内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

動物を起動性のある植物と考える ― ジルベール・シモンドンを読む(77)

2016-05-21 06:05:34 | 哲学

 動物的個体化は、ある意味で、植物的個体化よりも複雑なものとして考えることができる。しかし、逆に、動物を「起動的な植物」(« végétal inchoatif »)として考えることもできる。その場合、動物は、植物の再生時に現われる諸々の可能性 ― 運動性、受容性、反応性 ― などを保持したまま、自己発展・自己組織化するものということになる。
 生命的個体化は、物理的個体化のもっとも早期の段階の相を保持・拡張する、と考えてみよう。そうすると、生きているものは、物理的なものに属し、その速度が弛められ、無限に拡張されつつあるものだということになる。
 このように考えると、動物的個体化とは、植物的個体化のもっとも早期の段階にある状態から食物を摂取し、成熟した植物に成る以前の段階にある何ものかを己の内に保ち、とりわけ、植物相においてよりもより長い時間に渡って、「個体形成に必要なものを受け取る能力」(« la capacité de recevoir de l’information »)を保持することだとも考えられる。

































































ネオテニー、あるいは幼形(幼態)成熟 ― ジルベール・シモンドンを読む(76)

2016-05-20 12:30:15 | 哲学

 昨日の記事で見たような異なった個体クラス間関係についての解釈図式を、より一般的に流通している諸概念に近づけて考えるにはどうすればよいか。
 シモンドンは、生物学におけるネオテニーにその手掛かりを見出している。ネオテニーは、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のことである。幼形成熟、幼態成熟ともいう。昆虫や両生類によく見られる現象だが、人間も一種のネオテニーだとする学者もかつてはいた。
 このネオテニー的な関係を異なった個体クラス間にまで一般化し、生物という一つの大きなカテゴリーの中に連続した可能性としてのネオテニー的発達を想定しようとシモンドンは言うわけである。
 つまり、個体の再生器官である性的器官は十分に発達していながら、それ以外の器官においては、まさに未発達・未成熟であるがゆえにこそ、それだけそれらの器官では可塑性が高く、場合によっては適応力もそれだけ大きいと考えるのである。
 他方、このネオテニー的アナロジカル思考によれば、この未発達・未成熟な部分が、その個体クラスより「原始的」な段階にある別の個体クラスの性質・機能を保持すること、あるいはその個体クラスと関係・繋がりを保つことを可能にしてもいる。






























































安住することなく自己増幅する結晶体のように ― ジルベール・シモンドンを読む(75)

2016-05-19 05:16:05 | 哲学

 昨日の記事で引用した段落の次の段落は短い。今日はそれだけ読む。

Selon cette manière de voir, l’individuation vitale viendrait s’insérer dans l’individuation physique en en suspendant le cours, en la ralentissant, en la rendant capable de propagation à l’état inchoatif. L’individu vivant serait en quelques manières, à ses niveaux les plus primitifs, un cristal à l’état naissant s’amplifiant sans se stabiliser (p. 152).

 生命的個体化を物理的個体化が完遂された後にやってくる別次元と考えるのではなく、後者の過程の中に介入してその動性を延長・拡大するという見方を取るとき、この世界はどう見えるか。
 生命的個体化は、物理的個体化の過程に自らを挿入し、それによって後者の過程を中断し、緩やかにし、起動的な状態での伝播を可能にする。生ける個体は、言ってみれば、その最も原初的なレベルにおいて、生まれつつある結晶体のようなもので、己を安定化することなしに自己増幅する。



































































物理化学的なものと生命的なものとの間 ― ジルベール・シモンドンを読む(74)

2016-05-18 13:36:58 | 哲学

 ILFI第一部「物質的個体化」で挙げられている物理化学的現象の諸例をよく理解するには、それ相当の物理化学の知識が必要とされる。残念ながら、私にはそのような知識が欠けている。したがって、それらの部分については、ただ一通り直訳することさえ難しい。ところが、それらの部分がよく理解できなければ、シモンドンの個体化論の広がりと奥行きを十分には捉えることできないだろうと思う。
 そのような私自身の理解力の限界を認めた上で、第一部の最後の四つの段落を読んで、物理レベルの個体化と生命レベルの個体化とをシモンドンがどのようにリンクさせようとしているのか、その理解に努めよう。

Il est habituel de voir dans les processus vitaux une complexité plus grande que dans les processus non vitaux, physico-chimiques. Pourtant, pour être fidèle, même dans les conjectures les plus hypothétiques, à l’intention qui anime cette recherche, nous supposerions que l’individuation vitale ne vient pas après l’individuation physico-chimique, mais pendant cette individuation, avant son achèvement, en la suspendant au moment où elle n’a pas atteint son équilibre stable, et en la rendant capable de s’étendre et de se propager avant l’itération de la structure parfaite capable seulement de se répéter, ce qui conserverait dans l’individu vivant quelque chose de la tension préindividuelle, de la communication active, sous forme de résonance interne, entre les ordres extrêmes de grandeur (p. 152).

 習慣的には、非生命的な物理化学的過程によりも生命過程により大きな複雑さを認める。しかし、最も仮説的な推量においても、個体化理論を動機づけている意図に忠実であるためには、次のように想定することになるであろう。
 生命的個体化は、物理化学的個体化の「後」にやってくるのではない。物理化学的個体化過程において、その過程が完遂される前に、個体化が安定的な均衡状態に到達していないときに、生命的個体化はそれを中断しにやってくる。そして、物理化学的個体化がだだ繰り返されうるだけの完全な構造の反復になる前に、それが延長・拡張されることを可能にする。このことが前個体化的緊張に属する何か、積極的コミュニケーションに属する何かを生きている個体の中に保存する。その保存は、大きさの秩序の極大・極小間の内的共鳴という形を取る。























































物理的諸現象にとって本質的な非連続性 ― ジルベール・シモンドンを読む(73)

2016-05-17 12:24:18 | 哲学

 今日の記事は、ILFI第一部第三章第一節「連続と非連続」第一項「非連続性の機能的役割」の最後の二つの短い段落(101頁)を、そこにごくわずかな補足を加えて訳しただけである。
 関係が存在のレベルに定位され得るようになったのは、非連続量という概念が粒子の概念と結び付けられたときからである。物質の非連続性を単に細粒構造からなる、つまりより小さな単位における連続性に還元してしまうと、古代哲学における物理的個体の構想が引き起こした諸問題の大半はそのまま残されてしまうことだろう。
 関係理論が可能になるためには、非連続性の概念が諸現象の表象にとって本質的にならなければならない。この概念が量塊に対してだけではなく、負荷、粒子群が占めることができる安定的な位置、構造の変化において吸収あるいは譲渡されたエネルギー量などにも適用されなければならない。作用量子は、媒介的状態を介することなく、突然の飛躍によって変化する構造の相関項である。


























































実体と様態とは同じ存在レベルにある ― ジルベール・シモンドンを読む(72)

2016-05-16 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で見たように、エピクロス派の立場においては、唯一の真の関係は、他なるもの・外なるものからまったく切り離された人間の自己自身に対する関係だけであり、ストア派の立場においては、人間と宇宙との関係だけである。
 しかし、このような帰結をもたらした自然学は、最初からあまりにも倫理的な要請のみによって動機づけられており、その結果として、これらの古代哲学派においては、根本的な物理的個体そのものの探究が不毛なままにとどまってしまった。
 このような不毛さから自然の探究を間接的な仕方で救うことになるのが、キリスト教道徳思想である。倫理学に非物理的な根拠を与えることによって、キリスト教道徳思想は、物理における個体の探究から道徳的原理の基礎づけという性格を取り除くことで、物理的探究を倫理学的要請から解放したのである。
 エピクロス派とストア派における自然学と倫理学との関係から、キリスト教道徳思想が両学の分離に間接的な仕方で貢献したことまでの過程を概説するシモンドンの史的叙述は、そこからいきなり十八世紀末に飛ぶ。
 中世まるごとと近代の前半をすっ飛ばしてしまうのは随分乱暴な話ではあるが、それは、十八世紀の終わりになってようやく、物質の非連続性、異質な物質間関係、個体とその環境との関係等が自然科学の諸分野で考察の対象になってくるというシモンドンの科学史観に拠る。この方向での科学的探究が、粒子をある場に結びつけられたものとする物理的世界像に到る。そこに到って、相互的な関係にある粒子群によって構成されているものの構造の変化をエネルギー・レベルの変化という尺度で計測することが可能になった。
 この科学的世界像の転回にシモンドンが特に注目するのは、関係が存在と同等の価値を有すること、関係が存在に単に付随するだけの偶有的なものとしてではなく、存在そのものの本来的な様態であることが、この転回によって認識可能になったからである。
 このような新しい視角から見るとき、物理的個体において、実体と様態とは同じ存在レベルにある。実体とは、様態の安定性のことであり、様態とは、実体のエネルギー・レベルの変化のことに他ならない。





























































エピクロス派とストア派、原子とコスモスの間にあるもの ― ジルベール・シモンドンを読む(71)

2016-05-15 08:06:29 | 哲学

 昨日の記事で引用した第一部第三章冒頭の哲学史的記述には続きがあって、そこでまず昨日の引用箇所で名前が挙げられていた原子論者たちの所説の概略が示され、その後にストア派の学説の概説が続く。そこにシモンドン独自の解釈が示されているわけではないが、シモンドンが古代哲学史に何を見ようとしているのかを知るために一瞥を与えておく。
 前者がこれ以上分割できない最小の存在である原子にのみ不変の実体性を有した個体を認めるのに対して、後者は、逆に、これ以上大きな存在は考えられない宇宙にのみ真に不変な唯一の個体性を認める。両者は、この点では、真っ向から対立していると言える。
 しかし、両者は、不変の個体性を人間存在の大きさの秩序には認めないという点で共通している。どちらの立場も、最も身近に観察できる人間存在を究極の個体とは認めないという点で一致している。
 シモンドンによれば、この両極端な立場の間の唯一の違い、その違いのもたらす帰結によって極めて重要とされる違いは、ストア派が主張する全体の絶対性は一切の関係をそのうちに内包するのに対して、エピキュリアンら原子論者たちが主張する分割不可能なものの絶対性はそれを一切排除することにある。
 絶対的個体を人間的秩序の彼方に探求しようという両者に共通する探求姿勢はどこから来るのであろうか。それは、社会的集団への人間の統合に由来するさまざまな偏見から解放された探求への意志であろうとシモンドンは言う。いずれの場合も、閉ざされた都市社会は、絶対的な物理的個体の発見によって、その実体性を否定される。エピクロス派は、原子というそれ自体の内に完全に閉じこもるものによって、ストア派は、宇宙市民という概念の超越性と普遍化によって、それを否定する。
 ところが、その結果として、どちらの場合も関係性をその一般的形式において考えることができなくなってしまう。前者においては、すべての関係は仮初のものであり、複合的なものは不安定なものでしかなくなり、後者においては、関係はすべて全体に吸収されてしまう。いずれの場合も、人間同士の関係および社会的なものにそれとしての存在性を付与することはできなくなってしまう。






















































自然学はすでに倫理学である ― ジルベール・シモンドンを読む(70)

2016-05-14 16:40:43 | 哲学

 ILFI の第一部第三章は、「形と実体」(« Forme et substance »)と題されている。同章は三節に分かれ、それぞれ「連続と非連続」(« Continu et discontinu »)、「粒子とエネルギー」(« Particule et énergie »)、「非実体的個体。形成と共存可能性」(« L’individu non-substantiel. Information et compatibilité »)をその見出しとしている。それぞれの節はさらに三項あるいは四項から成っている。
 同章の冒頭は、古代ギリシア哲学における自然学と倫理学との関係から説き起こされている。

L’injonction socratique par laquelle la pensée réflexive était rappelée de la Physique à l’Ethique n’a pas été acceptée dans toutes les traditions philosophiques. Les « fils de la Terre », selon l’expression de Platon, se sont obstinés à rechercher dans la connaissance de la nature physique les seuls principes solides pour l’éthique individuelle (p. 99).

 プラトンのソクラテス的対話篇の中では、自然学から倫理学へと反省的思考を呼び戻すことが一つの根本的な要請であったが、それは必ずしもすべての哲学的伝統の中で受け入れられていたわけではなかった。プラトンによって「大地の息子たち」と呼ばれた哲人たちは、物理的自然の中に個人の倫理にとっての唯一堅固な原理を執拗なまでに探求した。

Déjà, Leucippe et Démocrite avaient montré la voie. Epicure fonde sa doctrine morale sur une physique, et cette même démarche se rencontre dans le grand poème didactique et épique de Lucrèce. Mais un trait remarquable de la relation entre la Philosophie et la Physique chez les Anciens est que la conclusion éthique est déjà présupposée dans le principe physique. La physique est déjà éthique (ibid.).

 すでにレウキッポスとその弟子デモクリトスとがその探求の途を示していた。エピクロスは、その道徳説を一つの自然学の上に築いた。この同じ方途は、ルクレティウスの偉大なる教化的叙事詩『事物の本性について』にも見られる。古代の哲人たちにおける哲学と自然学との関係の際立った特徴は、倫理的な帰結が物理的な原理の中にあらかじめ想定されていることである。自然学はすでに倫理学である。





















































個体がそこに在るとき、コミュニケーションはもう始まっている ― ジルベール・シモンドンを読む(69)

2016-05-13 03:55:37 | 哲学

 ILFI の第一部「物理的個体化」第二章「形とエネルギー」の最終段落を読む。

Ceci suppose que l’individuation existe à un niveau intermédiaire entre l’ordre de grandeur des éléments particulaires et celui de l’ensemble molaire du système complet ; à ce niveau intermédiaire, l’individuation est une opération de structuration amplifiante qui fait passer au niveau macrophysique les propriétés actives de la discontinuité primitivement microphysique ; l’individuation s’amorce à l’échelon où le discontinu de la molécule singulière est capable — dans un milieu en « situation hylémorphique » de métastabilité — de moduler une énergie dont le support fait déjà partie du continu, d’une population de molécules aléatoirement disposées, donc d’un ordre de grandeur supérieur, en relation avec le système molaire. La singularité polarisante amorce dans le milieu amorphe une structuration cumulative franchissant les ordres de grandeur primitivement séparés : la singularité, ou information, est ce en quoi il y a communication entre ordres de grandeur ; amorce de l’individu, elle se conserve en lui (p. 97).

 昨日まで見てきた物理レベルにおける個体化の特性は、以下のことをその前提とする。
 個体生成過程としての個体化は、粒子的要素の大きさの秩序と十全なシステムのモル的全体の秩序との中間のレベルに位置する。この中間レベルにおいては、個体化は増幅的構造化作用であり、この作用が、原初的にはミクロ物理的非連続性の活動的属性をマクロ物理レベルへと移行させる。個体化が始まるのは、非連続的であった特定の分子が、準安定性をもった「質料形相的な状態」にある環境において、エネルギーを調整できるようになるときである。そのとき、このエネルギーの保持形態は、すでに連続的なものの一部を成している。つまり、一定の確率で配列された分子群の一部を成している。それゆえ、モル的全体システムとの関係において、より高次な大きさの秩序に属している。極性をもった特異性は、不定形な環境において、累加的構造を発生させ、この構造が、原初的には分離されていた複数の大きさの秩序間を横断する。個体として形成されることで生まれた特異性は、異なった大きさの秩序間にコミュニケーションがそこにあるということを意味している。個体の始まりである特異性は、己自身を個体の中に維持する。
 上掲の原文を、若干説明的な言い換えを交えて訳すとこのようになる、と思う(弱気)。
 しかし、である。ありがたくも拙ブログのこの記事に一瞥を与えてくださった方の中には、「なんじゃぁ、こりゃぁ、さっぱりわからん、これぞ悪訳・悪文の典型だ!」とお怒りの方もいらっしゃることでしょう。そういうお叱りを受けても仕方のない文章であることは私自身よくわかっております。でも、そう言うだけではいかにも無責任ですから、私なりに原文をこのように理解したのだというところを以下に示しておきたく思います。
 個体生成以前の状態というのは、ただばらばらに分子が散らばっているだけ。それがミクロレベルの非連続性。他方、それら分子群の全体は、全体として一定の法則に従っているという意味では、マクロレベルで一つのシステムを形成している。しかし、この段階では、ミクロレベルとマクロレベルとの間に何のコミュニケーションもない。そのような初期状態から、ある一定数の特定の分子が一定の運動を始め、それがエネルギーの流れ方を規定するようになる。それが一定期間安定性をもつようになり、その安定的部分がその周りから区別されて、連続性・自律性を獲得する。このとき、この特異性をもった分子の群が個体の萌芽状態。ここに個体と環境という関係が発生し、初期に与えられた全体システムがそれによって増幅される。と同時に、個体を構成するミクロレベルの分子群とその個体がそこに属する環境との間にコミュニケーションが発生する。つまり、個体は、ミクロとマクロとの媒介項として、両者の間のコミュニケーションの場となる。この意味で、生成しつつある個体は、ある特異性をもった関係の可変的・可動的な結節として一定の構造を備えるに到る。
 シモンドンが言いたいことをちゃんと理解できている自信はなく、もしこう読んでよいのならば、私にも少しはわかるのだけれど...というところが正直な気持ちです。















































個体化論を通じて実体論と一元論の彼方へ ― ジルベール・シモンドンを読む(68)

2016-05-12 04:00:30 | 哲学

 昨日その前半を読んだ段落の後半を今日は読む。
 「序論」ですでに繰り返し主張されていたことだが、シモンドンの個体化論は、個体化された個体に基礎を置くものではない。そのようないわば似非個体化論には、本来構成されたものに過ぎない個体をこれ以上分割不可能な存在の基礎単位とするという致命的な欠陥がある。
 本来時間空間的に限定的な仕方で構成さたものに過ぎない個体をその基礎に置く個体存在論では、実体論を克服することはできない。仮にその個体に複数性・多元性を認めたとしても、他の個体あるいはその個体が成り立つ場所との関係なしに各個体にその存在を認める点において、いずれの場合も、実体論にとどまる。

Une énergie potentielle, mesurable par une grandeur scalaire, peut être asservie par une structure, faisceau de polarités représentables de manière vectorielle. La genèse de l’individu s’opère par la relation de ces grandeurs vectorielles et de ces grandeurs scalaires. Il ne faut donc pas remplacer le substantialisme par un monisme de l’individu constitué. Un pluralisme monadologique serait encore un substantialisme. Or, tout substantialisme est un monisme, unifié ou diversifié, en ce sens qu’il ne retient qu’un des deux aspects de l’être : les termes sans la relation opératoire. L’individu physique intègre dans sa genèse l’opération commune du continu et du discontinu, et son existence est le devenir de cette genèse continuée, prolongée dans l’activité, ou en suspens (p. 97).

 潜在的エネルギーは、スカラー量として計測可能だが、ベクトルとして表現可能な極性の束である構造によって統御され得る。個体の生成は、ベクトル量とスカラー量との関係によって実現される。それゆえ、実体論に置き換えるに、構成された個体の一元論を以ってしてはならない。モナドロジー的な多元性を認めてもなお、それは一つの実体論である。他方、あらゆる実体論は、一つの一元論であり、そこには統一化されているか多様化されているかの違いがあるだけである。その違いは、存在の二つの相のうちのいずれを取るかに拠る。いずれの場合も、在ると言えるのは、操作的関係が互いの間にない諸項だけだということになる。しかし、物理的個体がその生成過程の中に統合するのは、連続的なものと非連続的なものとに共通する操作であり、物理的個体の存在は、活動の中に継続され延長された生成過程か、あるいは中断された生成過程なのである。
 あらゆる個体をその生成の相の下に見る個体化理論にしてはじめて、実体論と一元論の克服が可能になる。