内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈もの〉が「このもの」になるとき(承前)― ジルベール・シモンドンを読む(62)

2016-05-06 03:36:44 | 哲学

 昨日引用した箇所の後半だけ、再度以下に引用する。

on pourrait dire que, du point de vue de l’artisan, l’eccéité de l’objet ne commence à exister qu’avec l’effort de mise en forme ; comme cet effort de mise en forme coïncide temporellement avec le début de l’eccéité, il est naturel que l’artisan attribue le fondement de l’eccéité à l’information, bien que la prise de forme ne soit peut-être qu’un événement concomitant de l’avènement de l’eccéité de l’objet, le véritable principe étant la singularité du hic et nunc de l’opération complète (ILFI, p. 59).

 職人の眼からすると、対象の「このもの性」は、その対象を「形にする」(« mise en forme »)あるいはそれに「形を与える」努力とともにしかそれとして現に存在し始めない。この「形にする」という努力が或る対象の「このもの性」の始まりと時間的に一致しているのだから、職人が「このもの性」の基礎を « information » に帰すのは当然のことである。上掲の引用の前半部でそう言われている。
 ここでの « information » を「情報」とは訳せないことは明らかであろう。この « information » という、シモンドンにおいて特異な仕方でかつ曖昧さを含んだままに使用されてはいるが、きわめて知的生産性の高い概念については、三月・四月の記事で数回取り上げているので(3月10日28日30日31日4月12日13日。日付上をクリックするとこれらの記事へ飛ぶようにリンクが貼ってあります)、それらを参照していただくことにして、ここでは再論しない。
 あるものが「形に成る」(« prise de forme »)という出来事は、そのものの「このもの性」の到来と同時的である。これが第一次的な « information » とシモンドンによって呼ばれる事柄である。
 このような思考の根底にあり、それを常に活性化し展開・発展させていく原動力となっているのは、「真の原理は、十全なる作用の〈今〉〈ここ〉という単独性にある」という、一切の抽象化に先立つ具体的な個体化過程を存在生成の原理として捉える哲学的直観である。