昨日土曜日午前中、自宅から片道9キロほどの郊外にある巨大ショッピング・センターまで自転車で買い物に出かけた。そのセンターに至るまでの道のりのほぼすべてはマルヌ・ライン運河沿いの自転車専用道路である。往復一時間ほどでちょうどよい運動にもなる。
往路の空は曇りがちだったが、ところどころに青空も垣間見えて、今にも雨が降り出しそうではなかった。ところが、買い物を終えて建物の外に出ると、さっきより空気が湿っぽく、空を覆う雲も厚くなっている。案の定、復路の途中でポツポツと降りはじめた。たいした降りにはならないうちに自宅に帰り着くことができた。ガレージに自転車を閉まったところで本降りとなった。
午後はまったく降り止まず、ジョギングは諦めた。読書に沈潜した。幸いにも、ここのところ連日出遭っていた心を打ちのめす文章に対面せずにすんだ。それどころか、あたかも光の届かぬ水底に沈降していくばかりの陰鬱な心を慰める文章に出会うことさえできた。そのひとつがホイジンガの『中世の秋』の以下の一節。
いかなる事物も、その意味は、現象界における機能と形態の枠内につきるということであるならば、事物は、すべてこれ、不条理であること、すべての事物は、その存在の糸をはるかにたどれば、かならず彼岸の世界につながるということ、このことは、中世の人びとの、けっして忘れぬところであった。
このことは、わたしたちもまた、言葉では説明できない覚知として、時々刻々に経験するところである。葉末にかかる雨の音、卓上を照らすランプのあかり、こういった日常生活の、ごくあたりまえのプロセスをきっかけに、日常の思考行動の意味の範囲をつきぬけた、より深い覚知へといたることが、わたしたちにも、ままあるではないか。
この覚知は、病的な不安感をともなうこともある。事物が、まるで人間の意志を帯しているかのようにのしかぶさり、解かねばならなず、解くことあたわぬ謎をはらんでいるかのように感じられるのだ。だが、他方、この覚知は、わたしたちじしんの生もまた、世界の隠された意味に関与しているとの静かな確信に、わたしたちの心を満たす。そのほうが、むしろ多いのだ。(『中世の秋(下)』堀越孝一訳、中公文庫、2018年。原本1976年)