内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

非連続と連続との「出会い」から個体は生まれる ― ジルベール・シモンドンを読む(67)

2016-05-11 10:37:38 | 哲学

 昨日読んだ段落だけを前後から切り離して読むと、システムにおける個体発生を実体概念の構成に先立つ出来事として、それに存在論的優位を置くことを結論としているようにも読める。しかし、そうしてしまうと、〈関係〉の有している生産性に富んだ性格をすっかり見損なってしまうことにもなるとシモンドンは私たちに注意を促す。関係の豊穣性を例証するために、ここでも結晶体が例として挙げられている。

Cependant, conclure de ces remarques à un primat ontologique de l’individu, ce serait perdre de vue tout le caractère de fécondité de la relation. L’individu physique qu’est le cristal est un être à structure périodique, qui résulte d’une genèse en laquelle se sont rencontrées dans une relation de compatibilité une condition structurale et une condition hylémorphique, contenant matière et énergie. Or, pour que l’énergie ait pu être asservie par une structure, il fallait qu’elle fût donnée sous forme potentielle, c’est-à-dire répandue dans un milieu primitivement non polarisé, se comportant comme un continu. La genèse de l’individu exige le discontinu du germe structural et le continu fonctionnel du milieu amorphe préalable (p. 97).

 シモンドンが結晶体という物理的個体に見ているのは、ある生成過程の結果として生まれた周期的な構造をもった存在である。この生成過程において、構造的条件と質料形相的条件とが両立可能な関係に入る。この後者の条件の中に物質とエネルギーが含まれている。ところが、エネルギーがある構造によって統御されるためには、エネルギーが潜在的な形で与えられていなければならない。つまり、原初的には極性をもっていなかった環境に広がっていたエネルギーがある連続的なものとして働くようにならなければならない。個体の生成は、構造的な萌芽の非連続性と先在する不定形な環境の機能的な連続性とを要求する。
 ここだけ読むと、昨日読んだ箇所で主張されていた「非連続が連続に先立つ」というテーゼと矛盾しているように見える。しかし、上掲の箇所を次のように理解すれば、前段落と整合的に読むことができるだろう。
 個体の生成は、ある一定の構造の成立を意味し、その構造が一定の機能をもつためには、その構造が機能を実行するためのエネルギーを潜在的なものとして保持することができなくてはならない。他のものとは区別されうる構造を備えることが非連続性であるとすれば、この非連続的なものである構造が成立し、それが機能してはじめて、その構造によって統御されるエネルギーが連続的なものとして保持されうるようになる。この意味で、非連続性は連続性に先立つと言うことができる。
 しかし、非連続か連続かというような二者択一がここでの問題ではないのはもちろんのこと、単に前者の後者に対する存在論的先行性と優位性が最終的な結論なのでもなく、両者間の関係こそ、個体の多様性と〈個体-環境〉関係の多次元性と可変性とをもたらす条件であるということがここでの最も重要なテーゼであろう。



















































非連続が連続に先立つ ― ジルベール・シモンドンを読む(66)

2016-05-10 05:52:41 | 哲学

 ILFI の第一部「物理的個体化」第二章「形とエネルギー」の最終頁を今日から読んでいく。
 そこに出てくる 「非連続なもの」(« discontinu ») と 「連続的なもの」(« continu ») との関係は、シモンドンの個体化論を理解する上で一つの重要なポイントになる。ところが、私には十分にそれが理解できているという自信がない。シモンドンの他の著作や参考文献を参照している時間的余裕も今はない。だから、今日から同章最終頁について記すことは、原文の当該箇所を日本語でおよそなぞってみる以上のことではない。
 同章の最終節では、様々な物理化学的現象において個体が成立してくる過程を物理レベルにおける個体化の具体例として考察することを通じて、個体成立以前の不定形な状態のままの分子量を「非連続なもの」、個体が形成され始めて分子の集合に一定の構造が観察可能になった状態を「連続的なもの」として、両者の区別と関係が特に検討されてきた。それを踏まえて、この章の結論として、まず以下のように述べられている。

En continuant dans cette voie, nous trouverions que l’aspect de continuité peut se présenter comme un cas particulier de la réalité discontinue, tandis que la réciproque de cette proposition n’est pas vraie. Le discontinu est premier par rapport au continu. C’est pour cette raison que l’étude de l’individuation, saisissant le discontinu en tant que discontinu, possède une valeur épistémologique et ontologique très grande : elle nous invite à nous demander comment s’accomplit l’ontogénèse, à partir d’un système comportant potentiels énergétiques et germes structuraux ; ce n’est pas d’une substance mais d’un système qu’il y a individuation, et c’est cette individuation qui engendre ce qu’on nomme une substance, à partir d’une singularité initiale (p. 97).

 それまで論じてきたところから、「連続面は、非連続的な現実のある特殊な場合である」という命題が導き出されうる。ところが、その換位命題、つまり、「非連続な現実は、連続面のある特殊な場合である」という命題は真ではない。非連続なものが連続的なものに先立つからである。それゆえに、個体化研究は、非連続を非連続として把握することによって、認識論的・存在論的にきわめて大きな価値を有している。個体化研究は、エネルギーとしての潜在性と構造の萌芽とを内包をしたシステムから出発して、個体発生がいかに実現されるかを問うようにと私たちを導く。個体化は、一つの実体において起こることではなく、一つのシステムの出来事である。この個体化こそが、初発の特異性からいわゆる実体を産出する。
































































感覚と科学との間の関係と非連続性 ― ジルベール・シモンドンを読む(65)

2016-05-09 05:24:07 | 哲学

 シモンドンがその個体化理論によって示そうとしていることは、具体的に生成しつつある個体そのものが科学の対象として考究され得るということである。ここでいう「科学」とは、自然科学には限定されない。人文社会科学も覆う広い意味での科学である。
 私たちの現実の経験の中で直接感得された感覚与件は、確かに、そのままでは科学的考究の対象にはなりえない。しかし、生きている個体とその環境との間の感覚におけるこの最初の「関係」がなければ、そもそもいかなる科学も始まらない。

La théorie de la connaissance doit être modifiée jusqu’à ses racines, c’est-à-dire la théorie de la perception et de la sensation. La sensation doit apparaître comme relation d’un individu vivant au milieu dans lequel il se trouve. Or, même si le contenu de cette relation ne constitue pas d’emblée une science, il possède déjà une valeur en tant qu’il est relation. La fragilité de la sensation vient avant tout du fait qu’on lui demande de révéler des substances, ce qu’elle ne peut à cause de sa fonction fondamentale. S’il y a un certain nombre de discontinuités de la sensation à la science, ce n’est pas une discontinuité comme celle qui existe ou qui est supposée exister entre les genres et les espèces mais comme celle qui existe entre différents états métastables hiérarchisés (p. 92).

 認識理論は、その根幹である知覚論・感覚論から徹底的に見直されなくてはならないとシモンドンは考える。感覚は、生きている個体とその環境との関係である。この関係の内容がそのまま一つの科学になるわけではもちろんない。しかし、個体と環境との関係である感覚の内容は、今ここでの具体的な関係という価値を持っている。
 感覚が不確かな危ういものと見なされるのは、感覚に実体を開示するように求めるからである。ところが、これはそもそも感覚にとっては無理な要求なのである。なぜなら、感覚は本質的に関係性であるにもかかわらず、実体とはその関係性なしにそれ自体で存在するもののことだからである。
 感覚と科学との間にある非連続性は、類と種との間に在る或いは在ると想定されているような非連続性ではなく、階層づけられた様々な準安定性状態間に有るような非連続性なのだとシモンドンは言う。

























































思考とは、歴史的現実の中での自己正当化過程である ― ジルベール・シモンドンを読む(64)

2016-05-08 03:58:51 | 哲学

 シモンドンの個体化論は、何かすでに出来上がっている考え方を現象に当てはめてその現象を説明するとか、その現象をその考え方の例証とするとかいうのとはまったく違った思考が展開されている現場そのものである。
 複数の異なった領域あるいは次元に属している具体的な例をいかに整合的かつ根本的に掌握するかという思考作業を通じて、その思考そのものが形を成していく。この意味で、思考作用とは、思考とその対象との間の外的関係と思考の構成諸要素間の内的関係という二重の関係の類比的形成過程とその安定化にほかならない。

[...] mais nous croyons précisément que toute pensée, dans la mesure précisément où elle est réelle, est une relation, c’est-à-dire comporte un aspect historique dans sa genèse. Une pensée réelle est auto-justificative mais non justifiée avant d’être structurée : elle comporte une individuation et est individuée, possédant son propre degré de stabilité. Pour qu’une pensée existe, il ne faut pas seulement une condition logique mais aussi un postulat relationnel qui lui permet d’accomplir sa genèse (p. 84).

 思考はそれ自身の内にその個性的な生成の歴史的過程を内包しており、思考が正当化されるのは、何らかの外的な根拠によってではなく、単なる論理的な内的整合性によってでもなく、現実の中でそれ自身が構造化され安定性を獲得することそのことによってである。この意味で、現実的な思考は、現実の歴史の中でそれ自身を構造化させて安定性を獲得することによる「自己正当化」(« autojustification »)の現実的過程そのものにほかならない。
































































関係から実体への可変性と可逆性 ― ジルベール・シモンドンを読む(63)

2016-05-07 06:37:43 | 哲学

 ILFI の第一部は物理的個体化がテーマだから、当然のこととして、個体化の例として多数の物理化学的現象が挙げられている。しかし、浅学菲才如何ともしがたく、それらの例をよく理解できているとはとても言えない。だから、それらの例示の中から生半可に原文の一部を引き出しても、馬脚を現すだけのことに終わるだろう。それらの例については、科学の知識のある方に説明を仰ぎたい。
 第一部第二章は「形とエネルギー」(« Forme et énergie »)と題されていて、物理レベルにおける個体の生成、その形態・構造、そこに蔵された潜在エネルギーなどが考察対象となっている。シモンドンがそこで挙げている具体例に即して問題を見ていくことは私の能力を超えることなので、この章でシモンドンがどんな問題を考えようとしているのかよく示されていると思われる箇所をいくつか抜書きするにとどめる。
 「序論」でもすでに大筋は論じらていたことだが、シモンドンは、関係を存在に付随的な現象とは考えない。むしろ関係こそ存在生成の母胎なのだと考えている。この関係論的存在論とも呼ぶべき思考が物理レベルでも徹底されている。それは潜在エネルギーを論じている次の箇所にもよく表現されている。

Mais la réalité de l’énergie potentielle n’est pas celle d’un objet ou d’une substance consistant en elle-même et « n’ayant besoin d’aucune autre chose pour exister » ; elle a besoin, en effet, d’un système, c’est-à-dire au moins d’un autre terme. Sans doute faut-il accepter d’aller contre l’habitude qui nous porte à accorder le plus haut degré d’être à la substance conçue comme réalité absolue, c’est-à-dire sans relation. La relation n’est pas pure épiphénomène ; elle est convertible en termes substantiels, et cette conversion est réversible, comme celle de l’énergie potentielle en énergie actuelle (p. 68).

 それ自体で存在するところの実体を最も高度な存在としてまず想定し、そこからそれに「付随する」関係を考えるのとは真逆に、関係から実体への転換の可能性を考えようというわけである。しかもこの実体への可変性は可逆的だから、実体を基礎とした世界像は、どこまでも副次的かつ暫定的なものに過ぎないということになる。この前提に立ってシモンドンの個体化論はその全体が構想されている。





















































〈もの〉が「このもの」になるとき(承前)― ジルベール・シモンドンを読む(62)

2016-05-06 03:36:44 | 哲学

 昨日引用した箇所の後半だけ、再度以下に引用する。

on pourrait dire que, du point de vue de l’artisan, l’eccéité de l’objet ne commence à exister qu’avec l’effort de mise en forme ; comme cet effort de mise en forme coïncide temporellement avec le début de l’eccéité, il est naturel que l’artisan attribue le fondement de l’eccéité à l’information, bien que la prise de forme ne soit peut-être qu’un événement concomitant de l’avènement de l’eccéité de l’objet, le véritable principe étant la singularité du hic et nunc de l’opération complète (ILFI, p. 59).

 職人の眼からすると、対象の「このもの性」は、その対象を「形にする」(« mise en forme »)あるいはそれに「形を与える」努力とともにしかそれとして現に存在し始めない。この「形にする」という努力が或る対象の「このもの性」の始まりと時間的に一致しているのだから、職人が「このもの性」の基礎を « information » に帰すのは当然のことである。上掲の引用の前半部でそう言われている。
 ここでの « information » を「情報」とは訳せないことは明らかであろう。この « information » という、シモンドンにおいて特異な仕方でかつ曖昧さを含んだままに使用されてはいるが、きわめて知的生産性の高い概念については、三月・四月の記事で数回取り上げているので(3月10日28日30日31日4月12日13日。日付上をクリックするとこれらの記事へ飛ぶようにリンクが貼ってあります)、それらを参照していただくことにして、ここでは再論しない。
 あるものが「形に成る」(« prise de forme »)という出来事は、そのものの「このもの性」の到来と同時的である。これが第一次的な « information » とシモンドンによって呼ばれる事柄である。
 このような思考の根底にあり、それを常に活性化し展開・発展させていく原動力となっているのは、「真の原理は、十全なる作用の〈今〉〈ここ〉という単独性にある」という、一切の抽象化に先立つ具体的な個体化過程を存在生成の原理として捉える哲学的直観である。


















































〈もの〉が「このもの」になるとき ― ジルベール・シモンドンを読む(61)

2016-05-05 08:42:54 | 哲学

L’eccéité cherchée dans la matière repose sur un attachement vécu à telle matière qui a été associée à l’effort humain, et qui est devenue le reflet de cet effort. L’eccéité de la matière n’est pas purement matérielle ; elle est aussi une eccéité par rapport au sujet. L’artisan, au contraire, s’exprime dans son effort, et la matière ouvrable n’est que le support, l’occasion de cet effort ; on pourrait dire que, du point de vue de l’artisan, l’eccéité de l’objet ne commence à exister qu’avec l’effort de mise en forme ; comme cet effort de mise en forme coïncide temporellement avec le début de l’eccéité, il est naturel que l’artisan attribue le fondement de l’eccéité à l’information, bien que la prise de forme ne soit peut-être qu’un événement concomitant de l’avènement de l’eccéité de l’objet, le véritable principe étant la singularité du hic et nunc de l’opération complète (ILFI, p. 59).

 この引用箇所および前後で問題になっていることは、引用文中に繰返し現れている一語を使って一言で言うと、 « eccéité » の成立契機である。
 この « eccéité » といフランス語は、中世スコラのラテン語 « ecceitas » から十六世紀末に作られた語で、このラテン語は 、« ecce » (「ここに...(がある)」)という副詞を語源としている。 « eccéité » は、「あるものが具体的に今ここにあること、あるいはそれを可能にしている原理」を意味している。
 因みに、二十世紀半ばにこの語をハイデガーの « Dasein » の仏訳として再利用する試みがなされたが、不成功に終わっている。今日、ハイデガー研究者であるなしを問わず、 ハイデガーの « Dasein » を話題にするときは、このドイツ語をそのまま訳さずに使うのが一般的である。
 « eccéité » の日本語訳としては、『小学館ロベール仏和大辞典』に、「此(これ)性、個性原理、是態(ぜたい)」という三つの訳語が挙げてある。いずれも一長一短といったところで、これらのうちのいずれを採用するかに迷う。暫定的に、上に示した意味で使うという前提の下、「このもの性」と訳しておくことにする。
 上掲の引用箇所およびその前後で提起されているのは、ある物が「このもの」という個体として成立するのはどのような契機においてなのかという問題である。一本の木あるいはそれから切りだされた材木を例として、それが「今ここにあるこのもの」と成るのはどのようにしてなのかという仕方でこの問題がここで具体化されている。
 ここで言われていることを理解するのに、私たちは特に哲学的知識を必要としない。それどころか、このような「このもの性」の経験は、私たちの日常生活あるいは仕事の中でほとんど日々生きられているという意味で、私たちはすでに「このもの性」を具体的に分かってしまっている、とさえ言うことができる。
 山に生えている一本の木が、その山の所有者でその木を周囲の他の木ととも製材業者に売ろうとしている山林所有者、その木を実際に植林して売れるようになるところまで育てた植林者、その木を買って製材化する製材業者、その製材化された材木を使って家を建てる大工や家具を作る職人など、一本の木に対する関わり方は同じではない。その関わり方ごとに「このもの性」も変わってくる。この一本の木が「このもの」になるのは、その物と人間との関わり方によって規定されており、木それ自体だけで「このもの性」を成り立たせることはできない。
 このような自明とも言える「このもの性」をなぜことさらに問題化しなくてはならないのか。それは、「今、ここに、このものがこのようにある」という経験の根源性を古代ギリシアの質料形相論に淵源する哲学的概念装置が覆い隠してしまい、この根本経験に対してもともと二次的・副次的・派生的なものでしかない諸概念によって私たちの思考が限定されてしまっていることを徹底的に批判するためである。
























































連載再開にあたって ― ジルベール・シモンドンを読む(60)

2016-05-04 10:37:16 | 哲学

 今日から L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information (Éditions Jérôme Millon, 2005, 以後 ILFI と略記) の読解を再開する。とはいえ、来週から来月初めてにかけては公務でとても忙しく、実際には、「読解」というよりも、読書メモ風の短い記事を書くので精一杯という日々が続くと思う。たとえそうであっても、毎日ほんの短い時間でもテキストに触れ、感想を記していきたい。
 ただ、「序論」読解時のように頁を追って読みながら随時記事にしていくことはもうしない。それでは途方もなく時間がかかってしまうから。一回の記事につき、同書の一節あるいは一章の中から、一箇所数行の原文を摘録し、それに一言感想を加えるという形を基本にして、細々と続けていきたい。
 今日のところは、その摘録作業の前置きを一言述べるにとどめる。
 上記のシモンドンの主著は、「その表現のあらゆる意味において大著」(Jean-Hugues Barthélémy, Simondon, Les Belles Lettres, coll. « Figures du savoir », 2014, p. 244)であるが、元々は1958年に提出された博士論文の主論文のほうで、同時に提出された副論文が Du mode d’existence des objets techniques であり、シモンドンの令名はこの副論文の方で同年直ちに高められた。それに対して、主論文の方は、その前半二部が1964年に初めて出版され、後半二部が初めて出版されたのはシモンドンが亡くなる年である1989年のことに過ぎない(これらの書誌的情報については、2月16日の記事を参照されたし)。
 二月後半から四月前半にかけて拙ブログの連載で読んできたのは、主論文が一つにまとめられ、さらに博士論文と同時期に書かれた Histoire de la notion d’individu その他の補遺が巻末に収められた、同主著のいわば決定版である。
 その主論文は、四部に分かれており、物理的個体化、生命体の個体化、心理的個体化、集団的個体化をそれぞれその考究テーマとしている。第一部の物理的個体化論が最も長く、全体の約四割を占める。第二部以降は短くなってゆく。しかし、第三部と第四部とは相補的な関係にあるので、これらをひとまとまりと見れば、第二部の長さを若干上回る。
 第一部が特に長いのは、その中で質料形相論と実体論(あるいは実体主義)に対する根本的批判が詳細かつ執拗に展開されているからである。この批判契機は、第一部での物理レベルでの個体化論のキーノートになっているばかりでなく、同書の個体化論全体を方向づけているから、シモンドンも特にそこに力を傾注したのであろう。
 そこでの主要な論点はすでに「序論」読解の連載の中で押さえてあるので、ここではもう繰り返さない。明日からの連載記事では、それらの論点を必要に応じて思い出しながら、シモンドンが各所で挙げている具体例を取り上げ、その具体例の考察を通じて個体化論のよりよい理解を目指す。



















































七月の研究教育活動予定

2016-05-03 00:33:23 | 哲学

 今日の記事には、七月の研究教育活動予定として、7月25日から29日までの集中講義のシラバスをそのまま転載する。下に見られるように「講義スケジュール」では十五回に分けてあるが、これは大学の教務課から形式上そうしてくれという通達があったからそうしてあるだけで、実際には毎日三回分四時間半でひとまとまりとなっている(途中で二回、それぞれ十分ほど休憩します)。
 今年の二月のある記事の中で一度、別の言い方で言及したことだが、この集中講義の目的は、ジルベール・シモンドンの個体化理論とそれを基礎とする技術の哲学とが開いてくれるパースペクティヴの中で、三人の日本の哲学者、西田幾多郎・和辻哲郎・三木清の所説の一部を技術論として考察することにある。受講学生たちはフランス哲学専攻とは限らない(というか、フランス哲学専攻者はほとんどいない)から、シモンドンのことは、初日と最終日とに私の方で概説するつもりでいる。
 その準備の一環として、明日からまたぼちぼちと連載「ジルベール・シモンドンを読む」を再開する。

【テーマ・サブタイトル】
 技術・身体・倫理 ― 西田・和辻・三木の技術論を手がかりとして

【講義の目的・内容】
 1930年代後半、西田幾多郎、和辻哲郎、三木清は、それぞれに固有な哲学的構想全体の中で最重要な位置を占める論文あるいは著作を相次いで発表している。すなわち、西田の「論理と生命」(1936年)、和辻の『倫理学』上巻(1937年)、三木の『構想力の論理』第三章「技術」(1938年)である。これら三つのテキストは、西田、和辻、三木それぞれにとっての技術論を含んだ論考として読むことができる(三木には、技術の問題に正面から取り組んだ『技術哲学』という1942年に出版された著作があるが、昭和十年代前半という、近代日本哲学史における最も生産的な時期に歴史的関心を集中させる本演習では、それを補助的に取り上げるにどとめる)。
 これら三つのテキストは、しかし、個別的に技術論として読めるというだけではなく、三者相俟って、技術・身体・倫理をめぐる諸問題を総合的かつ相互連関的に考察するための一視角を開いてくれる。西田における「技術的身体」という概念は、身体が技術の対象であると同時に技術の発明・開発・適用・実践などの主体であるという両義性を集約しており、和辻の「行為的連関」という概念は、技術論が倫理学的問題と不可分であることを含意しており、三木の「構想力」論は、ロゴスとパトスとの根源にあって両者を統一するものとして働く構想力が社会において現実的形態をとるための必然的契機として技術を位置づけている。
 三者の議論を総合的かつ批判的に検討することを通じて、技術・身体・倫理をめぐる諸問題をそれらに共通する基礎的次元において捉え、そこからそれらの問題が現在の社会においてどのような実践的課題として提起されているのかを考察する。

【学修到達目標】
 テキストをそれが成立した歴史的文脈の中に位置づけて、それがその時代において引き受けようとした課題とその時代の諸制約とを理解した上で、それら事実的限定・限界と理論的射程・限界とを明確に区別すること。さらには、歴史的事実としては実現されてこなかった理論的可能性を過去のテキストから引き出すこと。

【講義スケジュール】
第1回 序論 ― 本演習の目的と方法論
第2回 西田・和辻・三木における根本概念の図式的説明
第3回 1930年代の精神史的コンテキスト ― 「主体」概念を軸として
第4回 西田の「技術的身体」論(1)
第5回 西田の「技術的身体」論(2)
第6回 西田の「技術的身体」論(3)
第7回 和辻の「行為的連関」論(1)
第8回 和辻の「行為的連関」論(2)
第9回 和辻の「行為的連関」論(3)
第10回 三木の「構想力」論(1)
第11回 三木の「構想力」論(2)
第12回 三木の「構想力」論(3)
第13回 総合的議論(1)― 批判的検討
第14回 総合的議論(2)― 哲学的可能性の探究
第15回 結論 ― 現在の課題と未来への展望

【指導方法】
 演習の主たるテキストの理解に必要とされる哲学的・哲学史的知識を確認・整理した上で、テキストに提起されている問題を把握・分析し、さらに討論を通じてその理解を深めていく。毎回、まず、検討対象箇所の内容を出席者全員で分担して報告してもらう。その報告は、要旨・重要概念リスト・図式的説明の三部からなる。当日の理解度を測るために、毎日小レポートをその日の講義の最後の三〇分ほどで書いてもらう。

【準備学習】
 テキストとして挙げた西田、和辻、三木の著作のうち、西田については論文「論理と生命」を、和辻については『倫理学』「序論」を、三木については『構想力の論理』第三章「技術」を通読しておくこと。

【成績評価の方法・基準】
 授業中の議論への参加、毎日の小レポート、発表等を総合的に考慮して評価する。

【受講要件】
 演習の目的・内容になんらか仕方で関心がある人は誰でも受講できる。

【テキスト】
 西田幾多郎『論理と生命 ― 西田幾多郎哲学論集II』(岩波文庫、1988年)、和辻哲郎『倫理学(一)』(岩波文庫、2007年)、『三木清全集』第8巻(岩波書店、1985年、同版に準拠したPDF版全集がhttp://book.geocities.jp/shomiki06/zenpdf.htmlからダウンロードできる)。

【参考書】
 三木清『技術哲学』(『三木清全集』第7巻、1985年)。鹿野政直『近代日本思想案内』(岩波文庫、1999年)。熊野純彦編著『日本哲学小史』(中公新書、2009年)。苅部直『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫、2010年)。田中久文『日本の哲学をよむ 「無」の思想の系譜』(ちくま学芸文庫、2015年)。その他の参考文献については、授業中に随時紹介する。

【関連分野・関連科目】
 技術の哲学、行為の哲学、科学哲学、倫理学、身体論、近代日本思想史
























































六月の研究活動予定

2016-05-02 04:35:00 | 哲学

 昨日の記事は、五月の仕事の予定を自分で整理するためのメモに過ぎなかったが、今日の記事では、六月の研究活動計画を自分のために整理しておきたい。
 六月にもまだ大学の仕事はもちろん残ってはいるが、精神的エネルギーは、これを研究発表準備のための思索に集中させる。
 六月二十五日・二十六日の二日間、名古屋の南山大学の宗教文化研究所での和辻哲郎ワークショップに参加する(こちらがプログラム)。発表原稿は当然まだ一行も書いていないが、発表要旨の提出は二月末が締切りだったので、それに間に合うように書いたのが以下の文章である。

テキストの地層学的解析と精神史的アプローチ
― 将来の倫理学のための方法序説 ―

 和辻が1922年に発表した「『源氏物語』について」は、一つの作品として認証された全体を構成しているテキスト群間の不整合・亀裂・断層から、個々のテキスト相互の成立時期・文脈を確定していくという、いわば地層学的解析方法を日本の文学作品に初めて適用し、源氏物語研究に成立論という新たな研究領域を拓いた画期的な論文である。
 当時の独英の古典文献学に学んだ文献批判の方法を巧みに応用したこの論文は、しかし、単に一文学作品の内在的研究に終始するものではなかった。一個の作品内の相異なったテキスト各層とそれらの層間関係の解析結果が、和辻においては、その重層性を可能にしている精神環境についての考察を必然的に要請しているからである。
 時代精神としてその環境特性の抽出を試みたのが、同年発表の論文「「もののあはれ」について」である。和辻は、そこで、『源氏物語』解釈及びそれに代表される平安文学観を近代に入っても支配していた本居宣長の「もののあはれ」論に対する果敢な批判を通じて、時代精神の抽出作業を行い、その中で存在と当為の関係にも説き及んでいる。
 本発表は、和辻倫理学の一つの暗黙の方法序説を上記二論文から読み取ることを試みる。

 上記の和辻の二論文はいずれも『日本精神史研究』に収められている。初出は「もののあはれ」論文の方が先だが、方法論的観点から見ると、この論文は「源氏物語」論文の方法と帰結を前提としている。それゆえであろう、『日本精神史研究』では、「源氏物語」論文、「もののあはれ」論文の順で並んでいる。
 どちらの論文も、あからさまに本居宣長を「論敵」としている。宣長の源氏物語論は、明治以降の日本古典文学研究にも多大の影響を及ぼし続けた。まだその影響下にあった大正期に、三十三歳の和辻は、その宣長の権威に単独で敢然と挑んだのである。
 その際、和辻が用いたテキスト分析の方法は、主にドイツの古典文献学者ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフと英国の古典学者ギルバート・マレーのそれに依拠している。前者が、文献学者としてのニーチェの苛烈な批判者だったことは示唆的である。なぜなら、二十四歳のとき処女作『ニーチェ研究』で哲学者としてデビューした和辻の宣長批判は、学問の方法論という点において、自己批判契機を有していると見ることができるからである。
 対象とする文献の重層的なテキスト構造の亀裂を内在的に読み解いていく和辻の鮮やかな手捌きは、テキスト分析を超えて、その重層性及びそこに走っている亀裂をもたらした歴史的・社会的原因の探求へと和辻を向かわせた。
 その探求姿勢が、いかなる作者であれ創作に際してそれから完全に自由ではあり得ない時代精神の把握へと和辻を導いた。しかし、時代精神は、精神史・思想史にとって決定的に重要な構造契機でありながら、方法的把握が困難な対象である。それを考察対象とするためには、いかなる方法論が必要とされれるか。宣長批判を展開した上掲二論文は、この問いに対する和辻の自覚的な一つの答えにほかならない。
 その答えの中に、将来の倫理学のための一つの方法序説、少なくともその素描を読み取ることができると私は考える。