内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

春のあはれ、『源氏』以後の感性

2018-04-29 18:00:27 | 読游摘録

 「人生とはそういうものだ」、「あいつはもののわからんやつだ」など、現代日本語でもごく普通に使われる表現の中の「もの」の意味、つまり「きまり」とか「道理」という意味は、古典語の「もの」にまで遡る。
 「もの」は、平安女流文学においては、軽い接頭辞ではないこと、単なる添え物ではないこと、ただ漠然と「なんとなく」という意味ではないこと。これらのことは、和辻哲郎が「「もののあはれ」について」(初出1922年、『日本精神史研究』所収)で夙に指摘しており、唐木順三が『無常』(1964年)の中でやはり問題にし、大野晋が「モノとは何か」(初出2001年、『語学と文学の間』所収)でそれを『源氏物語』の本文に即して実証している。
 大野論文の「もの」についての所説は、『古典基礎語の世界』(角川ソフィア文庫、2012年)にほぼそのまま再録されているので、同書から「ものあはれなり」という形容動詞についての分析を摘録する。
 「モノは、長い文脈を受けて、それを運命と見る、動かしがたい成り行きと見るということを表す言葉なのだ」(176頁)と述べた上で、モノには今一つの用法があるという。「それはモノが動かしがたい成り行きとして展開していく季節のありようを指す場合である」(176-177頁)。
 その典型的な例として「ものあはれなり」という形容動詞の例を『源氏物語』から5つ挙げている。それらの例は、そのほとんど秋から冬にかけてのことである。いずれも、「人間には動かしがたい、季節の成り行きがあわれと眺められる」ということを意味している。そこから「秋のあはれ」という成語も成立した(『源氏物語』に三例)。
 ところが、「春のあはれ」という表現は、『源氏物語』には一例もない。昨日の記事で取り上げた『徒然草』第十九段に見られるような、春のあはれに対する感性は、いつごろ、どのような文脈で生まれたのであろうか。『徒然草』以前にその例を見出すことができるのだろうか。