見事な答案であった。その他にもこちらをうならせるような洞察を示してくれた答案もいくつかあった。これらの答案を読むことは、たとえそれが採点のためであっても、愉しくさえある。
 彼らにとって学部で受ける最後の試験の一つになる近代文学史の期末試験は、5月9日に予定されている。試験問題は、遅くとも来週水曜日までには予告するつもりでいる。春休み中にしっかり準備しておいてほしいからだ。しかし、今回は課題に使えるこちらの「持ち駒」が少ない。
 おそらく、本居宣長の『紫文要領』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』『うひ山ぶみ』の原文の抜粋を春休み中に読んでおくように指示し、休み明けの最終講義のときにそれらについての注釈を示し、その上で、現代の研究者・思想家・批評家たちの「もののあはれ」論を参考資料として与え、文学の批評原理としての「もののあはれ」について論じさせるような課題になるだろう。
 こんな試験問題を考えるのも、私にとっては、教師(狂師と同音異義、いや、同音同義か)としての愉しみの一つである。












いつまで続くの、大学封鎖

2018-04-18 20:57:44 | 雑感

 結局、今日も一日、大学の主要な建物は封鎖されたままだった。午前8時半に大学からその旨連絡がメールで入った。封鎖されている建物のリストの中に、私が担当している近世文学史が行われる建物も入っている。これじゃあ、今日も授業はできないなぁ、これで2週続けて休講にせざるをえないだろう。そう思いつつも、先週の轍を踏まないために、ぎりぎりまで大学からのメールを待った。しかし、なんの連絡もなし。
 授業開始2時間前の午後2時になって、その授業を受けている学生の一人から、「先生、今日の授業あるんですか。鉄道ストもあるし、クラスの皆、どうすればいいか、わからないで困っています」と問い合わせメールが入る。これはもうしかたがない。「わかった。今日も休講にするから、すぐにクラスの皆に伝えて」と返事し、その直後に、クラスのメーリングリストで同内容のメールを送信。
 それでも、やはりこの眼で大学の様子を確かめようと、ほとんど初夏のような陽気の中、自転車でキャンパスに向かった。
 春陽煌めく青空の下、キャンパスの芝生には、寝そべってダベっているペア、胡座をかいて車座になって楽しげにおしゃべりしているグループ、眩しさをサングラスで避けながら個々それぞれにパソコンをいじっている学生たちが、まるで現に進行中の反対闘争などどこ吹く風といった風情で、楽園的な気分を醸し出している一方、閉鎖された建物の前には、民間の警備員たちがものものしい出立ちで緊張感を漲らせている。
 そんな奇妙なコントラストに彩られたキャンパスを自転車でぐるっとひと回りして、主要な建物が閉鎖されていることを確認してから、帰路につく。
 今日の記事の右上に貼り付けた写真は、封鎖された大学宮殿正面玄関。横断幕には、「選抜反対!」「君の学部を封鎖せよ!」とある。
 改革案を集団闘争で潰すという戦術は、近代フランスのお家芸である。現況を相撲に喩えて言えば、アッという間に土俵際まで追い詰められた学生・教職員組合側がかろうじて俵をつたい、差し手を巻きかえ、体制側を土俵中央に押し戻しかけようとしているといったところか。今週末の春のヴァカンスの水入り(そう、何があろうとヴァカンスはあるのである)前が勝負どころであろう。
 私はといえば、審判員の脇の砂かぶり席で固唾を飲んで勝負の行方を追いながら、自分に課せられた仕事は、これを「明鏡止水」の心境で「粛々と」行なっているんである。













電子化された願書から志願者たちの肉声を聴き取る

2018-04-17 21:01:28 | 雑感

 つい先日のことですが、「あんまり難しくてわけのわからん記事だと、読まなくなっちゃうから、もっと親しみやすいストラスブール便り的なもの書いてほしいなあ」といったような要望を間接的に身内から聞きました。
 お気持ちはわかります。でも、私は、基本、このブログは自分のために書いております。もちろん、そんな拙ブログの記事を読んでくださる方たちがいらっしゃるのは嬉しい。最近も、学生の一人から、「先生、毎日読んでます」と聞いて、それはとても嬉しかった。
 しかし、読んでくださる方たちに受けの良い記事を書くことがこのブログの第一義的な目的ではありません。かと言って、何を書こうが俺の勝手だろう、という傲岸な気持ちでいるわけでもないのです。時には、本当に、読んでくださる方々にわかっていただきたいという切なる思いをもって書くこともあるのです。
 さて、前置きが長くなりましたが、ここのところ続けて話題にしている入学志願者書類選考の話を今日も続けさせていただきます。
 あっ、その前に一言。体調の方はほぼよくなりました。ご心配いただいた方々にここで心より感謝申し上げます。
 今日は、朝から夕方まで、216通の願書に目を通し、機械による順位計算には反映されていない情報の中から、日本学科への志願者としての適性を判定する要素を抽出し、それをExcelで一覧表にするという作業に明け暮れました。先ほどその表を同僚たちに送信しました。明日は授業があるのでこの作業を休みますが、木曜日に再開し、その日のうちに終わらせます。
 今日、この作業をしていて、志願者たちについていろいろなことがわかって、面白かった。
 願書は、すべて電子化されており、それをコンピューターの画面で見続けるので、眼にはいいことありません。でも、その画一的なフォーマットの物言わぬ冷たい願書の中の志望動機書を読んでいると、すべての願書からというわけではありませが、志願者たちの肉声が聞こえてくる思いがすることがあります。それが聞こえてくると、こちらも応答したくなります。
 「ああ、それで日本学科を志望するっていうわけなんだね。日本のことを好きでいてくれる気持ちは嬉しいけれど、正直に言うと、やめたほうがいいと思うよ。就職ないから。もっと将来性のある学科に行ったほうがいいと思うけど」と、もし本人に会って話すことができるのなら直接言いたい気持ちなった願書が少なからずありました。
 それらの志願者の成績は、優秀あるいはとても優秀なのです。日本に何らかの憧れを持っているのです。でも、これまで、どれだけの学生たちがそれが幻想に過ぎなかったことを大学に入ってから気づかされ、失望し、将来について生き迷うことになったことか。
 昨年9月の今年度はじめに、入学したばかりの一年生に向かって、あらまし次のようなことを言いました。
 「日本学科を卒業しても就職はありません。ちゃんとした就職がしたいのなら、必ず他の勉強をしてください。日本のことをずっと好きでいたいのなら、他の学科でしっかり学問の方法論を身につけてほしいのです。「日本学」などという学問は存在しないのですから。」
 志願者諸君よ、私が何よりも望んでいることは、君たちが君たち自身の将来のためにより良き選択をすることなのです。私は選抜などがしたいのではない。できることなら、君たちの進路の選択に少しでも役に立ちたいだけなのです。












封鎖された大学の建物から遠く、自宅で「粛々と」入学願書審査関連の仕事を続ける

2018-04-16 21:03:02 | 雑感

 一昨日土曜日の朝から実は少し咽喉の奥に違和感があった。これは私にとっては典型的な風邪の初期症状だ。さすがにその日日課の水泳は休んで、夕方ちょっと外出した以外は、家で仕事をしていた。
 昨日日曜日は、朝からよく晴れたいい天気。あまり体調は改善していなかったが、大したこともなかろうと高を括ってと、いつものプールに水泳に行った(行くかよ、その体調で、普通)。これがよくなかった(あたりまえざんしょ)。泳ぎ終わって、一旦気分がすっきりしたのはよかったが、自宅に帰ってきて、なんとなく体がだるい。頭も重い。微熱もある(そりゃ、体も怒るでぇ)。それで、結局、日中は寝たり起きたり。仕事はもちろんのこと、気楽な読書さえする気になれず、だらだらと過ごしてしまった。
 これ以上悪化させてはいけないと、早めに夕食を取り、午後10時過ぎには就寝。体がだるく、熟睡はできず、夜中に何度か目が覚めてしまう。再び寝付くこともできず、今朝は五時前に起床。土曜日から取り掛かっている審査関係の仕事を継続する。そのうちに体調が少しずつ上向きになってきているのがわかる。
 大学当局からは、封鎖された建物についての情況とそれに伴う緊急措置についての情報が朝から小刻みにメールで入ってくる。19日木曜日は、全国レベルで改革反対集会が開かれることになり、その日の授業および試験は原則すべて中止あるいは延期するのが望ましいとの知らせが入る。
 その日に予定されていた修士一年の口頭発表の試験は、春休みの後、5月3日の木曜日に延期する旨、学生たちに直ちにメールで連絡。もともとその3日に予定されていた筆記試験を翌週に延期すると同じメールで学生たちに知らせると、学生の一人から「先生、その日は祝日ですよ」とすぐに返事が来る。おお、そうだった、その日は「Ascension キリスト昇天祭」であった。
 日本で教会に通っていた頃、毎日曜日唱えていた「主の祈り」を思い出した。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。


フランスの大学に歴史上初めて全面的に導入される事実上の選抜制度

2018-04-15 18:03:50 | 雑感

 昨日土曜日は、自宅で一日、日本学科入学希望願書の順位づけ作業に明け暮れた。
 ある一定のパラメーターをコンピューターに入力しては順位を計算させ、出力の結果にどう見ても不整合な順位づけがあるのを見つけては、該当する願書の内容を確認して、原因がどこにあるのかを突き止め、それに応じてパラメーターを変更し、新たに順位を出力して、順位の変化を見るという作業を十数回繰り返した。
 この作業過程で、相矛盾する二つの操作を繰り返し行う。一方で、機械に数値を入力して「客観的に」計算させる。他方、その結果を確認する過程で、必要に応じて志願者の高校の各科目の成績を調べ、志望動機書を読み、他の志願者のそれらと比較して、どちらの志願者を上位に置くか「主観的に」判断する。そして、その判断が反映されるように、パラメーターの数値を変更し、機械に「客観的に」計算させる。これら一連の作業を「主観的に」見て整合的な順位づけに落ち着くまで繰り返すわけである。
 夕方、一応その作業を終え、結果を同僚たちに送信し、確認を依頼した。おそらく、これから一ヶ月間、この一連の作業を数回繰り返すことになるだろう。審査委員長である私と審査員である同僚三人とが全員合意に達した順位づけを、この審査のために国家教育省によって今年度初めて開設されたサイト上で5月半ばの締切りまでに確定するまでそれは続く。
 そして、その直後には、「条件付き合格者」を何位からにするか、それらの合格者にどのような補助的カリキュラムを提供するか等々を検討する話し合いが続く。
 これらすべての作業は、フランスの大学では過去にまったく前例がない複雑で神経を使う作業である。もっとも、これには一つ注記が必要である。というのも、書類選考による選抜は、フランスの大学でも、一部ではすでに導入されていた。事実、私自身は、前任校で責任者をしていた学科が途中から選抜システムを導入したので、書類選考の経験がある。4年間、毎年5月半ばに300通以上の願書を5日間で全部読み、自分で作ったExcelの表計算式で順位づけしていた。
 今年、事実上の選抜制度がフランス全大学に史上初めて全面的に導入されるのである。それに最初に携わる「名誉」を与えられことを心から誇りに思う……わけねーだろ!











昨日の日本学科の会議について

2018-04-14 07:43:09 | 雑感

 昨日の記事で説明した大学の現況の中で、昨日の午後4時過ぎから、我が日本学科では、私も含めた専任4人が集まり、395通の完全に電子化された願書の順付について相談する会議が開かれた。この新システム導入の説明会に三回出席し、あらかじめ新システム運用手順を習得していた私が、他の教員たちに、書類審査のために必要な部分に限って、プロジェクターでコンピュータ画面を見せながら、さまざまな機能を説明することから会議は始まった。その後、私があらかじめ仮入力しておいたデータに基づいた仮の順位づけを皆に見せ、どのような問題が具体的に発生しているかを示した。その上で、それらの問題を解決するにはどのような入力データ変更を行うべきかを全員で話し合い、具体的にどう評価基準の入力数値を変更するか、一つ一つ項目ごとに協議し、決定を下していった。
 その過程で、いくつかの願書を抽出して、その内容を全員で検討した。その際、私以外の三人は、まさにフランスで高校教育を受けたわけであるから、私には読み取れない意味を願書から読み取ることができ、それらについて彼らからいろいろと聞くことができた。これは私にとって大変勉強になった。
 一応の入力データの修正案が確定した後、残りの入力作業は私が自宅でして、その結果の出力データを来週開けに他の三人送ることにして、次の議題、つまり、今回の改革案の争点の一つである「条件付き合格」(« Oui si »)の基準をどこに設けるかについての話し合いに移った。これについては、まだあまりにも不明な点・予測困難な要素があり、結論を下すには至らなかった。全員が意見を出し尽くした後、まずは順位づけの確定を来月半ばの締切までに、何回かのトライ・アンド・エラーを繰り返しながら進めつつ、この「条件付き合格」問題についても各自考え続けることを確認して、閉会となった。
 全部で二時間半の会議であった。いずれも優秀で仕事が良くでき協力的な同僚たちのおかげで、とても有意義で中身の濃い話し合いができた。無能な学科長としては彼らに感謝するばかりである。












大学の現況について

2018-04-13 23:59:59 | 雑感

 今日の午後、学長名で全学一斉メールが届いた。
 昨日木曜日の学生総会で、来週一週間、学長室がある建物とそれに面した人文系の教室と学務・教務関係の多くの部署が入っている建物とを完全封鎖することが決議され、大学当局はそれに反対しない、というのがその内容。
 他方、このメールが届く前に、やはり学長名で、改革反対派の学生たちやそれに賛同する教職員組合がその意見を表明する自由を認めるとともに、通常通り学業を続け、試験を受け、単位を取得することを第一に考える学生たちと、授業を行うこと・日常の業務を遂行することを責務と考える教員・職員たちとの意志も尊重されなければならず、事態の打開のために、学生代表たちと対話の場を設けることを学生全員宛に提案するメールも全学一斉メールで届いていた。いささか遅きに失したとはいえ、現状打開に向けて一歩前進とは評価できる。
 封鎖される建物以外は、通常通り使用可能であろうから、影響は限定的である。とはいえ、学部によってはすでに試験期間に入っており、通常の大学運営にさらなる支障が出ることは避けがたい。
 日本学科の教員室にも来週一週間入れなくなる。ただ、通常の教室あるいは別の教室で授業さえできれば、日本学科にとっての影響はさほど大きくはない。同僚の一人は、さっそく別の教室の予約をネット上ですでに済ませていた。
 しかし、同じ建物に入っている教務・学務関係の部署が受ける影響の方は小さいとは言えない。特に来年度に向けての様々な準備作業が遅滞することは、5月以降の仕事量をさらに増大させるから、それでなくても膨大な作業量にみなすでに疲れているのにと、同情を禁じ得ない。












基準とも言えない基準を「基準」として承認するという滑稽のために真剣に議論する私たち、あるいは喜劇としての大学

2018-04-12 23:04:24 | 雑感

 今日は、昨日までの学内の情況とは打って変わって、穏やかな、まるで昨日一昨日にあったことが嘘のように静かなキャンパスで、正午から二時間半に渡って、この春からサバティカルでストラスブールに滞在されている二人の日本人の大学教授に私が担当している修士課程の演習に出席していただき、学生たちの日本語での拙い発表を聴いていただいた。
 学生たちにとっては、とても緊張を強いられる経験であったと思うが、先生方がそれぞれの学生に対して、丁寧にさまざまな質問してくださり、さらには懇切な助言までくださったので、学生たちにとってはとても例外的な貴重な機会であったと思う。
 両先生のご滞在中に、学生たちには、先生方から多くのことを学んでほしいと思っている。私の方であまりお膳立てしすぎても、かえって双方にとって窮屈なことになりかねないので、まずは学生たちから先生方に直接コンタクを取るように促した。私はあくまで仲介役である。
 先生方を学科の同僚に紹介した後、学科の教員全員での会議。議題は、来年度の日本学科全科目の成績判定方法。なんでそんなことが今頃?、と思われるかも知れない。確かに、各科目の成績判定方法なんて、各教員がそれぞれ自分の授業について決めればいいことではないか。私もそう思う。ところが、フランスの大学では、その方法に関して、筆記試験か口頭試問か、試験時間・回数、その他(例えば、レポート)等々、すべての科目について事細かに決めて、それをエクセルで一覧表にし、大学評議会で承認されなくてはならないのだ。こんなことに法律並みの厳密さを求めるバカバカしさよ、嗚呼。
 正直、バカなの? って思わざるをえない話である。学期中に何回試験するか、どんなタイプの試験か、試験時間はどれくらいか、などなど。もちろん原則はあったほうがいい。でも、その原則は尊重しつつ、実際の裁量は現場の各教師に任せたらいいではないか、というのが私たち日本学科の立場である。
 だから、今日の会議では、いかに現場の教師たちが自由に裁量できるような「曖昧な」基準(だったら、そんなのいらないじゃん、などと言わないように。ここは法律文言にはやたらとうるさいおフランスざますよ)にするのかを巡って話し合い、概ね自分たちに都合の良い基準とも言えない基準について合意に達した。その意味で、今日の会議はとても有意義であった。
 その結果を表にしてまとめて評議会に提出するの誰だっけ? あっ、俺だ。ヤベぇ、急がないと。












今日のキャンパスの情況とこれから

2018-04-11 23:59:59 | 雑感

 改革反対派の学生たちによる大学内建物の封鎖は火曜日夜で一応収束したはずだったのに、今朝、一部の学生が昨日までは封鎖の対象ではなかった建物に侵入しようと試みたため、普段人文系の授業が行われているキャンパス内の主要な建物がすべて大学当局によって閉鎖されてしまった。
 午前中に授業を持っている同僚たちから逐次現場からメールで報告を受け、そうなるまでの情況の変化を追尾していた。
 午後二時から学部三年生の授業を持っている同僚に自分の授業を休講にするかどうか、昼過ぎにメールで尋ねたところ、彼はぎりぎりまで待って結局休講にし、その旨学生たちにメールで通知した。その連絡を受け、同じ学部三年生の授業を彼の直後に同じ建物の別の教室で行う私も、学生たちに休講を伝えた。
 ところが、その直後に、キャンパス内の広場で開かれていた学生総会が封鎖中止の決定を下した。すぐに学部長から、閉鎖された建物は午後二時に閉鎖解除になるとの通知が届いた。しかし、時すでに遅し。今さら休講の中止を伝えても、もう学生たちは来ないだろう。それでも、現状について、現場にまだ残っている何人かの学生たちと話せるかも知れないと思い、「もしまだキャンパス内にいるのなら、いつもの時間に教室に来てほしい」と一斉メールを自宅から送信してから、キャンパスに自転車で向かった。
 いささかまだひんやりとした微風が吹き、春陽輝くキャンパス内には、芝生の上に車座になって喋っている学生たちが散見される。数百人の学生たちが参加したという緊迫した空気に包まれた総会の痕跡はもはや残っていなかった。
 教室につくと、いつもは二十人余りの学生が来る教室に、男子学生が一人ポツンと座っていた。私のメールを見て来てくれたのだ。その学生と改革の内容と問題点について二十分ほど話した。彼自身は、むしろ選抜に賛成であった。それは選抜それ自体を肯定するというよりも、現状の入学システムがいわば「籤引き」のように偶然性に左右されており、それよりはましだという。彼と意見を同じくする学生は少なくない。
 いずれにせよ、反対派たちは問題の核心を十分に把握せずに、騒ぎだけを大きくしただけに終わったと言わざるを得ない。教育省および大学当局の立場や対応を支持する気は私には毛頭ない。しかし、入学制度の改革が必要であることは誰もが認めるであろう。
 結局、現に進行中の新システムによる志望者選抜は実行されるであろう。その意味で、もはや後戻りはできない。これから数ヶ月、九月の新学年開始まで、いや、その開始後も、フランスの大学にとって未曾有の膨大な作業に大学教員ならびに職員たちは忙殺され、同じく未曾有の混乱が発生することであろう。
 不確かな情報によっていたずらに心を乱さず、現実の作業量を必要最小限に限定し、差し当たり穏当な結果が得られるように、これからの数ヶ月を冷静に乗り切っていきたい。