内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ブリュッセル自由大学での講義を終えて―ストラスブールへの帰りのTGVの中で

2018-04-27 18:01:44 | 雑感

 今、ブリュッセルからストラスブールに帰るTGVの中でこの記事を書いています。
 一昨日・昨日とブリュッセル自由大学での哲学部修士課程の学生たちを対象とした東洋哲学講座の一環としての講義を行ってきました。2日間それぞれ3時間の計6時間の講義でした。
 日本のことはほとんど何も知らない相手に対して、第1日目は、仏教渡来以前に信仰されていたであろう古代日本における「カミ」について話しました。「枕」として、ラフカディオ・ハーンの名編「杵築―日本最古の神社」(『日本の面影』)の中の古代日本人の「カミ」信仰の特異性の直観的把握を紹介し、この文章の終わりの方に出てくる「神の道」という言葉への注意を促し、これが今日の講義のテーマであることを示しました。
 そして、主に大野晋『日本人の神』(河出文庫)の第一・二章に依拠しながら、1時間半ほど話し、その後、学生たちからの質問を40分ほど受けました。出席者は20名ほどだったでしょうか。大体において集中して聴いてくれていたし、熱心にノートを取っていた学生も少なからずいたし、質疑応答も結構活発でしたから、なんとか役割は果たせたのではないかと思います。
 昨日は、普段講義を行う日ではないといこともあったのでしょうか、出席者は4名でした。しかし、これはこれで、私の方は気楽な談話のように話せるし、聴く方もその分リラックスして聴けるから、別の雰囲気を楽しむことができて悪くありませんでした。
 本居宣長の「もののあはれ」論を緒に、「もの」とは何かという話へと展開し、この「もの」についての大野晋よる定義、和辻哲郎の宣長批判における「もの」解釈、唐木順三『無常』での「もの」分析等を紹介し、この「もの」と「こと」との対比を基軸とした世界像、「こと」のもつ意味の三重性―事・言・異、廣松渉の事的世界観などに言及しました。司会進行役の講義責任者が途中で的確な質問やコメントを合いの手のように入れてくれたので、私の方もそれに応じて、縦横に気分良く話すことができました。講義ノートなしで話し、掛け合いがうまくいったことで、学生たちの方も緊張せずに、より自由に質問できたようです。後の祭りですが、丸山圭三郎についても言及しておけばよかったとこの記事を書きながらちょっと後悔しています。
 その日の後半は、私が先月した学会発表と講演の内容を、文学作品を対象あるいは手掛かりとして実行可能な哲学的考察の方法論という観点から紹介しました。メルロー=ポンティをよく読んでいるらしい学生からの質問にはこちらが啓発されるところもあり、また昔取った杵柄ですから、『眼と精神』や『見えるものと見えないもの』の所説が自ずと思い出されたりして、懐かしくもありました。
 講義の後は、司会進行をしてくれた、大森荘蔵についての博士論文を準備中のベルギー人の若き友人と、田辺元研究で博士号を取得し、現在ブリュッセル自由大学のポスドクのポストにあるもう一人の若き日本人の友人との三人で、ベルギー料理レストランで歓談いたしました。これからの研究活動についての刺激に満ちたアイディアがそれこそ次から次へと話題になり、彼らの充溢する活力、柔軟性に富んだ発想、企画を迅速に実現にまで導く実行力には、もはやたそがれゆくだけの老兵たる私はただ感嘆するばかり、おかげでとても愉快な時間を過ごさせてもらいました。
 今日は、宿泊先のマダムのお勧めで、一年でこの花の季節しか一般公開されないというラーケン王宮温室を見学し、花の写真を沢山撮ってきました。それらの写真は、このブログでは紹介しませんが、Facebook の方に順次アップしていきますので、ご興味のある方はご覧になってくださいね。