内的自己対話-川の畔のささめごと

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エピクロス派とストア派、原子とコスモスの間にあるもの ― ジルベール・シモンドンを読む(71)

2016-05-15 08:06:29 | 哲学

 昨日の記事で引用した第一部第三章冒頭の哲学史的記述には続きがあって、そこでまず昨日の引用箇所で名前が挙げられていた原子論者たちの所説の概略が示され、その後にストア派の学説の概説が続く。そこにシモンドン独自の解釈が示されているわけではないが、シモンドンが古代哲学史に何を見ようとしているのかを知るために一瞥を与えておく。
 前者がこれ以上分割できない最小の存在である原子にのみ不変の実体性を有した個体を認めるのに対して、後者は、逆に、これ以上大きな存在は考えられない宇宙にのみ真に不変な唯一の個体性を認める。両者は、この点では、真っ向から対立していると言える。
 しかし、両者は、不変の個体性を人間存在の大きさの秩序には認めないという点で共通している。どちらの立場も、最も身近に観察できる人間存在を究極の個体とは認めないという点で一致している。
 シモンドンによれば、この両極端な立場の間の唯一の違い、その違いのもたらす帰結によって極めて重要とされる違いは、ストア派が主張する全体の絶対性は一切の関係をそのうちに内包するのに対して、エピキュリアンら原子論者たちが主張する分割不可能なものの絶対性はそれを一切排除することにある。
 絶対的個体を人間的秩序の彼方に探求しようという両者に共通する探求姿勢はどこから来るのであろうか。それは、社会的集団への人間の統合に由来するさまざまな偏見から解放された探求への意志であろうとシモンドンは言う。いずれの場合も、閉ざされた都市社会は、絶対的な物理的個体の発見によって、その実体性を否定される。エピクロス派は、原子というそれ自体の内に完全に閉じこもるものによって、ストア派は、宇宙市民という概念の超越性と普遍化によって、それを否定する。
 ところが、その結果として、どちらの場合も関係性をその一般的形式において考えることができなくなってしまう。前者においては、すべての関係は仮初のものであり、複合的なものは不安定なものでしかなくなり、後者においては、関係はすべて全体に吸収されてしまう。いずれの場合も、人間同士の関係および社会的なものにそれとしての存在性を付与することはできなくなってしまう。