人格(person / personne)という概念の定義は難しい。その困難の理由の一つはその語源的意味と現代の用法とのほとんど矛盾した関係にある。
もともと古代ギリシアにおいて役者が舞台上で付ける仮面を意味したペルソナがその後経た意味の変遷と拡大を、和辻哲郎は「面とペルソナ」(初出一九三五年)という短いエッセイのなかで次のように簡潔にまとめている。
この語(= persona)はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
つまり、本来ある劇のなかの特定の役割を表していたペルソナが近代において「人格」つまり「その人を人たらしめているもの」を意味するようになったということである。もっと端的な言い方をすれば、本来面(マスク)だったものがその人の顔になってしまったのである。
昨日まで見てきたシモーヌ・ヴェイユによる人格概念の批判のポイントのひとつがここにある。ある集団のなかでその人が演じているペルソナがその人の「心の奥底から湧き起こる叫び」を抑圧して誰の耳にも届かないようにしてしまう。そして、恐ろしいことに、ペルソナが自分だと思い込んでいるかぎり、その人自身その抑圧に気づくことができない。
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