内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(10) 万葉と定家の主題によるインテルメッツォ

2018-04-03 14:19:02 | 哲学

 「空」という漢字を使った歌、空を詠みこんだ歌、「天」など空を意味する言葉が含まれた歌、これらすべてを一括りにすれば、記紀歌謡・『万葉集』から中古・中世・近世・近代そして現代に至るまで、それこそ無数の歌が詠まれてきた。
 それらを整理・分類してみれば、それこそ「「空」の文芸史」とも呼べるような一書をものすることもできよう。「風」の文藝史の構想を述べたことが過去に二度ほど(こちらこちら)あるが、両者をまとめて「空と風の文藝史」というより大きな構想も可能だろう。そんなことを考えはじめるとキリがなくなる。「水」の文藝史だって可能だろうから。
 まあ、残念ながら、そんな大作に挑む時間は一生なかろう。せめてもの慰みにと、「大空」という一語に限って、万葉から中世までの和歌を瞥見してみた。
 『万葉集』には、「おおぞら」という語は一回だけ出て来る。巻第十の七夕歌群中の一首である(二〇〇一)。まず今日の漢字表記で読んでみよう。

大空ゆ通ふ我れすら汝がゆゑに天の川道をなづみてぞ来し

 「我れ」は牽牛、「汝」(な)は織女である。「川道」は「かはぢ」と読む。「この広い大空を自由に往き来している私なのだが、そなたに逢うために、定められた天の川道を、苦労してやって来たのだよ。」(伊藤博『萬葉集釋注』)
 星々が行き交う天空にほかならないこの大空は、西本願寺本の原文表記では、「蒼天」となっていて、こちらの方が詩的表象喚起力においてすぐれていると私は感じる。第四句は「天漢道」となっていて、天上の遠く困難な道のりを想起させる。
 『古今』『新古今』はどうかというと、前者には、三例(さらに異本歌一首)、後者には、五例ある。これらについては、明日明後日の記事で触れる。
 藤原定家の『拾遺愚草』には、「おほそら」が特異な用字とともに現われる(ちなみに、定家全歌集中、初句に「おほそら」が詠まれている歌は八首を数える)。

たちのぼり南のはてに雲はあれど照る日くまなきころの虚

 冷泉家時雨亭文庫所蔵の定家自筆本には、「虚」の下に「オホソラ」と片仮名で読みが注記されている。「おほぞら」と諸家濁って読んでいる。久保田淳校訂・訳『藤原定家全歌集』(上・下二巻、ちくま学芸文庫)では、「虚」に「オホゾラ」とわざわざそこだけ片仮名で振り仮名を付している。塚本邦雄『定家百首』でのこの歌の表記は、「立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚」となっており、「虚」にだけ「おほぞら」と振り仮名が付いている。
 夏の歌である。遥か南方上空に立ち上る雲は見えるが、隈なく照りつける炎熱の太陽の眩しさによって、大空は、定家の詩的空間において、「虚」と化す。
 塚本邦雄『定家百首』の評釈の一部を引こう。

雲と太陽だけを素材にした雄大な自然詠のやうに見えるが、一首の趣はかなり混沌として昏く、むしろ嫌惡と倦怠に滿ちてゐる。中世文學にはしばしば西空があらはれ、それは必ず西方浄土を意味するが、この歌の南のはては焦熱地獄を聯想させ、雲は救濟の豫兆とでもこじつけたくなるくらゐ「あれど」の歎きは深い。(『定家百首|雪月花(抄)』講談社文芸文庫、91-92頁)

 雲によってかえって露わにされた大空の「虚」は、その大空と一体化した定家の心の「虚」でもあると言えないであろうか。