内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日記のあっさりとした記述の背後に隠された宣長の深い心情の推理(上)

2018-04-24 16:20:57 | 読游摘録

 昨日の記事では、尋常小学校国語読本に戦前二十数年間収載されていた「松坂の一夜」という文章とその元になっている佐佐木信綱の文章を紹介した。それいずれも真淵と宣長の出会いを美しく描いた文章であった。
 ところが、当の宣長の日記の中のこの「歴史的な」出会いの日である宝暦13(1763)年5月25日の記述は、ひどくあっさりしているのである。
 まず、「曇天、嶺松院の会也」と、歌会に行ったことを記した後、「岡部衛士当所一宿、始めて対面す」(岡部衛士は真淵の本名)とあり、「当所一宿」の脇に「新上屋」と対面した宿屋の名前が小さく記されている。これだけである。
 もっとも、ただ天候だけを記しただけの日も多いから、それらに比べれば、書いてあるほうだとも言える。それにしても、「松坂の一夜」として後年これだけ有名になった一期一会の出来事が当の本人の日記ではそっけないとも言えそうな記述にとどまっているのはなぜだろうか。
 この日記の記述の背後に隠され、名編「松坂の一夜」からも読み取りがたい宣長の深い心情について、綿密かつ執拗な資料探索を重ねつつ見事な推理を展開しているのが大野晋の「語学と文学の間 ―本居宣長の場合―」(『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年)である。初出は今から40年前の『図書』1978年6月号。その内容は、簡略化された形で、『日本語と私』(河出文庫、2015年)の「Ⅴ 両国橋から」中の「言葉に執して生きた人々(1)」にも繰り返されている。
 そのスリリングな推理過程は、それをここに中途半端な仕方で紹介すると、それこそ推理小説のネタバレみたいに残念な結果に終わること必定なので、ご興味を持たれた方は是非ご自身で同論文お読みになられたし。岩波現代文庫版巻末の井上ひさしによる「語学者と文学者の間 ―解説に代えて―」の言葉を借りれば、「わずかの代金で、そのご相伴にあずかることができるとは、同時代に生まれ合わせた冥加である」(299頁)。
 『語学と文学の間』は、現在版元品切れのようだが、古本市場によく出回っているようで、比較的安価に入手できる。また、それに先立って『日本語と世界』(講談社学術文庫、1989年)にも同論文は収録されており、こちらも品切れであるが、古本で安く手に入る。
 明日明後日の記事では、まだお読みでない方々にとってネタバレにならないように気をつけながら、この大野論文を読んで私が特に関心を持った点にいささか触れてみたい。













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