内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日記のあっさりとした記述の背後に隠された宣長の深い心情の推理(下)

2018-04-26 07:46:52 | 読游摘録

 大野晋は、一昨日の拙ブログの記事で引用した宣長の日記の中のいわゆる「松坂の一夜」についての短い記事で用いられている一語、「対面」に注目する。
 僥倖に恵まれて、深く尊敬する大先生に会うことができたというのに、なぜ、宣長は、「謁す」という敬意を込めた動詞((漢文の師であった堀景山をその自宅に訪れたときの記録では使っている)ではなく、あたかも対等な者同士の面会であったかのように、「対面す」という動詞を使って、その日の出来事を記録したのか。
 この問いに対する答えを探す大野の推理は実に鋭い。この「対面」のとき、話題は二つあっただろうと大野は推定する。一つは、もちろん、『古事記』について。この出会いにおいて、宣長が真淵から本格的な『古事記』研究を勧められたことは間違いない。では、もう一つの話題とは何であったのか。少し長くなるが、大野の推理を段落まるごと引用しよう。

 しかしもう一つの別の話題があったと思うのです。それは『源氏物語』とはどういう物語か、その本質は何なのだ、という話です。『源氏物語』はもののあはれを書いたものだ。もののあはれとは、日本における春夏秋冬の季節の移り行きに感じられる非常に微妙な味わいである。また、もののあはれのなかで最も重要なものは何であるかといえば、男と女との間の恋の感情、愛情である。その実相を追求して形象化したのが『源氏物語』である。『源氏物語』は、なにも世間で生きるための実用性のある智恵を教えるものでもなければ、役に立つ教訓をたれようとするものでもない。男と女の恋情を人間の根柢的に重要な事実と認め、男と女とがそれを求めて動くさまを書いたものだ。そう読むのがあの書物の読み方なのだということを、本居宣長は『紫文要領』のなかに書いている。そしてそれは、宣長が誰かから学び習ったことではなく、自分自身の発見であり、自分の存在をかけた意見だと、その奥書に書いている。これは先に申し上げた通りです。ですから、そのことを宣長は賀茂真淵に語ったに違いない。(『語学と文学の間』、前掲書26頁)

 実際に宣長が真淵にそう語ったかどうかを証明することは不可能である。しかし、それはここでの問題ではない。そのような実証性よりも大切だと私に思われることは、このような推論によってはじめて浮かび上がってくる「読み筋」があるということである。その読み筋には、大野晋という稀代の学究の長年の研鑽とそれを通じて研ぎ澄まされた学問的直観とが賭けられている。
 弛みない研鑽に裏打ちされた直観に己の学問的人生を賭けること。この点において、宣長と大野晋とは同じ学問的血脈に連なっている。
 もう少し大野の推論について行こう。
 真淵は「松坂の一夜」の五年前に『源氏物語新釈』という注釈を書き上げている。その内容は旧来の解釈を踏襲するばかりで、何ら新味のないものであった。つまり、真淵は『源氏物語』を共感をもって深く理解することはなかったのである。
 だとすれば、宣長の過激とも言える新解釈を聴いて、真淵はそれにどう反応しただろうか。もし『紫文要領』に荒削りに提示されている源氏物語論を宣長が真淵に熱を込めて語ったとして、それに対する真淵の反応はどうであったろうか。
 それはおそらく宣長を失望させるような反応であったろう。宣長は、自分の渾身の源氏解釈が偉大なる先達の共感を得られないのを目の当たりにして失望したことであろう。
 この失望が日記に於いて「謁す」ではなく「対面す」を選ばせ、『紫文要領』の激越な跋文を宣長に書かせたのではないか。こう大野は推理する。
 では、宣長は、どうして自分の源氏解釈にそこまで自信を持つことができたのか。
 この問いに対して、大野はどのような答えを出すのか。その答えをお知りになりたい方は、是非ご自身で大野論文をお読みいただきたい。












最新の画像もっと見る

コメントを投稿