今日明日の記事の内容は、昨日の記事に書いたことについてのお恥ずかしいかぎりの訂正です。
「大空」という言葉が『万葉集』には一ヶ所しかないと書いた後に、「『古今』『新古今』には「大空」の使用例がない」と書いてしまいました。しかし、これはまったくの間違いでした。両歌集中の「大空」の用例を自分で調べてあったのに、そのことをすっかり忘れていたのです。もうボケているとしか言いようがないですね(ああ~、やだやだ、認めたくないよぉ~)。『古今』には、三例(さらに異本歌一首)、『新古今』には、五例あるんです(昨日の記事は、そのままにしておくのが恥ずかしいので、さきほど訂正・追補させていただきました)。
今日の記事では、『古今集』の「大空」の四例にあたっておきます。
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづこほりける
大空は恋しき人の形見かはもの思ふごとにながめらるらむ
大空を照りゆく月しきよければ雲隠せども光消なくに
月影も花も一つに見ゆる夜は大空をさへ折らむとぞする
これら四例それぞれにおける「大空」の表象について、一言づつ感想を述べる。
第一例は、巻第六冬歌。よみ人知らず。冬の夜空に冴え冴えと照る澄んだ月の姿を映した水がまっさきに氷るのであったというのが歌意。水面に映った月を水が「見た」とすることで天上と地上との感応性が捉えられている。大空は、どこまでも広がる背景として、月の冷え冷えとした清けさを引き立たせている。
第二例は、巻第十四恋歌四。酒井人真作。大空は、恋しい人の形見だというのだろうか、いや、そうではないのに、どうしてこうもの思うたびにおのずと眺められてしまうのであろうか。大空そのものが対象として詠まれているというよりも、恋しい人を想ってもの思いに耽るとき、どこまでも広がる空がおのずと眺められてしまうという心情が大空に仮託されている。
第三例は、巻第十七雑歌上。尼敬信作。この歌の題詞には、文徳天皇の御世、斎院だった第八皇女の彗子(あきらけいこ)が、その母藤原是雄娘列子の過失(内容不明)によって廃されそうになったが、何らかの理由でそれが沙汰止みとなったときに詠んだとある。後年、彗子は結局斎院を廃せられる。月は彗子の喩え。月はまた正義の喩えでもあり、雲は邪心や疑惑の喩え。この歌でも、大空は、月の清さを引き立たせる広大な空間として背景的な位置づけにとどまる。
第四例は、異本の歌。寛平御時后宮の歌合の時の歌とされるが、現存の『寛平御時后宮歌合』には見えない。『古今六帖』に紀貫之の歌として見える。月の光も花の色も白く一つに見える夜は、大空までも枝として折ろうとしてしまいそうだ、とは奇抜な発想だが、写実性は無論皆無、心情としての真実性にもまったく欠け、ただ大仰なだけの歌。正岡子規ならこの歌を口をきわめて罵倒したことであろう。
上掲四首いずれの場合も、大空そのものが注視の対象とはなってない。大空それ自体は、歌題とはなりにくいということであろうか。