内的自己対話-川の畔のささめごと

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個体化論を通じて実体論と一元論の彼方へ ― ジルベール・シモンドンを読む(68)

2016-05-12 04:00:30 | 哲学

 昨日その前半を読んだ段落の後半を今日は読む。
 「序論」ですでに繰り返し主張されていたことだが、シモンドンの個体化論は、個体化された個体に基礎を置くものではない。そのようないわば似非個体化論には、本来構成されたものに過ぎない個体をこれ以上分割不可能な存在の基礎単位とするという致命的な欠陥がある。
 本来時間空間的に限定的な仕方で構成さたものに過ぎない個体をその基礎に置く個体存在論では、実体論を克服することはできない。仮にその個体に複数性・多元性を認めたとしても、他の個体あるいはその個体が成り立つ場所との関係なしに各個体にその存在を認める点において、いずれの場合も、実体論にとどまる。

Une énergie potentielle, mesurable par une grandeur scalaire, peut être asservie par une structure, faisceau de polarités représentables de manière vectorielle. La genèse de l’individu s’opère par la relation de ces grandeurs vectorielles et de ces grandeurs scalaires. Il ne faut donc pas remplacer le substantialisme par un monisme de l’individu constitué. Un pluralisme monadologique serait encore un substantialisme. Or, tout substantialisme est un monisme, unifié ou diversifié, en ce sens qu’il ne retient qu’un des deux aspects de l’être : les termes sans la relation opératoire. L’individu physique intègre dans sa genèse l’opération commune du continu et du discontinu, et son existence est le devenir de cette genèse continuée, prolongée dans l’activité, ou en suspens (p. 97).

 潜在的エネルギーは、スカラー量として計測可能だが、ベクトルとして表現可能な極性の束である構造によって統御され得る。個体の生成は、ベクトル量とスカラー量との関係によって実現される。それゆえ、実体論に置き換えるに、構成された個体の一元論を以ってしてはならない。モナドロジー的な多元性を認めてもなお、それは一つの実体論である。他方、あらゆる実体論は、一つの一元論であり、そこには統一化されているか多様化されているかの違いがあるだけである。その違いは、存在の二つの相のうちのいずれを取るかに拠る。いずれの場合も、在ると言えるのは、操作的関係が互いの間にない諸項だけだということになる。しかし、物理的個体がその生成過程の中に統合するのは、連続的なものと非連続的なものとに共通する操作であり、物理的個体の存在は、活動の中に継続され延長された生成過程か、あるいは中断された生成過程なのである。
 あらゆる個体をその生成の相の下に見る個体化理論にしてはじめて、実体論と一元論の克服が可能になる。