内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

六月の研究活動予定

2016-05-02 04:35:00 | 哲学

 昨日の記事は、五月の仕事の予定を自分で整理するためのメモに過ぎなかったが、今日の記事では、六月の研究活動計画を自分のために整理しておきたい。
 六月にもまだ大学の仕事はもちろん残ってはいるが、精神的エネルギーは、これを研究発表準備のための思索に集中させる。
 六月二十五日・二十六日の二日間、名古屋の南山大学の宗教文化研究所での和辻哲郎ワークショップに参加する(こちらがプログラム)。発表原稿は当然まだ一行も書いていないが、発表要旨の提出は二月末が締切りだったので、それに間に合うように書いたのが以下の文章である。

テキストの地層学的解析と精神史的アプローチ
― 将来の倫理学のための方法序説 ―

 和辻が1922年に発表した「『源氏物語』について」は、一つの作品として認証された全体を構成しているテキスト群間の不整合・亀裂・断層から、個々のテキスト相互の成立時期・文脈を確定していくという、いわば地層学的解析方法を日本の文学作品に初めて適用し、源氏物語研究に成立論という新たな研究領域を拓いた画期的な論文である。
 当時の独英の古典文献学に学んだ文献批判の方法を巧みに応用したこの論文は、しかし、単に一文学作品の内在的研究に終始するものではなかった。一個の作品内の相異なったテキスト各層とそれらの層間関係の解析結果が、和辻においては、その重層性を可能にしている精神環境についての考察を必然的に要請しているからである。
 時代精神としてその環境特性の抽出を試みたのが、同年発表の論文「「もののあはれ」について」である。和辻は、そこで、『源氏物語』解釈及びそれに代表される平安文学観を近代に入っても支配していた本居宣長の「もののあはれ」論に対する果敢な批判を通じて、時代精神の抽出作業を行い、その中で存在と当為の関係にも説き及んでいる。
 本発表は、和辻倫理学の一つの暗黙の方法序説を上記二論文から読み取ることを試みる。

 上記の和辻の二論文はいずれも『日本精神史研究』に収められている。初出は「もののあはれ」論文の方が先だが、方法論的観点から見ると、この論文は「源氏物語」論文の方法と帰結を前提としている。それゆえであろう、『日本精神史研究』では、「源氏物語」論文、「もののあはれ」論文の順で並んでいる。
 どちらの論文も、あからさまに本居宣長を「論敵」としている。宣長の源氏物語論は、明治以降の日本古典文学研究にも多大の影響を及ぼし続けた。まだその影響下にあった大正期に、三十三歳の和辻は、その宣長の権威に単独で敢然と挑んだのである。
 その際、和辻が用いたテキスト分析の方法は、主にドイツの古典文献学者ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフと英国の古典学者ギルバート・マレーのそれに依拠している。前者が、文献学者としてのニーチェの苛烈な批判者だったことは示唆的である。なぜなら、二十四歳のとき処女作『ニーチェ研究』で哲学者としてデビューした和辻の宣長批判は、学問の方法論という点において、自己批判契機を有していると見ることができるからである。
 対象とする文献の重層的なテキスト構造の亀裂を内在的に読み解いていく和辻の鮮やかな手捌きは、テキスト分析を超えて、その重層性及びそこに走っている亀裂をもたらした歴史的・社会的原因の探求へと和辻を向かわせた。
 その探求姿勢が、いかなる作者であれ創作に際してそれから完全に自由ではあり得ない時代精神の把握へと和辻を導いた。しかし、時代精神は、精神史・思想史にとって決定的に重要な構造契機でありながら、方法的把握が困難な対象である。それを考察対象とするためには、いかなる方法論が必要とされれるか。宣長批判を展開した上掲二論文は、この問いに対する和辻の自覚的な一つの答えにほかならない。
 その答えの中に、将来の倫理学のための一つの方法序説、少なくともその素描を読み取ることができると私は考える。