「ケアの倫理」という表現は近年日本語でもよく見かけるようになったが、「ケアの哲学」という表現はそれほどでもないようだ。
私がここでいう「ケアの哲学」とは、ケアとは何かという哲学的な問い、種々のケアについての哲学的考察という意味ではない。ケアをその核心とした哲学という意味である。何をケアするのか。魂である。
ソクラテスの哲学は、まさに魂へのケアである。実際、『ソクラテスの弁明』の英訳では、原文の動詞 ἐπιμελέομαι に対してcare about という訳語が用いられている。日本語では「配慮(する)」と訳されることが多いようだ。
『ソクラテスの弁明』のなかで、ソクラテスが法廷においてアテナイ人たちに向かって、たとえ死刑になるとしても自分がなぜ知を愛し求めることを止めないのか説明している箇所を読んでみよう。それは端的な「哲学宣言」にほかならない。光文社古典新訳文庫の納富信留訳を引用する。
アテナイの皆さん、私はあなた方をこよなく愛し親しみを感じています。ですが、私はあなた方よりもむしろ神に従います。息のつづく限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめませんし、あなた方のだれかに出会うたびに、勧告し指摘することをけっしてやめはしないでしょう。いつものように、こう言うのです。
「世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは」と。
もしあなた方のだれかがこれに反論して、自分はきちんと配慮していると主張したら、私はその人をすぐに立ち去らせることなく、私も立ち去らずに彼を問い質して、吟味して論駁することでしょう。もしその人が徳を備えていないのに、もっていると主張しているように私に思われたら、もっとも価値あるものを少しも大切にせずにくだらないものを大切にしていると、その人を非難することでしょう。このことを、若者でも年長者でも、私は出会った人に行うのです。他所の人にも街の人にも行いますが、私に生まれが近い分、この街の人々により一層そうするでしょう。
これは神が命じておられることなのです。よくご承知ください。そして、私の神に対する奉仕ほど大きな善は、このポリスであなた方にはまだ生じていないと、私は考えるのです。そう言いますのは、私は歩き回って、あなた方の中の若者であれ年長者であれ、魂を最善にするように配慮するより前に、それより激しく肉体や金銭に配慮することがないようにと説得すること以外、なにも行っていないからです。こう言ってです。
「金銭から徳は生じないが、徳にもとづいて金銭や他のものはすべて、個人的にも公共的にも、人間にとって善きものなるのだと」と。
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