内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(九)―〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応

2017-03-07 19:09:33 | 哲学

 時枝が自身の国語学の構想のために山内得立『現象学叙説』からいかに多くのことを学んだとしても、そして、京城帝国大学教授のポストを擲ってまでも京大の山内の下で現象学の勉強をしたいとまで思い詰めた時期があったとしても、言語過程説の理解に現象学の理解が不可欠なわけではない。おそらく、零記号という独創的な発想は、ノエシスという現象学的概念に触発されて生まれたのではないかと推測されるが、それ以外の点では、言語過程説の説明に〈ノエシス-ノエマ〉という意識構造の契機を持ち込むことは、かえって説明を混乱させるばかりか、哲学的に重大な誤解の原因にさえなりかねない。
 避けるべき誤解は、さしあたり、以下の二点に関わる。
 第一点目は、〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応という問題である。ノエシスとノエマは、意識構造において、定義上、現象の中に組み合わされた共に観察可能な二つの契機として現れるわけではない。言い換えれば、ノエシスは、それ自体としてはノエマのように表象することはできない。見えている或るものがまさにそのように見えているということを成り立たせているのがノエシスと呼ばれる作用である。ところが、時枝がノエマに対応させる〈詞〉もノエシスに対応させる〈辞〉も、言語現象としていずれも観察可能である。両者の違いは、一つの思想を表現する言語活動における機能の違いであって、意識の構造契機としてのノエマとノエシスとの違いにそのまま対応するわけではない。もし対応するのならば、日本語においては、意識の〈ノエマーノエシス〉構造を言語現象として対象化して分析することが可能だ、という帰結が導かれてしまう。しかし、このような帰結は、両概念の現象学における基本的な定義からして、誤りとして否定されなくてはならない。
 このような〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応という問題は、思想と言語との関係というより大きな問題へと私たちの立ち返らせる。これが避けるべき誤解に関わる第二の論点である。
 時枝の言語観を、ごく簡単に図式的にまとめてしまえば、文は思想の表現であり、思想は客体と主体との結合から生れるのだから、文の成立の第一条件は、客体的要素と主体的要素とが何らかの仕方で結合していることである、となるであろう。時枝によれば、日本語においては、これら二要素がそれぞれ詞と辞とに対応している。
 しかし、「文は思想の表現であり、思想は客体と主体との結合から生れる」という一般的規定はすべての言語に適用されなければならないはずである。とすれば、日本語のように詞と辞との結合から成るのではない言語の場合は、客体的要素と主体的要素との結合の仕方が異なっている、言い換えれば、その結合が異なった仕方で表現されているはずである。そうでなければ、どのような言語であれ、それが思想の表現であるのならば、日本語における詞と辞との区別と同様な区別を備えていなければならないことになってしまう。この推論をさらに推し進めれば、〈詞-辞〉構造を有たない言語は、思想を表現することができない、という驚くべき結論に至ってしまう。
 もちろん時枝自身がこのような極端な主張をしたわけではない。しかし、今、フッサール現象学に対するあらゆる解釈と批判は括弧に入れて、「意識の基本構造はノエシス-ノエマ構造である」というテーゼを基礎的措定としてそのまま受け入れるとしよう。そうすると、一般に、意識構造は、特定の言語の構造には左右されないはずであり、したがって、意識構造がある特定の言語においてのみ言語構造として顕在的に反映されるということ、つまり、特別に「現象学的な」自然言語が存在するということはないはずである。
 問題を大きくしすぎて、議論を拡散させ、散漫な思考に陥らないように、私たちは、ここで一旦現象学を離れ、時枝の言語過程説そのもの検討に入っていこう。











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